7 小姓は動揺させられました
動物や魔獣の気持ちが直接送られてくるという初体験で得られたふわふわとしたいい気分は、二匹の姿が見えなくなった辺りで薄れていき、代わりに忘れていた体の痛みが急激に襲ってきた。
「いったぁ……」
肋骨がずきずきして、息を吸っても吐いても痛い。無理な動きで親蛇から逃げ回ったから全身の筋肉も傷めているだろうし、こけたときにどうやら擦り傷もたくさん作ったようで、血と泥が傷口で渇いてばりばりになっている。
骨折などを自力で治すと変に骨や筋線維が繋がる可能性があるので、急場でもない限り、医師に診せるまで何もしないのが原則とされている。とはいえ、僕の場合は諸々の事情で医師に身体を見せられないので自分で治療するしかないのだが、いかんせん、たくさん魔力を使ったところ。これ以上使うと魔力枯渇の危険がある今、僕が出来ることは何もない。
座り込んで痛みに耐えていると、背後からざくざくと草を踏む音が近づき、僕のすぐ後ろで止まった。
「なんでわざわざ親蛇まで治療した?」
「……僕の目の前で魔獣が傷ついているのに、治さない理由がありますか?」
「自分の治療をせずにそっちに力を使うのはお前らしいと言えばお前らしいか。愚かだとは思うけど、そうやって魔獣たちを陥落させてきたとすればなかなかいい考えだと思うよ」
「そういう打算で行ったわけじゃないです」
「お前が打算より先に感情で動く人間だっていうことは知ってる。……まぁ、あれだけ怒り狂っていた魔獣を殺さずに済んだし、今回に限ってはお前の行動も無駄骨にならなかったわけだけど」
「だからいつも無駄じゃないですって……あの、グレン様はあの親蛇を殺したかったんじゃないですか?」
例えご主人様であっても、動物たちの命を奪うことを疑問に思わない表情は見たくないから、腕の中に飛び込んでチコの背を撫でて労をねぎらいながら、背を向けたまま問う。
「しないで済むならそれに越したことはないと思っていたからこそお前をここに連れてきたんだ」
「え?」
「人でも獣でも、何か一つを奪えば、そこにひずみが出る。一人、または一体殺せば、必ず怨嗟が生まれる。そしてそれが後々大きな災厄をもたらすことは多い。そういう意味で、殺さないで済むなら殺さない方がいい……国の行く末を想うなら、ね」
思わず視線を向けた先のグレン様は、日ごろのキチガイ鬼畜っぷりが嘘のように、柔らかい表情で森の奥を見ていた。
この方は時折こんな表情をする。
さっきまでの様子を見るに、蛇が嫌いというのは本当なんだろうし、あの時親蛇に向けていた殺意も本物だった。そのくせ、今のこの隠しきれていない表情だって本物だ。きっと本心からの想いだ。
言葉と態度に矛盾を孕むこの人の心が、僕には今でもよく分からない。
それでも、僕がこの人を本気で嫌いになれないのは、こういう良心が(本当に時たまだけど!)透けて見えるからかもしれない。
「僕に助けを求めなければ及第点をくれてやったんだけど、結局僕の手助けがないとできなかった時点で落第だね」
「判定厳しいですね!」
「とーぜん。お前は僕の小姓なんだから、これくらいやってくれないと」
グレン様は、僕の髪を乱暴にぐしゃぐしゃと撫でた後、意地悪く口角を上げた。
「あぁ、今回の手法は認可魔獣を増やす作戦としても使えるね。これからは僕が魔獣を半殺しにして、お前が助けていこうか。そうすれば魔獣に恩が売れて国としても万々歳だ」
「新手の詐欺の片棒は意地でも担ぎません。全力で止めさせていただきます」
あ、いつもの外道発言だわ。
半眼になると、グレン様はくくっと喉の奥でおかしそうに笑ってから「帰るよ」と背を向けた。
が。
「……申し訳ありません、グレン様。お一人で先に帰っていただけますか?」
「なんで?」
「思ったより肋骨の痛みが強くて到底馬を乗りこなせそうにありません。今日はここで大人しくして、魔力が回復してから応急処置をして帰ります。お供ができず申し訳ございませんが、先にお帰りください」
呼吸するだけでピリリと鋭い痛みが走って辛いのだから、馬の振動なんか加わったらきっと僕の肋骨はとどめを刺されてしまう。応急処置で痛みを軽減させられるようになるまで待つしかない。
「はぁ?夜の森に一人でいるつもり?」
「僕にとっては友達の家みたいなものですので寂しくはないですよ?ね、チコ?」
「きゅ!」
グレン様は、チコに同意を求める僕をじっと見た後、つかつかと歩み寄ってきて、しゃがむと服の上から僕のわずかな膨らみもない胸に手を当てた。
「……グレン様、もしかして、回復魔法、苦手だったりします?」
「完璧すぎると嫌味になるでしょ。可愛げって大事だと思わない?」
「あ、そっか。慈しみの気持ちが足りないから魔力変換が上手くても効果が薄い――」
「その乏しいイツクシミの気持ちを踏みにじるようならこのままとどめをさしてやるよ。ちなみにそっちは大得意なんだ」
「結構です!ありがとう存じます。心から!」
「……それにしても、最初にそれを言う?もっと他に言うことないの?」
薄っぺらい僕の胸に手を置いたままのグレン様の真っ赤な瞳が、本心からやや呆れたように自分の手と現状を見下ろす。
「変態!と叫ぶか、顔を赤らめて抗議するべき場面でしたでしょうか?」
「僕が少しは指を曲げないといけなくなるくらい厚みをつけたら抗議を受け付けてもいい」
「年齢的には今が一番の成長期ですが、去年からどころか幼少期からほとんど成長がありません」
「申告されなくても見てれば分かる。つまり今のところお前に抗議の権利はないということになるね」
「じゃあ最初から申し上げる意味ないじゃないですか」
「せめて建前くらい大事にしても罰は当たらない」
徐々に痛みが引く感覚と会話の流れから応急処置目的であることなんてすぐに分かるから何も言わなかったんだけど。一応、「それにしても一言ぐらい断りがあってもいいんじゃないかなぁ?」とは思ったよ?
これでも僕は十六の未婚令嬢ですからね?花も恥じらう乙女なんです。風呂で男の裸見ても何も思わないけど、それでも恥じらいある乙女なんです。
「申し訳ございません。日ごろのご主人様からの扱いにあまりにデリカシーがないせいでちょっと忘れていたというか、優先度は低いものかと――」
「へぇ?僕のせいってわけ」
「それだけではないですけど、それもかなりの部分を占める原因の一旦かと存じます」
「ふぅん。どうあっても僕のせい、ってことか。それは悪いことをした」
え!?謝った!?冗談でもグレン様の口から謝罪の言葉が!?
思わず目を何度も瞬いてその不気味なほどに整ったご尊顔を拝し、僕とグレン様の目が合う。
そのせいか、ついぽろりと本音が漏れた。
「気持ち悪っ!グレン様、やっぱりお熱でもあるんですか?それとも変なものでも召し上がりましたか!?今日は途中までやけに大人しかったですし……まさか、お食事に毒が!?」
その瞬間、グレン様の口角がひくついた。
「……そこまで言うならご要望に応えてやろうか、ご令嬢?」
「ぎゃおうっ!!なっ、何なさるんです!?」
膝裏と背中を支えられて体が持ち上がる。
足が地面にしっかりつかないことは、グレン様のお傍にいればよくあるんだけど、その時は大抵首絞められているだけだから、辛うじてつま先はかすってる。でもこれはそうじゃなくて、全身持ち上げられてて……足先どころかどこも地面につかない!この体勢って持ち上げる方の腰にくるからあまりおススメできないんだけど……あ、重さ軽減の補助魔法を使ってるのか。
いやいやそういう問題じゃない!
「だっ、大丈夫です!降ろしていただいて――うー、いったぁ!」
「応急処置しかしてないんだから暴れて痛いのは当たり前でしょ。それともこれまでのお仕置きが足りなかった?そうかそうか。明日からのお仕置きが楽しみで僕は今夜寝られないだろうな」
「自己完結しないでください!グレン様にこんなことをしていただくと後が非常に怖いんです!」
主に外聞とか、対価とか、そういう意味でですが!
こんな姿を人前に晒すことは、七十五日を過ぎても全然下火にならない危険な噂に油を注ぐようなもんなんです!
「あぁ。肋骨にヒビが入っているのに小脇に抱えられたいとか、肩に荷物運びのようにされたいとか、背中に乗せられたいとか、わざわざ怪我の部位を圧迫される方を望むってこと?別に僕はそれでもいいよ?お前が顔を苦痛に歪ませているのはいい見物――」
「今のままで結構です!ご迷惑おかけしますがどうぞお願いいたしますっ!」
連れ帰り決定のようだから、ここで何か文句を言えば確実に肋骨を圧迫される!この人ならやる、絶対にやる!
こうなれば仕方なしにグレン様の腕の中で小さくなって大人しくするしかない。
グレン様が道を作るために起こした風で木々がざわざわと揺れ、草がかき分けられる音だけが響いた後しばらくして、グレン様の方から僕に声をかけてきた。
「エル」
「……なんですか」
「不満たらたらの顔で一体何を考えている?」
「別に、とりとめもないことを。さっきの子蛇さんを傷つけた人間が許せない、とか。あんな残酷なことを誰がどんな目的でしたんだろう、とか。今回は解呪できましたけど本当は何の術だったのか、とか、そのあたりです」
「……お前にしては建設的な頭の使い方をしていることに僕は大変驚いている」
「失礼ですね。僕の頭はいつでもフル回転です」
「物理的にはね」
それはどこかの誰かにどつかれて強制的にされているだけで僕の意思ではありません。
「それなら常に建設的な思考をされるご主人様は一体何をお考えに?次は僕をどう貶めようか、あたりなんじゃないですか?」
「そんなもの考えなくてもできる」
どうせグレン様の罠に嵌る単純思考だよ!馬鹿にしたければするがいいさ!
「でも確かにお前のことは考えてた」
「はい?どういう意味です?」
「こうやって運ぶとお前って見事に向かうべき場所に栄養が行き届いていないな、とか、女らしい膨らみがないなとか」
「余計なお世話ですよ!これのおかげで僕はつつがなく男装生活を――」
「骨が細くて骨格がやわだ。筋肉の質が違うから、膨らみには欠けるのに柔らかい。こうやって、体格に恵まれているわけじゃない僕の腕にも収まるくらいに小さい。男子と同じだけ食べていても、ね」
散々貶していたくせにいきなり何を言い出した?
訝しんで睨み上げると、ふっと細めたご主人様の目と目が合った。
「お前は紛れもなく女なんだよ」
「……そんなこと、他人に言われなくても分かっています」
「分かってないよ。お前は全然、分かってない」
「なにをっ――」
「そろそろきちんと現実を受け入れれば?」
「何を仰っているんです、僕は常日頃から自分が女だと申し上げていますし、自分を男だと思ったことは一度もございません」
「表面的には、そうだろうね。今お前は、事実を受け入れているようで、精神的に拒絶してるんじゃないの。周りの連中との違い――性別に所以する差異を『自分のダメな部分』としてね。体の成長が追い付かないのもおそらく無意識に強く抑制してるところがあるんじゃないかっていうのが僕のこれまでの観察結果」
「でたらめですっ!これは体質でっ……!だ、大体っ、男装がばれて困るのは僕だけじゃないでしょう?」
「まぁ確かにね。ただ」
顔を上げると、至近距離のルビーの瞳が今まで見たことのない色……いや、違う、正確には、「読み取ってはいけない色」を映した気がしてすぐに目を逸らす。
「受け入れてこそ見えてくるものもあるもんだ」
僕が黙りこくると、グレン様もそれ以上は何も言わずに黙々と草をかき分けて歩み進んだ。
挙句の果てが、馬での横乗せだ。乗馬に慣れない大人しい貴族の淑女の皆様を乗せて馬駆けするときによくするあの体勢だ!
「すみません申し訳ございません僕が悪かったので、どうかもうお許しください。この体勢だと馬に負担がかかるので……どうか!」
「じゃあどうやって帰るつもり?」
「自分でゆっくり走らせていくかここで一泊――」
「却下。ごちゃごちゃ喚くな。うるさいとつい叩き落としたくなる」
「分かりましたよう!」
気づかってくださっているのか、それともいつも通りなのかいまいち分かりませんけど!
こうして僕は、グレン様にお姫様抱っこをされた上、乗馬をするという一見すると世のご令嬢方が羨む状況を自ら望むこともなく体験する羽目になった。
歩みに合わせて掠れた草の音、動物たちのざわめく声が遠ざかり、馬の駆ける音と、耳元に押し付けられたグレン様の胸から規則正しい心音だけが響いてくる。
さっきまで僕を抱えて足場の悪い場所を歩いていたのに乱れてすらいない呼吸に、支えられていた腕の強さをより意識してしまう。
見上げて目が合うだろうことがなぜか憚られて、あえて視線を外にやれば、興味深そうにこっちを見つめてくる森の動物たちと目が合って余計にいたたまれない。
ただグレン様の話と、現実に感じる感覚が、僕の中でぐるぐると回り、名状しがたい気持ちにさせる。
なんか、もやもやして、気分が悪い。
なんだこれ。一体どうして。
分からない。分かりたくない。
学生寮に戻るまで馬に揺られる間、僕の心の内は今の空のように厚い雲に覆われていた。