6 小姓は動揺いたします
学生街まで馬車に揺られる(とはいってもふかふかのクッションが敷かれている高級馬車なので、揺れはほとんどない)間、僕はずっとグレン様の綺麗な横顔を見ながら、先ほどヨシュア君に言われたことを考えていた。
適当なところはとことん適当な父様だけど、父様の警告が外れたことはこれまで一度もない。
その父様の警告は、僕宛てじゃなくて、グレン様宛てだった。
それを父様があえて僕に伝えてきたということは、ご本人が気づいていないことではなくて、僕が知らないこと。つまり、グレン様が僕に隠していることなのだろう。
グレン様は一体、どんな困難に足を突っ込んでいるんだろう?こんな、どんな相手も自分の下に跪いて当然だと思っているような涼しい顔して、その裏にどんな苦悩を隠しているんだろう?
訊きたいけど、ここにはヨシュア君もいる。訊いたところで、この状況の中、僕に素直に話してくれるとも思われない。この方にそんな可愛らしい素直さがあるなら、とっくの昔に友達を十人までは増やせたはずだ。そびえたつ山の如く無駄に高い自尊心と厭味ったらしい毒舌が邪魔をして、人間関係における新入生の最初の課題すら達成できていない可哀想なお人なんだから。
「さっきから僕の顔を穴が空くほど眺めてる理由は何?」
グレン様が窓の外を覗いたまま、ちらりと視線だけをこちらに向けて来た。
「ご主人様のあまりのお美しさに陶然となっていたところでございます」
「心にもないことをぽんぽんと言うようになったじゃないか。四六時中僕に付き合わされてうんざりだと心の中で一日に一度は叫んでいたお前が、僕の顔に今更見惚れる理由はないと思うんだけど」
「絶世の美貌に改めまして心奪われていたところだったんです」
「……ふぅん、あくまで貫き通す気か」
同じ言い訳を使ったところ、グレン様はわざわざ僕の正面からその美しい顔を向けて、にこにことほほ笑んだ。
「今見えてるのは顔だけでしょ。お前がそんなに褒めてくれることなんて滅多にないから、僕、舞い上がっちゃって全身を披露したくなるかも。何の隔てもなく」
「露出狂もいいところな発言はお控えください」
ヨシュア君、まずいよ。どうすればいいだろう?この人、聞きたいこと聞きだすまで諦めない気だよ。
と、隣を突っついたが、反応がない。
どういうことかと見てみれば、ヨシュア君はすぅすぅと愛らしい寝息を立てていた。
うわぁ、これ、絶対狸寝入りだ。この子、なかなかいい性格してるよ。
ヨシュア君の助け舟が泥船並みに使えないことを頭に刻み付け、一人でご主人様と向かい合う。
本物の猛獣の方が少しは歩み寄りの余地があるかもしれないと思ってしまっている時点で、今の僕の心は危機感でいっぱいだ。
大体、この人、心の中読めるんだよね。だったらわざわざ僕に口に出させる必要ないじゃないか。なんで言葉にさせようとしてるんだよ。こういう時こそ、ちゃちゃっと頭の中読んで葛藤していることを先回りして言ってくれればいいのに。
恨みがましい目で見ても、グレン様はどこ吹く風。僕の睨みに、そよ風ほどの影響も受けないらしい。
「後でご主人様に伺いたいことがあります」
常日頃小さいスプーン一杯分と詰られ続けている僕の脳みそで必死に現状打開策を考えた結果、僕は素直に尋ねることにした。
大体、気になるのは事実だし、小姓としては訊くべきだ。訊いてみなきゃ言ってくれるかも分からない。為せば成る。
「お坊ちゃま。出産なんてね、考えるより先に産むもんなんですよ。ぽんっとね。あとからそんな苦労なんて忘れてまーた後悔するもんなんです」と領地の平民のおばちゃんだって言ってた。僕の頭の中から打開策を生み出す場面だから、きっと同じはずだ。
だから、この結論になったのは、僕の脳みその容量が小さいからでも、考えるのが面倒になったからでもない。断じて、ない。
「そうなんだ」
「これは、一般的には教えてくださいという意味です」
「あえて宣言するってことは、答える確約が欲しいってこと?」
「はい」
僕が頷くと、グレン様は座席で優雅に足を組み直した。
「内容と対価によるね」
内容……はともかく、対価だと?
「僕から情報を引き出すにはそれなりのものが必要だってことくらい、さすがにそろそろ分かってきたでしょ」
「で、でも、グレン様。この前は僕から搾り取れるものはもうないって仰ってたじゃないですか」
「僕の頭は優秀だからじっくり考えれば思いつくものなんだよ」
「こんなことにその人類の宝と自画自賛される頭を使われたなんて、恥ずかしくなりませんか?」
「いやいや有意義だよ?くだらない貴族連中から情報を絞り出すために頬の筋肉と時間を浪費するよりはよっぽど楽しい」
にた、と口角を上げるグレン様の顔は、地獄の底から這いあがってきた死神にしか見えない。
そんなことを仰っているようだからあなたには友達ができないんです!
「命と時間を奪われている僕にこれ以上何か提供できるものがあるとでもお思いですか?」
「例えば臓器とか?」
「却下します」
「取っても死なない臓器もあるし、お手軽じゃない?」
「お手軽どころかものすごく重いんですが、そういう大前提の問題から目を背けたとしても、本末転倒になってしまいます」
「本末転倒?」
表情から不真面目さを消したグレン様が尋ねてきた。こういう顔の時のグレン様は、僕の話すことを真剣に聞こうとしてくれていると経験上分かっている。今がチャンスだ。
「僕は、あなた様が苦しんでいらっしゃることを少しでも分かち合って、盾となる存在になりたいんです。大会での宣言は演技ではありません。グレン様に対して申し上げ、お誓いしたつもりの、本音です。そんな時に臓器に欠陥があったら満足にお役に立てないじゃないですか」
ここぞとばかりに力説したのに返ってきたのは沈黙だった。
黙って見つめられると非常に反応に困る。今もほとんど役になんか立ってないなんていう軽口でもいいから返してほしい。
沈黙で押しつぶされる前に急いで付け加えておく。
「僕は、さしあたってあなた様が直近に抱えていらっしゃるであろう、ご実家の問題についてお尋ねしたいと思っています。お答えいただけますか?」
真正面からその紅玉の瞳を見据え、しばし視線が交差する。しばらく、ごとごとと、馬車が舗装の不十分な道を通って揺れる音だけが馬車の中を支配した。
そんな沈黙を破ったのは、もちろんこの場の主人であり、僕のご主人様だった。
「……本番までには話してやるよ。聞かなきゃ、右往左往した挙句、あそこにうようよいる魑魅魍魎にあっさりとって食われそうだし」
「恐ろしいことを仰いますね……」
「お前以外に聞かせるつもりがないこともある」
「え?」
今聞き捨てならない言葉が聞こえた気がする。が、グレン様は、僕の訊き直しが聞こえなかったように華麗に聞き流し、代わりに馬車の客間の中から御者席を指し示した。
「僕が話すまでもないことは、あいつが話す。僕が許可したと言えば話すから、お前が聞きたい時に聞けばいい」
御者席にいる黒服のおじいさんは、グレン様の筆頭世話係の方だ。僕がグレン様のお世話ができないときや、僕が管轄していないこと――例えばお部屋のお掃除や、洗濯、軽食の準備など――を受け持ってくださっている。長くグレン様にお仕えしていて、執事の仕事でいうなら僕なんて足元にも及ばない方だ。
けれど基本的にご本人が無口な方で、グレン様も、使用人が長く部屋にいるのを嫌がるから(ただし僕を除く)、これまで、顔を合わせたことはあっても直接お話したことはなかった。
おそらくグレン様が訓練で部屋を留守にするときに部屋にいるだろうから、その時に聞いてみよう。
「それでお前からの対価だけど」
「え、それ、いるんですか?あんなにいい雰囲気で覚悟を見せたのに!?」
「当たり前でしょ。それで誤魔化せるとでも思ったの?」
一体何を要求するつもりなんだ。
「えぇー……。受け入れられるかは内容によります」
「お前に選択権はないよ」
「なんという横暴!」
「名前」
「へ?」
「お前の本名を教えろ。正式名でなくていい」
ぽつりと聞こえた五文字に耳を疑った。
「臓器」、「命」、うん、どっちも三文字だ。五文字じゃない。聞き間違えたいと思う僕が起こした幻聴じゃないはず。
「と仰いますと……第一本名だけでいいということですか?」
「もったいぶるようなもの?そんなに御大層なものなの?」
「あ、いえ。最初の覗き見事件で調査されたときにとっくにご存知なのかと思っておりました」
「……それだけは分からなかった。お前の父親は変なところで手堅い」
そっぽを向き、頬をむくれさせるご主人様は、なんだか喧嘩に負けた子供のようだ。
いつもの凶悪さとその愛らしさの落差に、僕は忍び笑いが漏れるのを抑えられなかった。
「ふぅん?僕を笑うんだ」
いつも通りの愛らしい顔から地を這う様な恐ろしい低音が聞こえたとき、瞬時に笑いを引っ込めた。
「あ、馬鹿にするつもりはなかったんです。可愛いなって思ったんです」
「やっぱり臓器も要求しようかな」
「エレインです!僕の本名は、エレイン・アッシュリートンです!」
せっかく犠牲がほぼないもので終わりそうなのに、藪蛇をつついて出すところだった!危ない、危ない。
いや待て、僕。グレン様は油断ならない。約束を守っても、しつこく粘っこくお怒り継続中かもしれないぞ。いつ臓器を抜かれるか分からないぞ。
視線を上げ、グレン様を上目づかいで見やる。
「あのーご満足いただけましたでしょうか?」
「エレイン」
「はいっ!」
条件反射でピン!と背を伸ばして硬く目を瞑る。
僕の本名を知っているのは家族だけで、その家族だって大抵僕を「エル」と呼ぶ。本名を呼ばれるのは、父様が真面目に叱るときだけだ。そして、父様は真面目に怒るとすんごく怖い。うちでは姉様と父様は怒らせちゃいけない存在だ。
目を固く瞑ってじっとこらえる僕の頬に、少しひんやりとしていて硬い、人の手の感触が当たった。
「エレイン……そっか。お前、エレインっていうのか」
ん?怒ってない?――そりゃ、ちゃんと答えたんだから本来僕が怒られる理由なんかないんだけども。
声音で怒られていないと判断し、恐る恐る目を開け、その瞬間、僕の心拍数が上がった。
なんで目を細めているんだ。
なんでそんなに穏やかな声音なんだ。
なんでそんなに包み込むような優しい動作で僕の頬を撫でるんだ。
なんでそんなに、幸せそうなんだ。
至近距離でルビー色の瞳が細め、口元に柔和な笑みを浮かべるグレン様には、いつもの意地悪で思惑に満ちた影が微塵もない。
それは、まるで、ずっと見つけたかった無くしものを見つけたかのような、安堵と幸せに満ちた、穏やかな笑顔だった。
なんでグレン様はそんなに僕の名前を知りたかったの?
そんなもの、いつだって教えたのに。そんなもので喜んでくれるなら、僕、いつでも教えたのに。
グレン様のこんな表情が生まれた理由が、僕の名前を知ったからだと思ったら、どうしてだか心拍数が上がっていく。
嬉しくて興奮したときの止められない高揚感が湧き上がる。
なんで?なんで僕、こんなにドキドキしてるの?
きっと、僕が、グレン様に幸せでいてほしいと思っているからだ。今グレン様が幸せそうだって分かるからだ。
違うよ。それならこんなにドキドキしないよ。もっとほんわりした、甘い物を口の中に入れてじわーっとそれが溶けていく時の気持ちになるはず。でも今はもっと激しい。強い幸福感だ。わくわくして、心臓がばくばくしてる。
これは、僕のことでグレン様が幸せそうだから?
僕が、自分の力でこの方を、幸せにできたから?
なんで、僕は、「僕自身が」グレン様を幸せにすることを特別だと感じているんだろう?
分からない。分からないけど、止まらない。
動揺した僕の中で疑問と解答が吹きあがっては消えていく。まとまらなくて混乱すればするほど、グレン様の手が当てられている頬が熱くなっていく気がする。
あぁ、どうか。どうかお屋敷に着くまで、隣で細目を開けて様子を窺おうとしているヨシュア君にも、背中を向けて真面目にお仕事に励む御者のおじいさんにも、そして、目の前のご本人にも。
この頬の熱さも、ばくばくと暴れる心臓の鼓動も、伝わりませんように。




