8 小姓の親友は頼もしいのです
学生寮に着いた後、お礼を述べてから、殿下に簡易報告に向かったグレン様と別れた。
そのまま自室に向かうと、ヨンサムはまだ戻ってきていなかったので、洗面所でゆっくりと傷の泥と固まった血を洗い流してから清めの魔法をかけ、自室のベッドに座る。
シャツを脱ぐと全身の青あざや切り傷が灯りの下ではっきり見えて、細かい傷が多いことが分かった。
「あー結構やっちゃってるー……。面倒だけどこういうのこそちゃんと治しとかないといけないんだよなぁ」
まずはさらしの上から肋骨付近に手を置き、ようやく回復してきた魔力で骨の組織に回復魔法をかける。それが終わってからは小さな切り傷や擦り傷、打ち身を治していく。
二年前までは、学園の端っこで地味に生きていたから怪我で困ることはほとんどなかったのに、二年前、どこかの誰かの小姓になったあたりから生傷が絶えないので、この点に関してはそれなりに苦労している。
まぁ、これでも獣医師志望だし、人対象も動物相手に比べたら不得手というだけで、治療は得意だから今のところなんとかなっているのが救いだ。
それよりもだ。
なんだあれ!なんだあれ!何だあの状況!!
――なんで今日に限ってあんなに女の子扱いだったんだよ!
さっきまで自分が置かれていた状況を思いだし、治療の片手間に無言で身悶える。
いつもなら気遣いの「き」の字も見せないくせに、ご令嬢から貴婦人から年齢層を問わず女性の扱いに長けているだけあって、怪我したこちらに負担がかからないように騎乗中調整までされていたというのもなんとなく腹立たしい。
だが何よりも今、僕にもやもやとした感情を与えているのは、自分の「女」という性別を他人に意識させられたという、その事実だ。
これまで僕はずっとグレン様に男爵令嬢だと言い続けてきたし、自分が女であることを忘れたこともない。夢の実現のために男だったら少し楽だったかな、とは思うことがないわけではないけれど、今与えられた状況でのらりくらりとやっていけばいいと思っていたから、自分が女であることを否定するということも特になかった。だからこそ、風呂や月のものといった苦労があれど、僕はこの学園生活を気に入っている。小姓のお仕事だって、多少どころでない負担にはなっているけれど、僕にとって有用な技能だって身についている。
ご主人様を含め周囲が男である点について不安に思うことは一切なかった。
でもそれは単に僕が、男と女という概念で今の自分の生活を見ていなかったせいだと気づかされた。
武術を稽古する際に、イアン様から重点的にやらされているのも「剛」ではなく「柔」だ。イアン様は全く僕の性別に気が付いていないようだが、筋力勝負になってしまう「剛」は僕に向いていないと早々に判断したらしく、主に柔術を活用するように言ってくる。
鍛えようが何をしようが、どこまでいっても僕の体が女のものであることは間違いないから、5歳ほど若返らせれば女の子とも見間違うはずのグレン様にすら簡単に御されてしまう。
訓練を積もうが、何をしようが、周りにいる男たちの力に、僕の物理的な力が敵うことはない。根本的に筋肉の質も体の構造も違う。
分かってはいたのに、どこかで誤魔化していた。
僕は目を逸らしていただけだ。自分の性別から、自分の性別ゆえの限界から。
それ――「周りは男で、僕は女だ」ということを、グレン様は否応なしに突き付けてきた。
治療に集中できなくなって、ベッドに倒れて横になり、なんとはなしに自分の手のひらを広げて眺める。
角ばった太い骨格、鍛えれば否応なしにつく筋肉、そして声変わり……これらは僕には起こらない。
丸みを帯びた体つき、小ぶりな骨格、そして(僕の場合は数)月に一度来るもの……ここでは僕だけに起こるものだ。
体格そのものが大きく変化していく年齢だから、いくら僕でも十七歳ともなれば誤魔化しが効かなくなってくる。
十五歳の時は幻術をかければなんとか身体測定も受けられたけれど、今は無理だということも分かっているから、年に一度の身体測定時には、グレン様のお力を借りて免除させてもらっているくらいだ。体つきが直接見えてしまう風呂は例え胸がなかろうと、完全に相手の視界が隠れていないと危ない。
男としてこの十年ほどを生きてきた筋金入りの僕ですら、油断すれば、簡単にばれてしまう年齢になっている。そんな時に男女を意識するなんて自爆するようなもんだ。
それが怖い。
この生活が壊れて夢を追えなくなることが怖い。
加えて、今こう考えるきっかけを与えた相手がグレン様だったこともよろしくない。
僕は、日頃の無体な仕打ちを恨みつつ、同時にどこか安心してもいた。
それは、僕が被虐趣味に目覚めたからではなく、今のままなら、意識を逸らしながら生きて、小姓として全力であの方を支えられるからだ。
無造作に扱われている時は、怒りを覚えてもどこか安心して「主従」の関係にいられる。ふざけてからかわれている時は、ご主人様の趣味の嫌がらせとしてこちらも適当に流すことができる。甘えられても、弱みを見せられても、一番信頼できる部下への信頼感ゆえと無意識のうちに分類するからこそ、適当な対応を取ることができる。
それらは全て、僕の中でグレン様が性別という観点を越えた存在だからだ。
だけど、特に茶化しもしないで女相手の対応を取られたら、今の僕には流せない。
これまであの方が僕に見せてきた態度の根本が覆されたら、僕とあの方が保ってきた微妙な均衡が崩れてしまう。
それをグレン様は見抜いていた。だから、あえて僕を女子として扱ってこなかったのかもしれない。それは言い換えれば、僕がある意味であの方の厚意に甘えていた、ということだろう。
「分かっていたならなんで今更……どうしてあんなこと言ったんですか、グレン様」
ごろりと横向きになり、無意識に丸まりかけ、その痛みで一瞬息が詰まった。
そうだ、僕、怪我してたんだった。
体を伸ばしたまま、きつく目を瞑る。
……嫌だ。
あの方を一瞬でも「異性」としてまともに認識してしまった自分が嫌だ。
僕は男として生きていくって決めているのに。
このままだと僕はあの方を小姓として支えられなくなる。
「きゅ」
「チコ……」
不安に押しつぶされそうになって顔をベッドにうずめると、チコが小さく鳴いて、頭に鼻を押し付けてきたので抱きかかえて目を瞑る。
あったかくて柔らかい体と、ふわふわな毛が僕の頬を撫でる。
今の関係が崩れないようにするためには、僕の中で生まれた一瞬の気の迷いは打ち捨てなければいけない。
結論は僕の中で明確だ。――なのに、どうしても気持ちが晴れない。
今あの方と顔を合わせたら、僕は、なにか取り返しのつかないことをしてしまいそうだ。
「あ―――――!こういう風にうじうじ考えるのって嫌いなんだよ――うがぁぁぁ!!」
「うぉ!?エル、お前いたんだな!静かすぎて分からなかったぜ!ここ開けていいか?昼のクッキーの償い、持ってきてやったから」
自部屋の私室の外からヨンサムの声がした。
下位貴族の寮の中でも、身分の違いで部屋が分かれているから、貴族が使う部屋と騎士志望の平民の部屋の内装は異なる。
平民の方は二段ベッドなるものが置かれているし、部屋自体が狭いので、私空間と共有空間の区切りがない。一方、貴族側は二人で一部屋ではあるが、ベッドのある一個人用の自室と、洗面所などがある共有部分が分かれていて一部屋にそれなりの広さがある。
同室のヨンサムにも男装がばれていないのは、このありがたい仕様のおかげだ。
ヨンサムの方は、稽古疲れでたまに、共有スペースに置いてあるソファの上でそのまま寝ていることがあるし、基本的に私室のドアを開けっ放しにしていているから(だから僕が共有スペースで動いていると起き出してくることもある)、僕しか共有スペースとの区切りのドアを利用していない。
慌ててシャツの前のボタンを留めて、起き上がってドアを開けると、湯上りの香りを漂わせるヨンサムが立っていた。
「さっき帰ったんだ。ヨンサムも自主練終わり?」
「あぁ。ちょうど風呂行って帰ってきたとこ」
「遅くまでお疲れ。で?わざわざ声をかけてきたってことはそれなりのものを?食べ物の罪はそう簡単には償えないよ?」
「へへっ見て驚くなよ?お前の分もと思って多めに作ってもらったんだぜ?」
ヨンサムがそう言って指し示したのは、焼き立てのりんごタルトだった。
甘酸っぱい香りを漂わせるホール一個分のそれを持ち上げて見せつけてくる。
「今大会前で訓練量多いだろ?それで夜食とるやつも多いんだ。これはわざわざ言っておいて焼いてもらった特別品なんだよ!お前ならヨダレ垂らして欲しがるだろうと思ったんだ―――けど、しなびた葉っぱみたいな顔してんな」
「どういう顔だよ」
「そういう顔。……なんかあったか?またグレン様にいじめられたとか?いやでもそのくらいでお前がへこたれるわけねぇし違うか」
言いながら共有スペースに戻り、タルトを置いて、当然のようにお皿を二枚取り出すヨンサム。
ここに入学してからずっと傍にいたこいつのことを男だと考えて、結婚なんてことを仮定したときですらこんなもやもやとした不快感はなかったのに。その後も特に意識することなく過ごせてきたのに。
どうしてグレン様相手にはそうできないんだろう?
「なぁ、ヨンサム。訊いていい?」
「何?」
「僕って、精神が軟弱なのかな?」
「はぁ?どの口が言ってんの?お前ほど豪胆なやつ、俺は知らねぇよ?」
「あ、リッツもいい勝負してっけどな」などと言いながら、タルトをナイフで切り分けたヨンサムは、ソファに腰掛け、目の前の木製テーブルに当たり前のように僕用の一皿置いてくれる。
「狙撃手と誤解される危険覚悟でフレデリック殿下を覗き見に行ったり、身分の違いを意識することなくあの方々と気軽に話せたりできるお前のどこが軟弱だって?繊細なやつはグレン様の小姓なんぞに命じられた時点で腹痛起こして寝込むに決まってるだろ。なのにお前と来たらぶつくさ文句言ってボロボロになりながらもやりこなしてるじゃねぇか。知ってるか?小姓やる前よりも今の方がお前、生き生きしてるんだぜ?」
言われたことに驚いて目を瞬かせる。
「……僕が、生き生き?」
「そ。文句言いながらもさ、楽しそうなんだよな。重役のプレッシャーに押しつぶされるどころか、やりがいを感じられるお前のどこが軟弱なんだよ。うじうじしてんのって、お前らしくねぇだろ」
「僕、らしい……」
僕は普段何を考えてる?――何も考えてない。
こう言うとバカのようだけど、うだうだ考える余裕なんて本当にないのだ。時間的も、体力的も、精神的も。常にいっぱいいっぱいで生活している。
夢のために頑張る、自分の信念に従って動物たちを助ける、ご主人様を支えることに全力を尽くす。
ただ、正しいと信じたことのために目の前のやるべきことに集中するのが、僕じゃないか。
ヨンサムは、自分の分のタルトを豪快に頬ばり、近寄っていったチコにもホールを切り分けて与えながら僕を見た。
「何があってそんなに弱気になってるか知んねぇけど、いつも通り能天気に、難しく考えないで体当たりしていけばいいんじゃねぇの?」
「考えるな、当たって砕けろ!」が、僕の主義で、その根本を支えてくれる存在は身近にいる。
うん、僕は当たって砕ければいいんだ。
もやもやした思いなんてふっ飛ばして、いつも通り生活すればいいんだ。いつか言われたことに本気で向き合わなきゃいけない時が来たとしても、それはきっと今じゃない。グレン様に何を言われようと、いつもの戯言だと思って無視していればいい。
そう考えたら、不思議と固まっていた心の靄は少し晴れた。
これを人は現実逃避と呼ぶだろうけれど、それでも、今の僕なら、明日グレン様の前に顔を見せることができそうだ。
いつも、悩んでいることが馬鹿馬鹿しくなるくらい清々しい励まし方をしてくれるこの親友は、にかっと笑った後に、冗談っぽく付け加えてきた。
「ま、とりあえず。食い意地張ってない大人しいエル相手にやるタルトはねぇけどな」
「だめ!僕夕食とれてないんだから!絶対食べる!」
「だったら早く来いよ!」
口いっぱいに広がったりんごタルトの甘酸っぱさは、これまで食べたどのデザートよりも美味しく感じられた。