1 小姓はまたもややらかしたのです
非常に遅くなりましてすみません。5章開始です。
今後の投稿も不定期になります。余裕を見つけてのんびりやっていきますので、ゆったりとお付き合いくださいませ。
※ 閑話五章プロローグ後編の最後より少し遡った時点からのスタートです
朱く、碧く、白く。あたり一面を覆いつくした炎が、何人をも受け入れないかのように立ち塞がって僕の行く手を阻む。燃やされ崩れて倒れて来る物を押し分けて一歩踏み出すたびに頬にあたる熱が上がる。 熱風にあおられて舞い上がる火の粉と煤に目がやられて、涙でぼやける。声を出そうにも熱で喉が焼けて出ない。
声も目も使えないけれど、それでもこの奥にあの人がいることは分かる。
一歩一歩慎重に進まなければ床が焼け崩れそうだと、頭のどこかでは気づいているが、そんなことには構っていられなかった。
早く。早く。急がないと。
火傷も、打ち身も、沁みる視界も、僕の足を止めやしない。
火の粉を振り払い、歩み進んだ先の燃え盛る炎の奥、熱でゆらゆらと揺れる視界の片隅にその人が見えた。
けれど、いつもなら爛々と怪しげに輝かせているルビー色の瞳は見えない。
僕が探していたその人は、視界が揺れるほどの熱さの中で、周囲が焼けただれて黒く煤けている中で、実りの時季の稲穂のように深く頭を垂れ、座れないくらいの温度になっているはずの木の床に腰を落としている。長い手を力なくだらりと垂れ下げたまま身動き一つしないその姿は、まるでよくできた人形のようだ。
ほとんど枯れた声を絞り出すようにして僕が何度か呼びかけると、彼は徐に顔を上げた。ようやく見えた白く整った愛らしい顔には、べっとりとした赤黒い染みが付いている。
燃え盛る炎よりも赤い瞳はぼんやりとしてただただ周囲の炎を映していたが、近寄る僕を認めてからようやく意思の光が見えた。それが唯一の縁に思えた僕が、咳き込みながら何度も呼びかけると、ようやく、いつもの彼らしく口の端を上げ、弧の形にした。
「――――――」
駆け寄ろうとした僕に向けて、薄い唇が開かれた。何か言われている気がするのに、ぱちぱちと物が弾ける音で、何を言っているのか上手く聞き取れない。それでも彼は満足したように目を細め、そのまま壁に頭をもたれかけさせた。
その弱弱しい姿を見た途端、これほど熱気のこもった場所なのに、僕の体温が一気に下がった気がした。
僕が彼の名前を呼んで手を伸ばした時、一際大きな爆炎が上がり、その衝撃で、僕は元来た方向の壁まで突き破って外に勢いよく投げ出された。べしゃりと情けなく地面に落ちたせいで目が眩む。
飛びかけた意識を繋ぎとめ、顔を上げると、僕を見る彼と僕の目が合った気がした。
でも、それもほんの刹那のことで、表情すら見えないまま、あっという間にその姿が真っ赤な炎の奥に消えていく。
僕が伸ばした指は、何にも届かず宙に留まった。
いつまで経っても、逆関節に極限まで捻じ曲げてにやにやと笑う、いつものあの人が戻って来ない。
何が目の前で起こったのか理解できずに、いや、理解しようとも思えなくて固まっていると、さくりと地面と下草を踏みしめる音が響いて僕のすぐ後ろで止まる。
ほら。やっぱり。いたずらだと思ったんだ。手の込んだいたずらにはさすがの僕も騙されるところだったじゃないか。
期待とかじゃない。それが当然だと確信して後ろを振り返ったのに、僕の目は、赤い瞳を細めてにやにや笑うあの人の姿を捉えられなかった。代わりにいたのは、黒髪の騎士と、騎士に連れられた、あの人の上司でもある金髪の王子だけ。一人大事な人が欠けている。
こんなに広くて敵にいつ狙われるかもわからないところに、あの人の一番大事な主人が、騎士とだけいる。そんなことありえないのだ。あの人はそんな迂闊なことしない。
「で……」
「逝ったのか、あいつは」
僕のご主人様の主は、僕に呼びかけるでもなく、僕のすぐ傍に立って、ぽつりと言葉を落とした。
「最期まで私を裏切らないと言ったのは嘘だったのか、グレン……!」
ぶるぶる震える拳を握り込み、懸命に堪えたような声音は、僕が続けようとした言葉も声も空虚な自信も、全てかっさらって散り散りに砕いた。
現実なのか、これ。
そんな、まさか。そんなこと、あるわけない。
あんなにしぶといあの人が。こんなにもあっけなく。
こんなの嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
「いやだ――――――っ!!」
「ほう?私の授業の何が嫌なんだ、言ってみろ。アッシュリートン」
ガタンという大音量が響いた後、妙にぴんと張った空気の中で聞こえたのはそんな現実味しかないお言葉だった。
いやそりゃ、授業なんて嫌で仕方ないですけど、そんなこと言ってる場合じゃないんですよ!僕が今、いっぱいいっぱいになっているのが分かりませんか!?
「剣術でも武術の時間でもない座学の最中にもかかわらず、びっしょりと汗をかいて、はぁはぁと息を荒げながら、椅子を蹴倒して立ってまで私の授業に異議を唱えたかったのかね?答えなさい、アッシュリートン」
確かに僕の呼吸は荒れていると表現してもいいくらいには乱れている。過呼吸は判断も鈍らせるし、身体にも負担だ。呼吸が乱れたら命の危険ってイアン様に叩き込まれている僕は、大きく深呼吸をしてから確認する。
まずは正面を確認――視界の前方の教壇上に初老と言える年齢にもう少しで手が届きそうなところにいる上級魔法理論学の教授を発見した。
右よーし、左よーし――どちらを見渡しても好奇心と畏怖と呆れの入り混じった目で僕と教授を見比べる学生しかいない。
一欠片の炎もなければ、草むらだってないし、イアン様も殿下もいらっしゃらない。代わりに、見慣れた学学園の教室の机やらノートやらが広がっている。
ということは?
正面に向き直って、真顔のまますかさず右手で一発強めに自分の頬を叩いたら、ぺちんといい音がして、じぃんと痺れる感覚が広がる。
「痛い……」
痛い。が、痛みに慣れた僕はこの程度じゃ満足できない。グレン様に鍛えられ過ぎた僕は痛みに鈍化している節がある、とイアン様に指摘されているんだもの。慎重になっても仕方ない。
ちなみに、グレン様には「元々ありとあらゆる方面で鈍りきったお前にこれ以上鈍くなるところがあるなら新たな発見になっていいでしょ」なんて言われている。誰のせいだと膝詰めで問いたいが、そんなことしたら、僕の膝の骨がどこかの誰かに抜かれて僕は一生立てなくなる、に一票。
それより早く確認しなきゃ。
虐待魔のご主人様だと思いながらもこんなに必死になって確認しようと思う自分にどこか呆れながらも、両頬を思いっきりつねってみる。当然のように涙が出るほど痛くて、頬には爪の痕と思しき溝がくっきりと刻まれた。だがやはりじぃんとする程度だ。
この程度ではだめだと判断し、重力任せに頭を木の机に打ち付けてみたところ、案の定、ものすごく痛かった。僕の方がはるかかなた光の世界に飛び立つところだった。学校の机が木製で(ただし強化済み)でよかった。だけど、ここまでしたらもう平気なはずだ。
「――――よかったぁ……!」
緊張が抜けてへなへなと椅子の上に座り、へちゃりと机に頬をくっつけると、自然と言葉が漏れ出た。ひんやりとした机が心地いい。
安心しろ、僕。グレン様には何も起こっていない。あれはただの夢だった。今は授業中で、あれはただの夢。後味の悪すぎる夢だったし、確認作業も非常に辛かったけど、それでもいいや。だって――
「生きてたんだから……!」
「だろうなー。生存確認したところに悪いけど、そろそろ死ぬかもだけど大丈夫か?」
「え!?やっぱりグレン様に何か!?」
「うんうん、意味不明なのは通常運転だな。その発言の真意はひとまずおいておくとして、今、俺は、お前の大事な『ご主人様』よりお前が死にそうって言ってるんだけど、自覚はある?」
感慨にふける僕に、隣から、コバエの羽音と比べたくなるほど小さな声がかけられた。隣に視線を向けると、授業開始時から隣に座っていたリッツが僕と目を合わせて、そのまま前を向く。
その視線の動きにつられて前を見ると、当然のように教授が立っていて、僕に熱いまなざしを送っていた。その視線の熱いこと熱いこと。熱すぎて燃えそうだ。より正確に言うなら燃やし殺されそうな感じだ。火もないのに!
「えーっと。一体教授はどうかしたの?これ以上血圧上げたらぷちんといっちゃうかもなのに」
「お前、現状理解してるかー?まだ寝てるんじゃねーよな?」
「起きてますとも。リッツくん、僕が教授から熱烈な視線を受ける理由を3セミ以内にまとめてくれると助かる」
「授業中爆睡した上、夢見て叫んで、しかも教授が説教しようとしたのにまるっと無視して奇行に走った上で、これでもかって態度でくつろぎはじめたところ」
おお、なんと簡潔かつ的確なんだろう!さすがリッツ!
僕に視線を向けたままの教授は、手の上の金属製の細い指示棒をしならせている。みしみしと高くて不気味な音が聞こえるのは幻聴ではないと思う。
教授の増えてきた皺に、どれよりも深くて長い「眉間の皺」が追加されているのも幻覚じゃないと思う。これが夢だとしたら、すんごくリアルだ。臨場感抜群!
現状を客観的状況から把握した途端に、血が頭からざぁと足元まで流れ落ちていく音が聞こえた。
「アッシュリートン。言い残したことはあるかね?」
こめかみに一本どころか三本ぐらい血管が浮き出たせた教授は、僕を見て、手元の金属の指示棒をさらにしならせた。もうやんわり曲がっているというのに、それ以上力を加えたら多分折れますって!
落ち着け、僕。緊急事態が発生したときは落ち着くんだ。焦ったら間違えるぞ。
もともと荒れ狂った動物たちの対応はピカ一の僕だ。この二年半、グレン様の急襲で危機対応能力に磨きがかかっているはず。危機が迫ったときに落ち着くことには慣れてる。やれる。
教授の質問を無視した挙句こうなってるわけだから、教授の質問に答える姿勢を見せよう。
僕は、怒れる猛獣を刺激しないように静かに席を立って言った。
「えぇと、教授。折るのはその棒だけにしておいていただけると助かります」
僕の言葉が終わるのとほぼ同時に教授の指示棒がぱきんといい音をたてて折れた。
どうやら僕は大失敗したらしい。
……あぁ、今度こそ悪夢であってくれたらいいのに。




