18 主と理性と感情
「二人でお話をさせていただいてもよろしいかしら」
幸いなことに、彼女から僕と二人で話す時間を設けるつもりらしい。
たおやかな笑みを浮かべる、人の目を惹きつけてやまない美貌の主の一声で、あたりの人間がちりぢりに去っていく。
最終的に、そこに残ったのは、灰色の頭の小さな少年一人だけだった。
「あなたも外していただけない?」
「大変申し訳ございませんが、僕は小姓としてご主人様のお傍を離れることはできません」
シャルドネ嬢に直接言わせるほど、察しの悪い小姓の姿を貫いた「エル」が深く頭を下げると、彼女はくすと口元に笑みを浮かべる。
「お話は伺っているわ。主人の命令以外は一切聞かない優秀な番犬だそうね」
「僕はグレン様に命を捧げておりますので。……グレン様に僕を下げるようお申し付けなさいますか」
彼は、本物のエルがいるんじゃないかと思うくらい自然な仕草で視線を少しだけ上げ、自分よりもよっぽど位の高い女性を挑戦的に見つめた。
短時間でエルが取るだろう行動を予想できてしまえるあたりはさすが双子だと素直に称賛できる。
「いいえ。そこまで言うなら、そこにいて一緒にお聞きなさい。主人であるグレン様の将来に関わる内容なのだもの」
「ご温情に感謝いたします」
僕と小姓の噂も知っているだろうにそんなことは歯牙にもかけない彼女も彼女だ。
僕とエルの噂が本当だろうと嘘だろうと、向こうに僕の連れてきた婚約者候補「エレイン」がいようといまいと、関係ないと言わんばかりに彼女は泰然としている。
深く頭を下げた「エル」に向けられていた現陛下や王太子殿下と瓜二つの紫紺の瞳が一度だけ僕とは逆方向にあたる令嬢方の集団の方に投げられ、それからすぐに僕に向き直る。
「彼女も、エルドレッド様と似ていらっしゃるの?」
「エレインですか。こいつとは……そうですね、似ています。無鉄砲で無茶で考えなしで、このように礼儀知らずで……僕のことを中心に考えるあたりはそっくりですね」
「貴族の女性らしくない方なのね」
「ずっと領地に引きこもっていたことはお聞き及びかと。貴女様なら既にお察しのことでしょう」
似るも何も本人自身であることに変わりはないが、このエレインも、小姓のエルも、いつも同じだ。役割が違うからといって対応を変えることもないし、そもそもそんな高度なことはできないのだろう。
裏も表もないのが、あいつの唯一かつ絶対の長所だ。
「ふふ。純粋そうな方とお見受けしたわ。世間ずれしていらっしゃらない、箱の中で大事に磨かれただけで一度も加工されていない原石か、もしくは、卵から育てられてきた無垢な小鳥みたい」
そんなことを、この場で最も輝いていると言ってもおかしくない女性が、お世辞ではなく本気で言っている。
「その例えをお借りするなら、貴女様は、純度の高い高級原石を腕のいい職人が加工した宝石ですね」
「彼女と私では根本から違うわ。私にとって、いい意味でも、悪い意味でもね」
「いい意味ならすぐ分かるのですが、悪い意味とは?」
「計算高くできないところを貴方様が私以上に『妻』として魅力的に思われたこと、かしら」
「――とおっしゃいますと?」
「あら。貴方様にとって貴族の家の妻とはそういう存在でしょう?」
「どうしてそのようなことをお思いに?」
「疑問にお尋ねし返すのは礼儀に反するけれど、あえて申し上げるわ。――私にその程度のことが分からないとでも思って?」
菫よりももっと深い紫紺の瞳には何の感情も浮かんでいない。ただの事実を述べているという表情だ。失策だった。
僕は、タイミングを失わないうちにすぐさま膝を折り陳謝の意を表する。
「これは失礼いたしました。今の僕の発言は小姓のことを鼻で笑えないほど無礼でしたね」
「建前で話していても仕方ないわ。今日は、私、貴方様の意図が知りたくてここまで参りました。ですから、本音で語っていただきたいのだけど、いかが?」
「是非そうしましょう」
最上の微笑みを浮かべながら、腹を探り合っていることは、お互いに分かっている。
本音で話しましょうと言われて素直に本音をぶちまける人間はあそこで令嬢方に絡まれているあのアホくらいのものだ。
彼女との静かな戦いは既に始まっている。水面下で丁々発止のやり取りが続けられる彼女との会話は、そのあたりの役人と話すよりもよほど繊細な注意を要する。
彼女はとても僕と似ているのだ。相手の行動や言動についての情報を蓄積し、相手を分析し、解析する。一を聞いて十を知る。
その、国の女性では「らしくない」聡明さがあったからこそ、恵まれた魔力、家柄、容姿すべてを兼ね備えた希少な存在でありながら、あのじじいですら嫌厭したのだ。
「私、うぬぼれでなければ、貴方様が選ばれるのは私だと思っていたわ。貴方様が以前『妻』に求めていただろう全ての条件を持っておりますもの」
「そうですね。貴女様は僕にはもったいないほどお美しく、聡明だ」
「そちらよりも大事なのは、魔力も家柄も申し分ないこと、でしょう?私もそういう理由で貴方様を選ぼうと思っていたのだもの」
彼女が首を傾げると、黄金と胡桃を混ぜたような、焦がし金色の遅れ毛が微かに動いた。
「私と貴方様はよく似ているわ。持っているものも、思考回路も。以前お会いしたとき、アルコット前当主様が私を忌避した理由くらい分かっているけれど、今回はあの方もそう思っていらっしゃらないし、貴方様も自ら賛同されると思っていたわ。――だからこれまで、私は貴方様の妻になることを疑っていなかった」
こういうのは話した方が情報を引き出されるものだ。それくらいのことは彼女にとっても常識だろうに、今日の彼女はやけに饒舌だ。
彼女の意図はなんだ?
「ご期待に添えず、申し訳ございません」
珍しく他人の意図が読めないことに警戒心を強めながら、無難な言葉を返すと、彼女は扇で口元を隠し、あえて艶めかしい視線を僕に送りながら、その口調に見合わない冷静な口調で続けた。
「私にここまで言わせてもなお折れない理由を教えてくださらない?あの小鳥ちゃんにこだわる理由は一体何かしら?あの小鳥ちゃんが貴方様に与える利益が、私には理解できなかったのよ」
滲み出る聡明さ、国の仕組みを理解する根本的で専門的な知識、洗練された所作、並外れた美貌、溢れる魔力、物怖じしない精神、確固たる信念――恵まれた家柄など、いくらかの違いがあれど、彼女はマーガレット様とよく似た要素を持っている。
けれど、僕の目から見れば、マーガレット様とシャルドネ嬢は真反対に思える。
マーガレット様を動かす根本は恋やら愛やらといった感情だ。目には見えないし、変わりゆく、移り行く、不安定極まりない代物。これに対し、シャルドネ嬢が動く理由は僕と同じ、計算と理性だ。
だから彼女が納得できる理由を挙げられれば、彼女は僕への婚約申し出を固持しないだろう。
そこまで分かっているのに、言葉は出てこない。
婚約者として連れてきた理由ならいくらでもでっち上げられるのに、あいつを僕の本当の婚約者にしたい理由なんて――
きっと今日の言葉少なな僕は、彼女にとっても奇異に映っただろう。普段、会話中に言葉に窮することなんてほとんどないのに、今日に限っては何も頭に浮かばない。我ながら、冴えない脳みそにイライラする。
言葉を探していることを表情に出さないようにするだけで精一杯の僕にちらりと視線を送った彼女は、その目を話題の中心人物がいる方へ流した。
「貴方様ならお判りでしょう?」
扇がぴしりと閉じられ、垣間見える彼女の赤く熟れた果実のような唇が動く。
「この世界で分不相応に目立つ女性がどれほど危険か。どのような目に遭うか。それを分かっていてなおこちらの世界に引きこむなんて、彼女のことを余程道具だと思っているのか、それとも――」
彼女の言葉は途中から聞こえなかった。
彼女が視線を向けた先で、僕の「婚約者」があのくそじじいと対峙し、何かを話しているのが見えた。
エルの顔が強張っているから、どうせよくないことでも吹き込まれているんだろうし、こちらにちらちらと視線を送る様子から、僕とシャルドネ嬢のことを見せたうえで諦めるように説得されていることくらい想像がつく。
それくらいにへこたれるやつじゃないことくらい、さすがに僕だって分かっているから、それだけだったら直ぐに視線を戻せただろう。そして何事もない顔で彼女が言葉を継いでいる間に考えたことを話したはずだ。
それだったらどれだけよかったか。
あろうことか、エルは僕の見ている前で、あのじじいが渡す杯を受け取ったのだ。
目の前で起こるであろう事態を確実に予見できたとき、唐突に音声は戻ってきた。
「特にアルコット前当主様は、分不相応を嫌うお方。そして、ここはほとんどアルコット様の治外法権領域と言っても差し支えない場所。――気に入らない邪魔者を目の間で消し去ることくらい、あの方にとっては造作もないことでしょう」
冷静に語る口調が憎らしくなるほど、それは僕の心の内での予測と被る。
じじいから受けとったグラスの中で波打つ赤紫色の液体をじっと眺めたエルは、それにそのまま口をつけ、令嬢らしくなく、一息に飲み干した。
それが毒入りであることも知らずに。
あのじじいがどんなに非倫理的なことも眉一つ動かさずに行う人間だと知らずに。
毒入りワインを飲み干したエルは、二三歩足取りを乱した後、義父がダンスに誘う手を取る。
体内に致死量の毒を収めたまま、踊る。
おそらく毒による痺れがあるのだろうエルの動きは、僕が以前見たものよりも拙い。
「えるっ――」
「おやめなさい」
叫び出して飛び出そうとした僕と、歯ぎしりしかねんばかりの偽小姓をぴしゃりと引き止めたのは彼女の扇だ。
「あれが致死量の毒入りだと彼女が気づいていないとしても、彼女は何かの覚悟を決めた顔をしていたわ。ダンスを止めることは、彼女の決意と努力を無に帰すことだと、貴方様も分かっておいででしょう?」
ダンスは淑女のたしなみ。そこで転んだり、へまをすることは、自分だけでなくパートナーの顔にも泥を塗る行為だ。大失敗は、令嬢の名に傷をつけ、社会的死をももたらす。
いくらエルに多少の毒耐性があるといっても、あのじじいのことだ。抜かりはないはず。おそらく遅効性のもので確実に息の根を止めにきているはずだが、それだけでなく、この場で社会的にも抹殺する気か。
読め過ぎたあの男の思惑に、目の前がかっと赤く染まった気がした。
父の命。母の余生。穏やかな生活。僕の身柄――僕の全てを奪っておきながらそれだけでは飽き足りないと、そういうことか。
お前は、僕の大事なものをいくつ奪えば気が済むんだ。
「――シャルドネ嬢、扇をどけてください」
僕の低い声に彼女がわずかに耳を傾ける気配がする。
その間にもエルは踊る。必死に微笑みを作って、額に浮かぶ脂汗に気付かれないようにわずかな魔力を使って、もつれそうになる足をかろうじて動かしている。
「――先ほど貴女様は、僕がなぜ彼女を婚約者にしたいのかと問われましたね」
「え、えぇ……」
「そのお答えは単純です」
「え?」
扇で僕を差し止めてくれているシャルドネ嬢の判断は、理性的には正しい。僕の理性がもろ手を挙げて彼女に賛同する。
でもそんなちっぽけなものを押さえつけて異議を認めないモノが僕の中にもあると、僕は今初めて気が付いた。
一度鎌首をもたげたら、一挙で両得以上を得ようと動いてきた僕のこれまでの生き方全てを簡単にひっくり返すほど熱く、強い。
これが、感情か。なるほど、馬鹿に出来ない強さだ。面白いじゃないか。
僕の社会的価値に傷をつけないように配慮してくれた彼女に精一杯の感謝を込めて、僕は、そっと彼女の扇を腕で下ろし、微笑んでみせた。
「僕が彼女の前ではただの男になるからですよ」
シャルドネ嬢が息をのみ、数歩下がったのと、僕があいつに向けて早足で移動したのはほぼ同時だった。
服の間に潜ませて常に持ち歩いている応急用の解毒剤を取り出し、親指だけで栓を抜くと、ダンスを終えて最後の礼をし終えてふらついたエルの体を後ろから支える。
エルは倒れなくてほっとした直後、寄りかかったのが僕だと気づいて露骨にしまったという顔をして「グ、グレン様――」と痺れる舌を動かそうとする。
ほんとに、感情を隠せないやつ。
そこが、可愛いんだけどね。
「このタイミングで自分から口を開くって、お前も期待してるって解釈させてもらうよ」
「は?――っ!」
じじい、そこでそのお前の人生そのままの血みどろ色の目を見開いて、よくよく見ておくんだね。お前の大事な跡取り人形は人前でこんな下品なこともできるんだ。
僕は、エルの腰を片手で支えたまま、もう片手で解毒剤を口に含み、わずかに開けたままのエルの口をそのまま覆い、驚きのあまり抵抗すら忘れたエルに解毒剤を流し込む。
衆人環視の中、僕は、初めて本格的に意識のある状態のエルの唇を奪った。




