12 小姓はご主人様に敵いません
グレン様がペットにエサを与える主人の顔で僕の頭を撫でた後、ソファの自分の隣をぽんぽんと叩いたので隣に腰掛けろということだろうと理解し、傍に行って隣に腰を落とす。
すると、グレン様は隣に座った僕の顔をじっと見てきた。
うわー真顔だと邪悪な笑顔がない分、愛らしさが際立つなぁ。
いつもこうして対面するときは首を絞められているかなにかで目を瞑っているか、避難退却の手段で頭がいっぱいなので、こうやってグレン様のお体の成長を観察するのは久しぶりだ。
小さめの骨格のお顔の中心に小ぶりで高い鼻がすっと通っている。形のいい薄い唇はほんのり赤くて艶めかしい。その整い過ぎた顔立ちの中でも一際際立つのは、純度の高い赤い宝石のような瞳だ。長い睫が丸く整った赤い宝石を縁取っていて、じっと見ていると吸い込まれそうで怖い。
清純な子供のように愛らしい顔立ちと、大人の色っぽさの両方があって、グレン様のお顔が好きな人たちはこの差にやられるのかなぁとぼんやりと思う。
天使なんて物語の中でしか聞いたことないけど、きっと本当にいたらこの人みたいな顔してるんだと思っていた。顔だけはね。顔だけは。中身は神に見捨てられたか、それとも悪魔に魅入られたかのどっちかに一つしかないはず。
初対面で会ったときは、そういう可愛い印象が大半を占めていたのに、今は女の子に見間違えられることはないだろうな、と確信できるほど男の人っぽさが増した。
そりゃグレン様も十九歳だから普通はそうなのだけど、あんまり物を召し上がらないから成長してるのか心配してたんだ。体が成長するくらいには栄養を取ってくださっているみたいだ。よかった。しかし、身長に回せないんだろうか、その栄養。あんまり背は変わってない気がする。――いやでも、これ以上女性をたぶらかす要素を身につけると被害が拡大しそうだ。今のままでいいや、やっぱり。
それもしても、どんな親から生まれればこういう顔になるんだろう。
前に殿下の婚約者を決める会場でアルコット家当主のお顔は見ているけれど、うろ覚えだ。あんまり似てないと思ったのだけ覚えている。似ているのは瞳の色だけで、これはアルコット家の一番の特徴なのだと聞いたから、ほとんど似ていないことになる。
もしかしたら、グレン様はお母様似なのかな?
一度お会いしたいな。
「お前さ――」
って、僕が見てるってことはそれだけ見られてるってことだった!ほら、グレン様の宝石みたいな瞳の真ん中にぼんやり僕がいるもん。
いやー僕が愛らしいからって、こんなに近くでまじまじと見られると照れるじゃないか。
「な、なんです?」
ちょっと熱くなった頬がばれないよう、こころなし視線を外に向け、横目でちらとグレン様を見ると、グレン様は不思議そうに首を傾げた。
「なんで僕と同じ目線に座ってるの?ご主人様と同じ位置に座ろうなんて百年早いよ」
「今ご自分の隣をポンポンしたじゃないですか!」
「こっちに回って下に来いって意味に決まってるでしょ。ほら、頭が高い」
さっきまで撫でられていた髪がぐしゃりと掴まれ、そのまま頭を潰された。
落とされ、ソファ下までになった場所から不満を籠めて睨み上げると、グレン様は心底愉快そうににやにや笑う。
不条理だ!理不尽だ!やっぱり可愛いのは顔だけだった!
グレン様のお母様にお会いしたら、どういう教育をなさったら、これだけの素材がこうも捻くれてしまったのかについて、ひざを突き合わせてお尋ねしたい。
「当日のことだけど、まず一番大事なことは、お前が自分を指すときに『僕』と言わないこと。女装の出来栄えのほどは知らないけど、それで全てが台無しになったら僕が道化になる」
そういえば、先ほど、いち早くあの場から退散することしか考えてなかったため、ドレスの試着をして化粧もした完全女装状態をパートナーたるご主人様に見せなかった。
まぁ、ナタリアが「あぁよかった……!立派な女の子に化けてるわよ!」とお墨付きを出してくれたからきっと大丈夫だろう。ちなみに、僕は一応生物学上女なのだが、ナタリアの頭の中ではすっかり「化ける」ものになってしまっていた。悲しい。
「そうなった場合の僕の心配はしてくださらないんですね」
「自業自得でしょ。切り捨てるに決まってる。それから、僕もお前を本名で呼ぶからちゃんと反応しろ」
「え?偽名じゃなくて、本名を使うんですか?」
「お前が偽名を呼ばれて反射的に反応できるくらい物覚えのいい小姓だったらそうするけど、できる?もし一回でもミスしたら新しい自白剤を飲ませたうえで訓練してもらうよ?ちなみにそれ、意識が朦朧とするだけじゃなくて加減を間違えると人格が迷子になって一生帰って来ないくらいの強烈な薬なんだ」
それは世間では立派な拷問だと思う。グレン様の敵対者よりもなによりも、一番警戒すべきはこのご主人様だ。
「またそんなものをお作りになって……。大体、僕の嘘なんかグレン様ならそんな道具なくても見抜けてしまうでしょう?」
「もちろん。だからこそお前の『訓練』なんだよ。適正量の実験はついで。お前に毒が効きにくいならちょうどいいかなと思ってさ。こういうのをきっと運命って言うんだろうね」
「僕にとっては災厄、若しくは不幸だと思います。運命だなんて、柄にもないこと仰ることもあるんですね」
「そう?最近は僕もそういうものを信じてもいいかなって思ってきたよ」
グレン様が、さっき押しつぶしたまま僕の頭に乗せられていたご自分の右手を放し、一度拳を作るとそれを少し開いて、軽く笑った。
「いい意味でも悪い意味でも、人の力を越えて『起こってしまうこと』ってものがあるんだろうってね」
あ、この笑い方、嫌いなやつだ。抱えきれないほどのことを中途半端にため込んで飲み込んで我慢しようとするときの笑い方だ。
こんな力のない笑い方は、グレン様には似合わない。こんな顔するくらいなら、悪どいことを考えているときの悪い笑顔でもいいから、もっとふんぞり返っていてほしい。
「珍しく弱気な発言ですね。グレン様はそういうものをお嫌いそうなのに」
「大っ嫌いだよ。自分の力でどうにもできない歯がゆさを我慢するのは特にね」
「えぇ、グレン様、やせ我慢大好きじゃないですか。僕に対する嗜虐趣味を除けば」
「あぁそうだね、運命の存在を見つけられて僕は幸せだよ」
「今、僕の耳には、手ごろな発散対象と聞こえました」
「耳掃除代わりに焼けた鉄棒でも突っ込んでおく?」
「耳垢どころか耳も脳もなくなるので遠慮いたします」
よかった、いつも通りだ。恐ろしい。
それにしても本名か。自分の名前を訊かれて「エルドレッドです」と反射で答えられるくらいにそっちで慣れているので、本名で呼ばれても反応できない気がして怖い。
「あ、だからこの前本名を訊いてこられたんですねー。納得しました。でも、それなら尚更あんな取引なしでもお教えしましたのに。まぁ、傲慢を人の形のようにした方が、思い通りにいかなくていじける貴重な表情を見られたので僕はいいのですけど」
「ふぅん。お前の話だと、あの時は臓器を要求しておけばよかったんだ?色々実験したいことはあるから、今から材料提供してくれても構わないんだよ?人の臓器ってさ、さすがに人道的に問題あるから、正規の手続きを踏まないで手に入れるのは少し手間なんだ」
「い、いやぁ、僕の本名って誰にも知られてない貴重な情報ですもの!僕なんかの臓器以上に価値がありますって」
「誰にも興味をもたれない程度の情報ってだけでしょ。まぁお前の名前の価値なんてどうでもいいよ」
「あんなに強行に迫るくらいお知りになりたがっていたくせに」
「あれが演技だったかもしれないよ?」
「だ、騙されません。あんなに本格的な演技できるわけ――う、グレン様は嘘と欺瞞の塊でしたね。……でも気分屋でもあるからあの時は本気でそういう気分だったのかもしれないし……」
「ほら、揺らいできた。お前ほど騙しやすいやつはそうそういないけど、それでも、嘘と真実を混ぜて話すと人は騙されやすいからね。お前も周りと話す時はなるべく真実を伝えて、どうしても辻褄が合わないところだけ嘘をつけ」
「聖人君子の顔して一皮むくと悪魔になるどこかの尊敬すべきご主人様を見習い、精一杯頑張ります」
「お前はよっぽど僕に絞められたいらしいね。しばらく会えない日の分、絞めておいてあげてもいいんだよ?」
「僕の首を絞めることを一日のノルマみたいに仰らないでください。手を伸ばすなー!」
ん?待てよ?
グレン様のお仕置きを防御しながらはたと気づく。
「そういえば、小姓である僕が主人の婚約者選びの会場にはせ参じないっておかしいですよね!?」
そう。小姓は主人と常にともにある存在。その小姓である僕がグレン様の婚約者という大事な存在を選ぶ場所にいないなんて、不自然極まりない。つまり、会場に「エルドレッド・アッシュリートン」が存在できないのは大変まずいのだ。
「僕、自分を二人作り出すなんてことはできないんですけども……」
「あと二日でそんな高度な魔法を編み出せたら僕が高級菓子を好きなだけ食べさせてあげるよ」
「本当ですか!」
よし、訓練しよう。絶対にだ。今度こそあの美味しいお菓子を心置きなく食べるんだ!
「不可能なことに労力を割くより、現実を見るべきだとお前が悟るいい経験になるだろうね」
「最初から努力を否定するのはよくないと思います」
「僕は有能な現実主義者だから、無謀と希望を間違えたりはしないんだよ。というわけで、お前とは違って予めそこについての現実的な策も立ててある」
「ご自分で仰らなければ素直に褒められるのに、そういう残念さに哀愁を覚えます――わたたたたた!髪が抜ける!はげるー!」
グレン様が僕の髪を引っ張ったまま、ソファの背もたれから後ろを覗き込んで言った。
「これだけこいつと僕の会話と動作を見れば、十分だよね?君なら」
ん?誰かいるの?
グレン様の向く方を振り返って叫びそうになったところで、これまた予想していたのか、グレン様に口を手で封じられた。
目を見開き固まる僕の正面に、カーテンの影から、くすんだ灰色の短い髪に丸っこい青い瞳の、風呂場や部屋でよくよく見慣れた少年がやって来て、にやりと笑ったのだ。
「――僕、優秀な小姓なんで、それくらいお手のものですよ」
そこには、学生服に身を包み、赤い首輪をした、いつもの姿の僕がいた。




