4 小姓に容赦はされません
「あ、そうそう。危なかった、忘れてたよ」
そう言ってわざとらしくぽん、と手をたたいたグレン様は服から取り出した小さな指輪をご自分の両親指に嵌め、手を広げてこっちに見せてくる。
「その指輪は――?」
「ん?魔封じの指輪」
魔封じの道具とは、その名の通り装着した対象の魔力の放出を封じる道具だ。
この世界で魔法を使うためには、ざっくりと分けて、器たる血筋、組成と放出にあたる鍛錬力、威力に係わる気力の三つの要素が必要不可欠だ。
器とは、魔力を現象化――すなわち魔法を使うことができるほどの魔力を持っていることを指し、血縁でその有無と多寡が決まる。
だけど、魔力は力の源に過ぎないから、あるだけで使えるものじゃない。体内の魔力を魔法にするためには、それを練って体外に出すことが必要になる。
この、練った力を人間の体の不可視の穴――放出孔から出すところまでが「鍛錬」と呼ばれる過程だ。練る、もしくは編むやり方――正式には鍛錬法と言うけど――には色々あって、一定の言葉を唱えたり、手で動作をするのもその一つで、逆に言えばその動作や言葉なく練ることだってできる。現に、グレン様のように宮廷魔術師として魔法を使うことを本職にする人たちは誰も目に見える形での鍛錬法は使わない。
そのやり方や気力の籠め方、魔法についての細かい概念などは今は割愛するとして、これが魔法発動についてのざっくりとした説明だ。
まぁ、学園に通って何年もかけて勉強する内容だから、僕が簡単に説明したよりももっとずっと深くて難しいのだけど、魔法系の筆記試験では大体平均値やや上の僕にはこの程度の簡略化で勘弁してもらいたい。
それでもって、この魔封じの道具というやつは人の体にある放出孔を塞ぐ――蓋のような物だと思ってくれれば正しい。その中でも、鍵付きの効果の高いものを着けると、対で作られた鍵で開錠しない限り魔法を封じられる。外から剣などの武器で物理的に壊すことは一応可能だけれど、人外の力を加えなければ無理だし、その場合、そもそも嵌めている体の部位の方が壊れてしまう。だから、実際には鍵を使わないで開錠する手段はないとされている。魔法を使える罪人や魔獣の拘束に使うのが一般的な使用法で、どの国でもなくてはならない有用な(もちろんお高い)魔道具だ。
ここまで来れば、この鍵がいかに重要か分かっていただけると思う。
鍵を無くすことは、魔法を使う人間にとってはありえない。自分の首に縄を括って木から飛び降りるようなもんだ。
……そのはずなのだけど、グレン様は僕の方を向いたまま、鍵をぽいっと勢いよく後ろに放ってどこかの草むらに捨てた。
何やってんだこの人!?
「な……?!何を考えていらっしゃるんです!?」
「え?楽しく生きる方法?」
「なにひねくれた子供みたいなこと仰ってるんですか、今思いっきり鍵を捨てましたよね!?」
「鍵のスペアくらい、自室にはあるから安心しなよ」
「だからって意味不明です!!自虐などに目を向けるなんて……!これまでの有り余るご自分至上主義を半分……いえ、四分の一くらいは取り戻してください!」
「僕が魔法を使って助けてくれるなんていう甘い考えでいたらお前は僕に甘えて本気でやらないだろうから。お前を成長させようっていう僕の優しさをありがたく受け取って」
「ありがた迷惑もいいところです!グレン様が最終的に助けてくださるかもしれないなんて生易しい考えは生憎この一年半で綺麗に跡も残らず消え去っています!」
涙ながらに訴えてもグレン様の笑みは深まるばかりだ。目がこれから僕に起こるであろう悲劇に輝いている。
自虐なんかじゃなかった……!この方にあるのは究極の嗜虐趣味だ……!
「だーいじょーぶだいじょーぶ。神様は越えられない試練は与えないんだって。教会のお偉いさんが言ってた」
「今試練を与えているのは僕のご主人様であって神様ではありませんよね!?乗り越えられない可能性は十分あります!!」
「この一年半で無駄なとこだけ小賢しくなったね。気づかなければ幸せなのにさ」
「これも悪知恵しか働かせないご主人さまのおかげですよ。徐々にグレン様の色に染められていると専らの評判です。主に殿下方から!」
「ま、御託並べてないでさっさと行きなよ」
グレン様に背中を思い切り蹴り飛ばされてたたらを踏む僕を、薄暗い洞窟はあっさりと招き入れる。洞窟の入り口を振り返れば、満面の笑顔のご主人様が可愛らしく手を振っているのが見えた。
死ねこの外道!!鬼畜悪魔のドS野郎!! あぁ一体なんで僕この悪魔に捕まったんだろう?生きて戻ったら必ずこのお返しはしてやるからなご主人様よう!!
と、文句を並べている暇はない。とりあえず今は現実の「洞窟の奥の生き物」に集中しなきゃ。
今やるべきことは大蛇さんの説得。それが出来なきゃ僕は死んじゃうわけだし。
洞窟の奥からはしゅうしゅうと生き物が呼吸する音がこだましている。
洞窟に染みついた饐えた獣の匂いに息を詰めて袖口で鼻を覆いながら足を奥に進める。
学園の近くにこれだけの上位魔獣がいたのなら、ここ最近の動物たちが妙に落ち着かなげでピリピリしていたのも納得できる。
魔獣の基本的な生態は動物と一緒だ。知能が高いから一概には言えないけれど、強いものが勝ち、弱いものが負ける、という弱肉強食の世界。上位下位の力の差が大きいからこそ、身を守るためには上位魔獣に対しては逃げるしか生き延びる術がなく、逃げ場を失ったときに下位の魔獣たちは死の恐怖に怯えるのだ。
その弱者の気持ちが僕には骨身にしみてよーく分かる。僕もまさに上位魔獣のようなご主人様に飼われているからね。
既に大蛇と思しき上位魔獣は、そろそろと近づく僕の存在に気づいている。
その証拠に、しゅうしゅうという呼吸音がわずかに小さくなり、黄色い光を放つ目が暗闇からこちらに向けられている。目を合わせると石化するタイプの魔獣じゃなかったのは幸運だった、と後から思った。
ハナから攻撃するつもりのない僕は、これ以上近づいたらきっと噛みつかれる、というギリギリの場所まで進み、呼吸音で相手を刺激しないように細心の注意を払いながら声をかける。
「は、はじめまして……僕は、エルと言います。今日は、あ、あなたにお話があって来ました。実は、ここが人の住む場所に近くて、ですね……あなたがいると、人間たちが過剰に怯えてしまうんです。それで、手遅れになる前にできれば場所を移していただけたらなーと――」
言いかけたところで、ひゅっとわずかに風が動いた。
本能的な危機感に従って後ろに大きく跳んで下がると、ほんの少し前まで僕がいたところの地面が大きく抉れている。
まずい、と思って光を生み出して照らすと、その巨体がはっきりと認識できた。
見上げても足りないほどの、洞窟の天井ぎりぎりの大きさがある大蛇が、しゅーしゅーと音を立てて進み出て、その全容を露わにした。
学名、タレタレシャーレ。ふざけた名前に見合わない恐ろしい破壊力を持つ大蛇の魔獣だ。
上体をくねらせて僕を睨みつける目の前の魔獣は、幸いなことに目を見るだけで敵を硬直させるようなタイプのものではない。上位魔獣の中では下の方に位置する種類だと頭の中で冷静に考える。
とはいえ、口から吐き出される酸も、牙から注入される毒も、相手を締め付けるその力も、人間の命など容易に奪う危険なものだから全然安心できるものではない。その巨体を進めるたびに、両手に抱えるくらいの石があっさりと磨り潰されるほどの重量だ。
しかも、よくよく見ると、生半可な武器など通さないはずの全身を覆う黄緑色の鱗がところどころ傷つき、裂けている。これだけ大きな上位魔獣に対抗できる認可外魔獣の存在はこのあたりでは確認されていないから、もしかしたら僕たちより先に人間と交戦したのかもしれない。それで傷ついて怒っているのだとしたら人間である僕との話し合いの余地は限りなく狭い。
進み出た大蛇の鎌首をもたげられ、背中に粘ついた汗が流れた。
これは、蛇類の威嚇の体勢だ。
「ま、待ってください!!僕にはあなたを攻撃するつもりなど全くありません!あなたに危害を加えるつもりも……!ただ、ここから出てもう少し森の奥に入っていただければと――わぁおっ!」
じゅっと吐きつけられた毒が、移動する前に僕がいた場所にあった岩をあっという間に溶かす。
わー話し合う気ゼロだよー!
そのまま飛び込んできた蛇の頭を避けながら入口にいるはずのご主人様に呼びかける。
「ぐ、グレン様っ!説得は失敗です!無理みたいです!」
「じゃあ殺すしかないね」
「い、いやっそれはっ!」
「どっちにせよお前に任せてるから僕はなーんにもしないよ?拾う骨が残るようせいぜい頑張れー」
「それ僕死ぬ前提ですってぇ!!呪ってやる!」
「お門違いの八つ当たりは見苦しいよ?」
なにがお門違いだ!あんたのせいに決まってるだろ!
洞窟入口付近でにこにこと笑っているであろうグレン様の方を振り返る余裕など全くない。
迫りくる巨体の牙を再び紙一重で避け、蛇の脇を駆けると、今度は尾が力強く僕をたたきつぶそうとしてくるので反転して避ける。
ただ反転するだけでも洞窟の地面は岩肌だから、ごつごつして痛いんだぞ!
くっそ!鬼畜のご主人様め!あれ絶対に!絶対に助ける気がない!!僕自身でなんとかしないと!!
例え魔法で攻撃したとしても、非戦闘員で攻撃魔法が大の苦手な僕の魔法攻撃などまず当たらないし、当たっても威力が低すぎて屁とも思わないだろう。ナイフは持っているけれど、こんなもの鱗に負けてすぐに切れ味を無くす。なによりこちらが攻撃意思を示せば、その瞬間に交渉の余地は失せ、殺すか殺されるかの世界に突入してしまう。そんなの嫌だ。
結果として、この二年ほどで鍛えられた動きで、なんとか巨体での突進や噛みつき、毒液から逃げまくることしかできない。鱗が滑らかなおかげで滑りつつも避けられたことが何度あったか。そのたびに僕の短い寿命がどんどん短くなっていく気がした。
けれど、そうして逃げ惑ううちにどんどん洞窟の奥に追い詰められる。薄暗い中で大蛇の黄色い目だけが不気味に光り、僕はその恐怖に耐えきれずに背中を向けて全力疾走した。
「敵から目を逸らすなど言語道断だ」とイアン様には言われているけど、振り返りながら走るなんて無理ですよぉ!!
足元すら見えないくらいの暗さの中を走っていたせいで、僕は何かにつまずいて湿った地面に顔を強かぶつけてしまった。
「うわぁ……!ったぁ!!……しまったっ!」
その隙を大蛇が逃がすはずもなく、長い胴体が僕の胴体に巻き付き、そのまま締め付ける力が強くなっていく。とっさの防御魔法などクッションにもなりゃしない。
……あれ、これ、本気で僕、危ないんじゃない?