21 小姓は初めてお目にかかります
視点はエルに戻ります。
シャルドネ・ナーベラ公爵令嬢が僕とグレン様に優雅に腰を落として挨拶し、退出した後、グレン様もこの機を逃さずすかさず退出の挨拶を述べ、場をご当主夫妻に託して――体のいい押し付けだ――から、有無を言わさず会場を出た。
途中幾人かの方々がグレン様と僕に声をかけて引き留めようとしたのだが、あの見事な口八丁に敵う人間がこの会場に、いや、この国にいるだろうか。いたら是非僕にグレン様論戦対策法を教授してほしい。
とどのつまり、小姓役の兄様以外の全員が煙に巻かれ、僕たちは一度も足を止めることなく会場を出ることとなった。
「エル、足元の役に立たないネズミを出せ」
会場を出たグレン様は、階段を降りてすぐ近くの小部屋に入ってから僕に向き合うなり、不機嫌そのものの満面の笑顔を僕にくれた。
ちなみに、グレン様の笑顔の愛らしさは、怒りのボルテージか、考えていることの悪辣さに比例する。今回は前者だ。チコが僕のドレスの中で全身の毛を逆立ててぶるぶる震えている。
「お断りします」
「お前に拒否権はないって何度言っても覚えられないなら、耳にタコを作ってやろうか?やすりで物理的に」
「やすりで削ったらタコができる前に物体としての耳がなくなります。拒否しないと即刻チコがあの世に旅立ちそうな状況でどうして出せるんですか。なんにせよ、お手を離していただけないと僕は動けません」
僕の手は、シャルドネ様とのご対面以来、グレン様の手に拘束されたまま未だ解放されていない。絹の手袋もあの場で取ってきたので、僕は素手のままグレン様に拘束されている。
シルクの綺麗な手袋は、ご令嬢方ご自慢の自称・郷土料理をうっかり落としてしまった際に器の中の液体が付着し、異臭を放つようになったので、その場に置いてきたのだ。
「汗で滑らそうとしても取れないし、振っても外れません」
「そりゃ、離されないようにしっかり握ってるからね」
「それは僕に脱皮の技術を習得しろという新たな課題ですか。残念ながら僕の将来に虫になる予定はないので一生無理です」
「じゃあ一生僕と手を繋ぎたいってこと?そんなに僕とくっついていたいなら早く申し出ればよかったのに。お望みは毎晩叶えてやるよ」
「なんで夜限定になっているのか、僕の理解力ではご主人様の思考に追いつけません。追いつきたくもありません」
「ちょうどよくドレスだし、一人で脱げないだろうから早速今夜からでも――」
「早く手を放せこの、年中脳内お花畑野郎!」
「――アレを飲んでもいつも通り舌が回ってるってことは大分回復したってことか」
頭がおかしいのはいつものことだからおいておくとして、僕のご主人様は、同時にいくつものことをこなすだけでなく、一つのことでたくさんの利益を得ようとし、それを成し遂げる、欲張りの天才だ。
今も、戯言にカモフラージュして(そうだと信じたい)、僕の目の色や顔色、舌の動き、呼気の匂いを観察し、さっき僕が飲んだワインとそれ後すぐにグレン様に飲まされた物の効果を確認していた。観察する時独特の、若干上の空な返事や忙しない目の動き方で分かる。そして、僕の推測では同時並行で、僕が飲まされた毒の種類の予測と不足分の解毒剤の生成方法を考えている。
まぁ、薬剤系に詳しくない僕ですら、飲んだ瞬間に、失敗したなって分かるくらいの代物だったもんなー。だからグレン様だってあんな非常識なことをしたわけだし。
医療系の職に携わっている身として、緊急時にああいう行動に出ることの必要性はよくよく分かっているので、羞恥はそれほどなかった。ないない。あるわけない。
普通の人だって、息が止まったら人工呼吸をするために口をつける。ましてや僕は小姓だ。グレン様が魔力枯渇で意識不明の時に既に血を流し込むために、大変不本意ながら、この麗しい唇を自分から奪ってしまっている(その後に仕返しをされているけれど)。
毒を飲んでしまった僕に解毒剤を飲ませるっていうのだってそれと同じだ。うん。同じ、同じ、同じ――同じったら同じなんだ!だから、客観的な立場とか状況とかグレン様が周りを誤魔化すために話した嘘とかを思いだす必要なんて全然ないし、僕が今どういう立場で来てるとか、兄様がその辺りで見ていないかを気にする方がおかしい。
僕がグレン様とお仕事やお仕置きで――主に後者――二人きりになるのなんてほぼ毎日、それも長時間のことで、ほぼ例外なくどれだけ早く終わらせるかを考えているほどだ。
そうだというのに、今日はそのことがやたらと気になる。
あぁもう!なんだってこんなことを考えているんだ。今日の僕はおかしい。
あの場でグレン様が麗しいシャルドネ様と会話しているときに、少しだけ素の腹黒い笑顔が出ていたことが妙に気になったのだって、シャルドネ様が比べる対象にするのも申し訳なくなるくらい完璧な淑女だってことにショックを受けたことだって、きっときっと、僕がいつもの姿と違うからだ。
「エレイン」は本来の僕、もしくは、この道に進まなかった別の未来の僕であるはずなのに、「エレイン」としてドレスを着た僕は、僕じゃないみたいだ。背中とお腹がくっつくほど絞められていることを度外視すれば、素材も手触りも着心地も最高品質な超高級ドレスを身にまとっているはずなのに、いつもの男子学生服が恋しくてたまらない。
一刻も早く本来の「エル」に戻りたい。
でもその前に、もっとやらなきゃいけないことがあった。今は、僕の不安とか心細さとか、そんなものよりももっとずっと、下手したらグレン様の意思を曲げてでも優先しなきゃいけないほど大切な、一番やらなきゃいけないことがある。
「なんかぐちゃぐちゃ考えているみたいだけど、まぁ、顔色も戻ってきたし、ひとまずの山場は越えたか」
「だ、だから、前に毒には耐性があると申し上げたでしょう?」
「――毒だと分かっていて飲んだってこと?」
「当たり前です。あの時の前ご当主様はグレン様の今の笑顔と同じくらいうすら寒い笑顔を浮かべていらっしゃいましたし、チコだって『とってもきけん!』ってサインを出してくれていましたから」
「それであえて飲んだんだ、ふぅん?」
途端に室温が下がった気がする。袖のない腕がうすら寒い。今だ手を掴まれているせいで擦って暖めることすらできない。ドレスってこれだから嫌だ!
「あんなじじいから受け取るくらい毒を飲みたかったの?それなら早く言ってほしかったなあんな一回で終わっちゃうようなものなんかよりもっと色々長く楽しめる物をいっぱい持ってるから帰ったらすぐに試させてあげる種類も数も豊富だよ」
「息継ぎなしで笑顔を固めたまま仰らないでください、そのお顔だけで十分毒されます、僕の心が!」
「そうだ、それだけじゃだめだったね。僕の忠告を無視してむざむざ命を危険に晒した馬鹿にはお仕置きも必要だよね」
「無視したわけではございません!あれがあの場では一番有効な手段だと思ったからです!」
このままだとお仕置きコース一直線、それも過去最悪のお仕置きを待つ未来必至だと感じた僕は急いで言い切った。
「いつもうるさいくらい命を大事にしろ、とか言ってるやつがそれを言うんだ?へぇ?どんな御大層な理由があるっていうの?」
「一刻も早くグレン様の母上様のところに行くためです。さぁ、参りましょう」
掴まれたままなのをいいことに手を引っ張ってドアの方に身体を向けると、背の方から低い声が聞こえた。
「――――あの男?」
「へ?」
「それをお前に告げ口したのは、あの男?」
「……前当主様のことを指していらっしゃるのなら、その通りです」
振り返らなくてもグレン様の怒りのボルテージぐんぐん上がっているのが肌で感じられたけれど、僕はあえて振り返ってグレン様に向かいあって答えた。
「あの場であれを飲むことが、前ご当主様に早く僕を認めていただくための手段として一番有効だと思ったんです。前当主様は、ご自分が出した祝杯すら飲めない婚約者候補など認めない、と仰ろうとされていたので、僕が文句をつけられないくらい見事にあれを飲み干して、なおかつ、要求された通りに踊り切れれば、道が拓ける――少なくとも、それをこなせなければ、僕が仰せつかった婚約者の役割は果たせないと考えました」
「そんなことで――」
「そんなこと、じゃないでしょう!グレン様の母上様の命がかかっているんです!それも、僕なんかよりもよっぽど、よっぽど……」
僕が言葉を詰まらせると、グレン様も、悔し気に歯を噛みしめ、ついと僕から目を離した。
『次に日が昇った時、グレンの産みの母は鬼籍に入ることになっている。君にその意味が分かるかね?』――前当主様の教えてくださったことが脅しではなく真実だと、グレン様の態度で分かる。
もうとっくの昔に今日の日は沈んでいる。明日の日の出までは数刻ほどの頃合いだ。それはすなわち、グレン様のお母上様の命の砂時計の上の部分には、ほんの一握りの砂しか残っていないことと同義。
「……グレン様、会場に入る前にに仰いましたよね?僕を母上様と会わせていただけるのでしょう?」
「……約束なんか、するんじゃなかった」
ため息をついて顔を上げたグレン様が僕の頭を小突き、すれ違いざまに「――泣くなよ」と声をかけてきた。
目の奥が既にじんじんと痛くなっていることは、とっくにばれていた。
廊下を歩き、外に出て庭を抜ける最中、移動用の馬車の中は終始無言だった。グレン様と母上様がいらっしゃるという館の前で、兄様が「俺はお部屋には入りません。控室で待機します」と声をかけてくれたのが唯一の音声だったというくらい静かに時は過ぎた。
この広大なアルコットの領地の外れ、先ほどまでいた来客用の館を見た後だと明らかに質素で小さい館の一番上の階の奥の部屋。ここがグレン様の母上様のお部屋らしい。大貴族の当主の実の娘に見合わない辺鄙な場所にある時点で、お二人のご関係が僕にも察せられる。
グレン様がその部屋の前まで僕を連れて来ると、僕を待たせて部屋の間で手を軽く上げる。
白く美しい手の甲でドアの叩く前、ほんの少しその手が震えたように見えたが、それは、気のせいだったのかと思うくらい短い間のことで、グレン様は、すぐにこんこん、と音を立てさせた。
「――母上、グレンです。エルを連れてきました。入ってもよろしいでしょうか」
「えぇ。待っていたわ」
中から聞こえてきたのは、高く、それでいて落ち着いた女性の声だった。
「失礼いたします」
目を伏せたまま部屋に足を踏み入れ、目上の貴人への貴族式の淑女の礼――相手の顔を見る前に腰を折り、頭を下げ続ける――をとると、すぐに「お顔を見せて」という声がかけられた。
「はじめまして。このような格好のままでごめんなさいね」
「お招きいただき、光栄に存じます。エレイン・アッシュリートンと申します」
「私はレイフィー・アルコット。グレンの母です」
目下の僕から名乗り、自己紹介が終わってからゆっくりと顔を上げると、ベッドで上体を起こし、特徴的な赤い瞳で興味深げに僕を見たその方は、グレン様と瓜二つのお顔をほころばせ、にっこりと笑いかけてくれた。




