16 小姓のヒーローはご主人様ではございません・その3
グレン様から小言に近い諸注意を受け、「小姓」である兄様から気を付けるべき人を教えられた後、僕は、二人としんと静まり返った廊下を歩み進んだ。
そうしてたどり着いた会場の扉が重々しく開けられた時、室内の光で煌々と照らされる僕とグレン様に会場中の視線が集まった。
会場にはたくさんのご令嬢方とその家の当主や当主代理だろう男性方がいる。
これだけの人に注目されたのは前回の大会の時をいれれば二回目だけど、戦うべき相手が目の前に立っていた対戦者ただ一人だった前回とはまるで違う。少なくとも僕にとってはこの会場にいる全員が敵。敵とは言えなくても好意的でないのが直ぐに分かってしまうくらいには不躾な視線が多い。
他人から向けられる純粋な嫌悪って、分かっていても嫌だな。
恐らく王城でこれよりももっと露骨な視線にほぼ毎晩晒され続けたであろう姉様の心労を想うと胸が痛い。
会場の雰囲気に少しひるむと、僕の右手を支えているグレン様の手の力が強くなった。
勇気を持てというように優しくきゅっと握られる――――――――のではもちろんなく、絹の光沢輝く白手袋に皺が入り、僕の指の骨がみしりと音をたてるくらい、思いっきりだ。叫び出しそうになった声を必死に噛み殺す。
さっきまで深刻な話を聞いて同情したのが一気に馬鹿馬鹿しくなるくらい通常運転だな、この野郎!覚えてろよこの鬼畜ご主人め!叫び出せないどころか歯を食いしばることすら許されないのを分かってやってることくらい、その口元で分かるんだぞ!
いけない、ここは優雅に微笑む度量を見せなければいけないところだ。
僕は役者、僕は役者、僕は役者!
痛みで目を潤ませながらも、にこりと淑女の笑みを浮かべ、会場のお客様に向け、わずかに腰を落とす。すると、ドレスのフレアの裏側に縫い付けられた中から、小さくざらりとしたあったかい何かが押し付けられる感触がして波だった心が和んだ。
この感触は、今日の僕の最大の味方、チコの肉球だ。
今日のあの子は、会場で渡される物の匂いで僕に危険を教えてくれたり、傍に控えている兄様やグレン様に助けを求めに行ってくれたりする役目を負っているらしく、この会場に来るまでの間に兄様に連れられてやってきた。
一瞬目を合わせた兄様の手に引っかき傷があったのは、初対面時に僕に成りすましていることを匂いであっさり看破され、警戒されてしまったために和解に時間がかかったためらしい。
(人ではないけど)人情があり、思いやり溢れ、勇敢で、僕のピンチにいつも駆けつけてくれる真のヒーローが傍にいるんだ。不安なことなんてない!
守るどころか甚大な害をもたらすどこかのご主人様とは大違いの、頼もしい僕のヒーローは、グレン様が挨拶をしている今まさにこの瞬間も、僕に危険を教えてくれている。
挨拶を終えた後、グレン様が上段から僕を連れて階段を下り、一番のお偉いさんであるアルコット家当主の元に向かうことになっているのだけど、その時僕が歩く場所は決められている。そのちょうど進行先にあたる三段下のところに何かを感じたみたいだ。
グレン様の挨拶の内容など、らしくもない緊張で右から左に流れ最初から全く聞き取れていないので、潔く思考を切り替え、「小姓」としてグレン様から少し離れた傍に控えている兄様に目配せすると、兄様は、グレン様が挨拶を終えたタイミングでするりと階段下までやってきた。
悲しいことに、二年間小姓をやっている僕よりずっと小姓らしい動きが身についている。
「どうしたのエル?なにかあった?」
「あ、そっ――」
「御足元の絨毯に尖ったガラスの欠片がございました」
うっかり返事をしかけ、瞬間、僕の手にペンで思いっきり突き刺されたような痛みが走る。息を吸うように僕にお仕置きをした隣の相方は、こちらに目も向けないまま、「エル」をねぎらった。
「そう。よくやった。お前のおかげでエレインが怪我をしないで済んだのかもしれないね。あとでご褒美をあげるよ」
「……ありがとう、ございます。エレイン様もお気をつけください」
兄様は、薬品で色を変えた青い瞳をちらりと僕に向けてからグレン様に視線を移し、一瞬だけ眉根を寄せ、悩まし気な顔を作る。対するグレン様は、そんな兄様にとろけるような笑みを見せた。しかし、二人の視線の邂逅はほんの瞬きの間だけで、すぐに二人とも目を逸らす。
絶妙な時間のうちに露骨すぎない程度だからこそだとは思うが、辺りの大勢が「あの噂は真実なのかもしれない」と思ったらしく、囁き声の小さなざわめきが起こった。そして、動物の感でなにか恐ろしい気配を察したらしく、足に触れるチコの毛もちくちくした。
雰囲気だけで毛が逆立つ気持ち、分かるよ。僕も上腕から肩の裏側あたりにかけて鳥肌が立ってるもん。
二人の様子は、僕の目から見ても、「よその人の前である今、『目上の主人』を直視することすら許されずに、妹に最愛の人の隣を譲る苦しみに苛まれている愛人と、それを安心させようとする恋人」のようにしか見えなかったんだから。
この二人の邪魔をする「妹」として、妙な噂の愛好家に刺されるんじゃないかと思うほどの兄の根性と主人の演技力が怖い。
さっき見たときもこの三日間くらいどう過ごしてきたのか問いただしたくなるほど険悪なままだったくせに、なんなんだよ今の!
お互いに、胃の中身をぶちまけたい!くらい思っているんだろうに、嫌な素振り一つ見せずに行った鳥肌ものの演技を僕がぶち壊しにしてしまったら――なんて考えれば、僕の方が吐きそうだ。
「……お兄様、あ、ありがとうございますっ」
薄気味悪さから、鈴を転がすような声を出すはずの当初の予定が狂い、お茶入りカップをひっくり返したような声になってしまったせいで、僕は再び手にお仕置きを食らうことになった。
前当主様がまだいらしていなかったので、最初に挨拶に向かったのはアルコット家の現当主とその奥方様だったが、ここは見事に他人行儀で無難な挨拶で終えられた。以前感じた通り、現当主様はグレン様とあまり顔を合わせたくないらしく、向こうが適当に済ませてきたのだ。
少しでもぼろを出したくない僕にはありがたいことだけど、苛立ちと不安は増した。
小さい頃に実のお父上が亡くなっているという話が本当なら、グレン様に頼るべき身内はほとんどいなかったはずだ。
それなのに、放り込まれた環境でこんな態度を取られて続けていたのなら、色んな意味で素直だと評判のこの僕ですらひねくれてもおかしくない。
グレン様のお味方であるはずのグレン様のお母上は、大丈夫なのかな。
もやもやした思いで挨拶を続け、一通り来客の皆様との挨拶を終えた頃、グレン様がアルコット親族に捕まり、僕は追い払われたので一人で他のご令嬢方の相手をすることになった。
「基本的に料理と飲み物に口をつけるな。忘れるようなら、ふわふわで何も詰まっていないその脳みそに叩きこんであげるよ」とグレン様からおそらく比喩でない物騒な念押しを受けた、僕の単独行動時間だ。
ご令嬢方には、見た目も出身もいろんな方がいるけれど、みんな大体共通していることがある。
まず、どの人も文句なしに美しい。
幼いころから位の高い男性と縁を作り、家を広げることを一番に考えて教育されてきた淑女たちの中でもグレン様のお相手として連れてこられた皆さまだ。お顔だちもさることながら、所作が特に素晴らしい。お金をかけたドレスや化粧で飾り立てられていることを差し引いても、誰もが認める美人さんばかりで、にわか仕込みの僕と比べるなどおこがましいにも程がある。
でも、外見がせせらぎ聞こえる湖畔だとすれば、中身は長いこと水がせき止められた澱んだ水たまりに近い。いつも嫌味たっぷりなご主人様に鍛えられた僕と少し問答するだけで僕への敵意を隠せていない家の多いこと多いこと。
もちろん、そういう家やご令嬢ばかりではないのだけれど、そういった害意の少なそうな人たちのところへ行く前に幾人かで徒党を組んで僕を積極的に囲んでくる悪質な集団の中に取り込まれてしまった。
「エレイン様は田舎――いえ、森に囲まれた領地でお育ちになられたと伺いましたわ」
「あら、それでかしら。なんだか野蛮な――いえ、自然の香りがしますわね」
「わたくしの領地の場所でしたら、以前は王太子殿下や陛下もお通いになっていた学園のすぐ近くですの。今お通いになっている殿下も静かな環境で勉強に集中できる魅力的な環境と仰っているそうですわ」
これ以上僕の故郷を馬鹿にすると、王子殿下方が野蛮な場所にいらっしゃると言うことになるけどいいの?との怒りを籠めてにっこり笑う。
「お召し物は流行色ではありませんのね。領地が王都から遠いと大変ですわね」
「流行色は濃青でしたかしら。あえてドレスまで合わせてしまうと、アルコット家の色と浮いてしまいますもの。せっかく今日というグレン様のお知り合いにお会いする大事な日にそんなお目汚しはできませんわ。目の色だけでお見逃しいただけませんか?」
言いながら、ぱっちりと目を見開いてみせる。
流行色が青なのは、まもなく結婚を迎える姉様の瞳の色がコバルトブルーだからだ。ドレス姿で凛と立つ姉様のご容姿が美しすぎて芸術家が心奪われたのが発端らしい。
女性のドレスの流行に敏くなくても、そんな自慢話を僕があの姉様溺愛の殿下から聞かされていないわけがないでしょ?
そして僕の目だけは姉様に瓜二つなのだ。妹の特権!
「そ、そうね。中身が伴えばもっと素敵にお召しになられたのではないかしら」
「えぇ。仰る通り、少々胸のあたりがきつくて……調整が追いつかなかったのです。お恥ずかしいですわ」
腕で挟み、ナタリア特製シュミーズの成果を見せつける。
せっかくだから生涯に一度は言ってみたかった言葉を言わせてもらうよ。僕がこのセリフをこの先言うことは一生ないだろうからね!
「エルドレッド様の色気をエレイン様も身につけていらっしゃったらもっと魅力的になったでしょうね」
「本当に。先ほどの瞬きときたら、心奪われましたわ」
「……え、えぇ、そうですね。お兄様に秘訣を教わりますわ」
「僕」じゃないからこそあるものだよそれ!!
――とまぁ、こんな嫌味が延々と続けられている。
最後のはおいておくにしても、人の壁で周囲の視界を遮った上で嫌味や嫌がらせをしてくるとか、器が小さいなぁ。グレン様のお心と同じくらい狭い。
内心で悪態をつき、時折やり返しながらも嫌味の応酬を聞き流しているうちに、お綺麗なお顔を真っ赤にしていたお一人が合図し、僕の前に皿が差し出された。
「……これはなんでしょう?」
この集団の中ではまだ良心的だったご令嬢から小さな悲鳴が漏れたが、周囲は関係者で囲まれているのでグレン様のいるあたりまでには届いていない。
「我が領の一部で流行っているお料理ですわ。是非エレインさまに召し上がっていただきたくて」
「いいお考えですわね、じゃあわたくしのも召し上がって?」
「わたくしのもご用意させますわ」
描写は差し控えるが、むごいの一言で総称できる数々の自称・料理たち。
吐き気を催しかねない匂いと見た目のそれらを料理と呼ぶことが世間的に許されるとしたら、だけど。
ちょっと嫌がらせされたからって全然へこたれない僕への敵意を隠さないのはいいんだけどさ、腐った料理やゲテモノを渡すのはどうなの?
日頃動物たちの死骸とか内臓とか、それの原因になるような虫を日常的に見てる僕がこれで怯えるはずがないが、さすがに目に余る。貴族って高潔って誰が言ったんだ、ほんと。
こういう嫌がらせがあったときどうするか。
ヨンサムなら、殴り合って正面からぶつかる。リッツなら口八丁で所持金をむしりとり、学園生活上の貧困層に没落させる。グレン様なら嫌がらせを受ける前に文字通り「滅する」だろう。
平和主義者の僕は当然、そんなことしない。
変わらず愛らしい笑顔を浮かべながらお話するだけだ。
「あ、すみません、お皿が重くて……」
などと、チコが教えてくれる危険物だけはうっかり落とし、
「わたくし、小食なので取り分けていただけませんか」
と異臭を放つその他の料理をとりわけさせた後、にっこり微笑みながら、どうぞと突き返す。
「珍しい郷土料理をいただけるなんて光栄ですわ。ですがわたくし、ずっと同じ田舎に籠っておりましたもので、いただき方が分かりませんの。どうぞ、お先に召し上がって不勉強なわたくしに王都の常識を教えてくださいませ」
グレン様ほどのド級のキチガイに慣らされた二年間を舐めないでほしい。
武術も魔術も女性としての振る舞いも付け焼刃な僕の真の刃は、この二年間にみっちり鍛えられ続けた毒舌と、頭のおかしい人たちを笑って見守れる度量に決まっている。
僕の動じなさに気圧されたご令嬢方相手に胸を張った時、チコが僕の足をひっかいた。グレン様と兄様の鳥肌ものの演技以来初めての、深刻ななにか感じたときのチコの合図だ。
ご令嬢方とその付き添いの人垣が割れ、こつこつと杖の音を響かせながらこちらに歩み寄ったその初老の男性は僕の前で足を止める。
「エレイン・アッシュリートン嬢かな」
身を返しその人を視界にいれた時、僕もすぐに相手が誰か分かり、すぐに腰を落とし、淑女の礼を取る。
「はい。お邪魔しておりますわ。レイサン・アルコット様」
グレン様のお父上を死なせたご当人、アルコット家元ご当主は僕の前で柔和な笑みを見せた。
次話から視点が変わります(多分)。




