9 小姓の危機察知機能は有能です
一歩前に足を踏み出したところでまた止まり、再度深いお辞儀をする。そっと目線をあげ、目が合ったときは多少うまくいきそうかな、と思った。
しかし、物事はそう簡単には運んでくれない。
「くああああああっ!」
もう一歩、もう一歩と足を踏み出したところで嫌な予感がして僕は咄嗟に横に跳び、その直後に砂ぼこりが舞い上がった。振り替えれば、一瞬前まで僕がいた地面が大きく抉られている。
危なかった。グレン様に無駄に鍛えられた野生の危機察知能力がなければ、僕はあの鉤爪でばっさりと切り裂かれていたはず。つい先日深手を負ったばかりの僕の腕はまだ完治していないのだ。ばっさりやられれば、ちょっとした回復魔法では追い付かなかった。
翼竜――スナイデルは、と様子を見ると、嘴を大きく開け、翼をばさばさとはためかせ、僕を近寄らせないようにけたたましい音を立てて暴れている。
嘴の端から涎を垂らし、狂乱状態だ。
こんなとき、本当は眠らせた方がいいのは分かってる。翼竜以外の魔獣も含め、本格的な治療をする際、魔獣は眠らせなきゃいけない。特に狂乱状態の魔獣なんて、そのままじゃ危なすぎてろくに診察もできないからね。
とはいえ、麻酔薬の塗布を無理矢理行えば、人間と魔獣の間にできた信頼関係には小さなヒビが入ってしまう。信頼関係って、築くのは大変なのに、壊れるときは一瞬だ。
翼竜と騎士との間の信頼関係を、ぽっと出の僕がぶち壊すことだけはしたくない。
威嚇するスナイデルと僕との距離はおよそ大人二人分ほど。幸いにしてというかなんというか、スナイデルは大人の翼竜だから体全体が大きく、視診だけならこの距離でも差し支えない。
僕はその場に立ち、じっとスナイデルの全身を観察した。
尾っぽ、異常なし。鉤爪や足にも特に問題はない。目が血走っているから、目の損傷?でもそれなら反射的に傷ついた目を庇っていてもおかしくないし、そもそも両眼を損傷しているとは考えにくい。
さっきこの騎士はなんて言っていたっけ?確か、いきなり暴れ出して、って言ってたような。
「騎士様、暴れ出す直前のスナイデルなんですけど、なにか物にぶつかったり、他の翼竜と体をぶつけたりしませんでしたか?」
「そんなことはない」
「じゃあ突然こんな風に暴れ出したんですか?」
「いや、朝、スナイデルが入っている竜舎に行ったらこうして暴れていて、私を拒絶したんだ。昨日竜舎で別れるときはこんなことはなかったのに……」
朝から?ということは、いきなりってほど前触れもなく暴れ出したんじゃないな。とすると、何か食べ物がまずかったか……?でも、身体の調子が悪いのであれば竜舎の中で丸くなって威嚇するだけで、こんな風に錯乱したように暴れたりはしないはず……
考えを巡らせながら、上皮の状態や翼の視診をするも、暴れた際に出来たと思われる細かい傷以外は特に見当たらない。
僕には手に負えない、正式な獣医師を呼ばなきゃ――と思い始めた刹那、グレン様の赤い瞳が僕をせせら笑っている姿が不意に浮かんだ。
――お前さ、これから本職にしようってのに、いつまでそんな甘えたこと言ってるつもり?小姓としても未熟で、獣医師としても使えない。そんなお前を使ってる僕に感謝してほしいよね――
小馬鹿に笑うその目の奥は、本当はとても落胆している。何もかも中途半端なままの僕をあの方が見限ってしまうんじゃないかと、心のどこかで僕はいつも怯えている気がする。
見限られるのは嫌だ。
あの人の人間性についてはとっくにこっちから見限ってるけど、僕の実力を見習わせて、僕が獣医師として生きていけるってことを見せつけて、お願いしますって言わせて小姓をやってやるって立場になってみたい。そうじゃないと僕のこの日ごろの溜まりに溜まった鬱憤は晴らせない。
だから僕、諦めるな、考えろ!考えることをやめた人間はただの肉の塊だってもうグレン様に言われたくないだろ(今のところ、グレン様の目には丸焼きにぴったりのさぞかし美味しそうな肉の塊に映ってるんだろうよ)!
と、ふと、スナイデルの足元の地面に小さな赤い血痕らしき痕があることに気が付いた。暴れて踏み固められた地面の上、砂ぼこりで見えにくくなっているから気づけなかったけれど、あの場所って……もしかして――?
「騎士様!」
「なんだ!」
スナイデルから二歩ほど下がって、でも目をスナイデルの方に向けたまま、素早く尋ねる。
「スナイデルは女の子ですか?」
「あぁ、雌だが……」
「それから、最近雄と交尾をさせませんでしたか!?最近、と言っても大体3月から半年前くらいに!」
「あ、あぁ……4月ほど前に他の翼竜と、確か、いい感じ、とかなんとか獣医師が……」
「それです!!」
怪訝そうな声の騎士を背に、僕は確信に近い力強さで答えた。
「卵です!」
「は?」
「スナイデルは懐妊したんです!」
「えぇ!?」
そうだ。ピギーのために翼竜の生態について色々文献を読み漁っていた時に見つけた資料の中にあった。確か、雌の翼竜は懐妊すると、自己の体内に出来た新しい魔力の存在に戸惑って最初は錯乱するのだと。その錯乱期を越えると、翼竜は自らが懐妊したことが分かり、番の雄を除いて周囲のものを近寄らせなくなり、暫くして安定期に入るのだと。
その資料にあった妊娠の初期症状をざーっと頭の中に羅列してから再びスナイデルを診て、核心は深まる。
「それは確かなのか!?」
いきなり騎士に肩を掴まれて振り向きざまにがくがく揺さぶられ、視界がぐらんぐらんと揺れる。気持ち悪い。
「しっ、診断を正式にするには触診と魔力波による内診が必要ですがっ、おそらく間違いないかとっ」
舌を噛みそうになりながら言うと、騎士は僕から手を放し、顔を下げ、はぁーと大きく息をつく。
「正式診断するまではまだなんとも言えません。この可能性が一番高いってだけです」
宮廷内で、人が関与した翼竜同士から生まれた卵は数少ない。そしてその中から無事に孵ったのはピギーだけ。それに、交尾から懐妊まで、翼竜の個体によって差が大きいから、予測は困難だ。だからこそ、優秀な宮廷獣医師ですら、スナイデルの懐妊時期に気づいていなかったのだろう。
となれば、お腹の卵のためにも今度こそきちんと診察しなければいけないけど……
ちらりと目をやったスナイデルはいまだに暴れたまま。さて、どうしよう。
「まー60点ってとこか。学生なら及第点ってとこだなぁ」
「……へ?」
突然響いた男の声の方に首を向けると、長い白衣をたなびかせ、すたすたと迷いなくスナイデルの方に歩いていく人影が僕の横を通り過ぎていくのが見えた。
「あの、危なっ……!」
「危ない?これが?」
「え?」
スナイデルはいつの間にか翼を畳み、地に頭をつけて眠っていた。ぶふーと大きな鼻息を立てて地面の上に寝そべっている。
「スナイデル……!」
「寝てるだけだから安心しなー騎士さんよー」
「恩に着る!」
スナイデルに駆け寄る騎士の背中よりなにより、僕には目の前で起こったことが信じられなかった。
「これならあいつも俺にやられたって分からないし、そこの騎士さんとの信頼関係も崩れないだろうさ」
「麻酔薬を使った……?でも近づかずにどうやって……?」
「そこは歳の功ってやつかねぇ」
白衣の人物は呆気にとられる僕の方に身体を向け、得意げににやりと笑った。
年齢は30代半ばだろうか。少し無精ひげが生えていて、白衣はだらしなく羽織られている。足元は軽履きという正式な靴ではない室内履き。肩にかかる程度の髪は一つにまとめられているとはいえぼさぼさだ。騎士に対する一見不遜とも思われる無教養な物言いとは裏腹に、お世辞にも綺麗とは言えないボタンの留められないままの白衣の間からは、首から掛けられた宮廷獣医師のシンボルが見える。
男は片足を引きずるようにしながら、呆然と男を見上げる僕の前までやってきた。
「しかと見させてもらったぜ?詐称獣医師見習いくん」
「あっ……!」
グレン様のお仕置き宣告の時と同じくらい速く、全身から血が引くざぁっという音がした気がした。
きれいさっぱり忘れていたが、僕は身分を詐称していたんだった!関係者にばれなきゃ大丈夫――って思いっきり関係者に聞かれてるじゃないか!
「もっもっ、申し訳ございません!僕はとんでもないことをっ!」
「いいんじゃねぇの?騎士さんはあの様子だし、俺はそういう規則とか、堅っ苦しいもんには興味ないしなぁ」
後ろ姿しか見えないが、どうやら騎士は、眠りこけたスナイデルのところに駆け寄って抱きついているようだ。覚醒していたとしたら一発でお亡くなりになっても文句は言えない行動が不安でつい騎士の方へ足を踏み出した僕だったが、すぐに肩を掴まれて引き戻された。
「まーあれだとしばらくは起きんだろ。邪魔してやんな、あいつはあいつであれのことを大事にしてっからな」
騎士の背中を見守る視線からいっても、どうやら日頃からスナイデルたちのことを診ていた人のようだ。
「あの、あなたは……?」
「自己紹介が遅れたな。宮廷獣医師のヤハルだ」
男は僕を見下ろし、自慢げに、にかっと笑う。
「そういうお前さんは、グレン様の秘蔵っ子、エルドレッド・アッシュリートンだろう?」
やばいことやった上に身分もとっくの昔にばれていた。
ついでにこの人は本物の宮廷獣医師。つまりこれから僕の獣医師国家試験の二次試験を監督する人。
僕の獣医師人生は終わった……!
絶望のあまり僕がはくはくと口を動かし一言も言葉を出せないでいると、目の前の男――ヤハル医師はぶはっと大きく噴き出した。それからしばらく笑いこけた後、野太い腕で僕の背中をばしばし叩いた。
「だーかーらーさっき言ったろ?俺は、そういう、規則とかどうでもいいもんに興味ねぇって。それより実力が一番!ちょうど秘蔵っこの実力の程度を見せてもらえていい機会になった。これから俺の指導についてこられるかはともかく、ま、あんくらい肝っ玉があればしばらくは脱落しないだろうしな!」
「えっ」
「いい診断だった、って言ってんの。細かい話はそいつに聞いとけ」
ヤハル医師は、僕の頭をボールか何かだと思っているかのようにぽふぽふと叩いた後、がははと野太い声を立てて笑いながら集まってきた獣医師見習いや獣医師たちの方に歩いていった。竜巻のようにやってきて、嵐のように去っていく。僕の話などまるで聞く気がない。というか、いつから見ていたんだろう?
仕方なく、僕はその場でぼそりと呟く。
「あのーそいつって誰なんですか」
「はーい。俺でーす」
「うわぁ!」
ひょこりとこれまた死角から出てきて、冗談めかして掌を顔の傍で揚げているこいつは――
「リッツ!」
「はい、お久しぶり」
さらっとした長めの前髪のせいで隠れた目が、いたずらが成功した子供のようににやにやと笑っている。
「相変わらず頭の出来を反映させないへらへらした顔だなぁ」
「おやおやぁ?エルこそ、四分の一月と少し顔を見合わせていなかったくせにある日突然重症患者を俺に押し付けて連絡一つなく王都に行った非情な友人らしいセリフ、見事だよ」
「はい本当に申し訳ございませんでした!」
(より効率よくいい商談をまとめるための)愛想よくするためのへらへら笑いか、実験中は能面のように無表情になるこいつが言うと迫力がある。他人の笑顔が怖くなったのは絶対にどこかのご主人様のせいだと思う。
リッツは人が集まり始めた中庭から場所を変え、獣医師室の傍の小部屋に僕を招き入れた。
小部屋の中は、簡単な調度品が壁際にある他は、実験用とおぼしき机が積み重ねられている殺風景なものだったが、ところどころに貴重な過去の実験道具とかも置いてあって興味深い。さしずめ、どこかの研究室の物置ってとこかな?
「あそこだと落ち着いて話せないからなー」
「獣医師室に入れてくれてもいいのに……」
リッツが身に着ているのは、宮廷用の白衣に、見習獣医師選考中であることを示す首掛け紋章―――リッツは一足先に獣医師室に入って辞令を受けたってことだろう。
恨みがましく呟くとリッツは半眼で笑った。
「あそこに入ってお前が周りの器材や患者やらなにやらに気を散らさないで話ができる保証があれば俺もすんなり入れたんだけどなー」
「はいはいまたしても僕が悪うございました!」
リッツ相手に僕が口で勝てたことはほとんどない。僕がこの鍛えられた毒舌で勝てない相手はそう多くないけれど、リッツは例外と言っていい。旗色が悪いのでさらりと話題を変えてみる。
「それで?なんでリッツはここにいるの?」
「なんでってそりゃー選考のためだろうよ」
「じゃ、なくて。早くない?」
「んーそれなんだけどなぁ」
ぽりぽりと黒髪を掻き、うーんとリッツが唸る。
「何?話しにくいことなの?」
「いやーあれだよ、お前に預けられた狼の関係」
「あの子が?何か話しにくいことでも起こった?」
「実はさ――」
リッツが話した内容によると、どうも、治療した狼は予想通り動物使いに支配されていたため、既に体力が底をついており、かなり危ない状態だったこと、リッツが救命のための応急処置としてなんとか火傷だけ治療したこと、一方、呪いの元はかなり上手く隠れていて見つけられず、かつ浸食も大きかったので無理に解呪のための捜索を続けると危険だと判断したこと、そのために宮廷獣医師のところに連れていこうと予定より早く学園を出たこと、しかし王都に入る直前で狼が覚醒して暴れ出したこと、そのせいで門番のところで入都に時間がかかったこと、ところが、門番による査定最中に狼が逃げ出してしまったこと、が分かった。
なるほど、落ち着いて聞かなきゃいけない上に、大人数のいるところで迂闊に話せないわけだ。
「……と、いうわけで、悪いけど、完全に治せた自信はない」
「でも狼さんは自力で走りだせるくらいには回復したんだね」
「いや、呪いの進行が結構進んでたからなー……あのまま何も治療されないと、全部支配されて遠くないうちに自我が完全に壊れる。くそっ、だから門番のやつらに預けたくなかったんだ……!」
リッツが眉間に皺を寄せ、悔しそうに俯いた。
完璧主義者のリッツからしてみたら、悔しくて仕方ないだろう。僕だって悔しい。
「――でもリッツのおかげでひとまず急はしのげたんだんでしょ。それだけでも、僕は嬉しいよ」
あのままだったら狼さんは即死していただろう。身勝手だろうけど、僕は僕の手で動物の命を奪わないで済んだことにほっとしていた。
「だから、まぁ、ちゃんと対価は払うよ。金策だってしてきたんだ、ほら?」
落ち込むリッツに軽い口調で話ながら、かき集めた銀貨をじゃらりと見せつける。
「あの治療内容とお前の腕だと相場はこんなもんでしょ?あの急がしい中、これだけ準備するのは大変だったんだからな」
「あー……今回は金はいらないわ」
これは大変だ。対価もとらないリッツはリッツではない。リッツ・ノバルティのモットーはがめつく粘り強くむしりとれ、のはずだ。
「えっ。守銭奴リッツ、ついに金の亡者の座を返上?!ついでに僕の借金もちゃら?」
だが払わなくていいと言うのなら好都合!
常に懐が極寒の僕。一度申し出たのに断られたここで更に、「遠慮するなよ、受け取って」とかそんな綺麗事は言わない。免れるものは免れて逃げるに越したことはない。
「じゃ、それなら今回のはもちろん僕のこれまでの借金はちゃらで……」
「んじゃそれでもいいからさ、お前をちょーだい?」
「肉体労働はこれ以上は無理です勘弁してください僕には時間もお金もありません全てご主人様に搾取され済みですあと差し出せるのは臓器くらいしか……」
「臓器もいい値で売れるけどなー解体するには惜しくてさ、お前」
さっきまで重ねられたテーブルに寄りかかっていたはずのリッツはいつのまにか僕の前に立っていて、僕の視界が陰る。
人と話すときは目を合わせなさいという尊い教えが刻み込まれているせいで自然と視線をあげると、黒髪の陰から覗く瞳が全然ふざけてなくて、僕の危機感知装置が頭の中で警報をがなりたてた。
「お前の私生活?私的な時間、俺のために使ってってので対価ってことで」
「うん待とう、僕にはお前の言っている言葉の意味が一言も分からない」
「端的に言うと、男女の交際を俺としてみようか、って意味」
…………は?
ようやくここまでこられました……年初め、遅くなりましたがまったり更新についてきてくださる寛容な読者様方、今年もよろしくお願いいたしますー




