3 小姓は出し抜かれました
グレン様は、僕がさっきまでいた厩舎からご自分の馬を連れてそのまま学園を出ると、学生街の方向とは逆に馬を走らせる。迷いなく進んでいる様子だから目的地は分かっているようだ。僕はご主人様の横に馬を併走させて、今日のお仕事の予定を尋ねることにした。
「今日のお仕事って学生街じゃないんですか?」
「うん。森」
「そうなんですか……えっ」
思わずその横顔を凝視すると、純度の高いルビーのような瞳が不思議そうに僕に向けられた。
「何?」
「い、いえ……」
「そう」
ありえない。いつもだったら「学生街と逆に進んでいるこの時点でそんなことも分からないの?お粗末な脳みそだね」くらいは言われるはずなのに!
もしかしてグレン様、本当に体調が悪い、とか?さっきもお仕置きなかったし、今も驚くくらい素直なんて……気持ち悪い。
素直に答えられたきり、グレン様が一切口を閉ざしてしまったので、結局一刻分ほど黙って街道を走り続けた。他の領地や街と通じる街道とは言っても、森に続いているので、放っておけば草に覆い尽くされてしまうのだが、そこは国がきちんと管理している。定期的に育成補助師や学園の植物育成師志望者、それから宮廷薬剤師志望者に仕事として委託され、植物が生えにくくなる特殊な対処がとられているおかげで、土が露出する程度には整備はされているおり、馬で走ることは苦にならないのだ。
そうして駆け続けたグレン様は、あるところで馬を降りると、僕の馬と合わせて手ごろな木に手綱を結んでから獣避けと防御の魔法をかけた。
あれ?グレン様の、そして僕の乗っていた馬の様子がおかしい。
息が荒く、ぶるぶると首を振り、足で無駄に土を掻いている。視線もうろうろとさまよっている。
「グレン様、どうも馬の様子がおかしいです。なにか落ち着かない……いや、なにかに怯えているようなんですが」
「分かってる。それが今日の仕事だから」
いつも無駄な饒舌で僕をからかって遊ぶグレン様がこれほど言葉少なだということは、この仕事はグレン様にとって「遊びで済ませられないもの」だということだ。
街道をそれた森の奥に進んでいく背を追い、草をかき分け暫く進む。そうして鬱蒼と中腰ほどまで茂って歩みを邪魔していたあたりの草が根こそぎ倒れている空間に出たところで、肩に乗ってきたチコが全身の毛を逆立たせて「きゅい!」と高い声で鳴いて僕のポケットに逃げ隠れた。
「着いた。全く、近くても困るけどここまで遠いのも骨が折れる」
そう言って、グレン様が中を覗いているのは、大きな洞穴だ。
奥から流れてくる温度と湿度、そしてわずかに体臭を乗せた生暖かい空気が僕の前髪を軽く払う。風が通る音ではない、微かな生き物が発する音からも、暗く見通せなくなっていてもそこに「何かがいる」ことは分かる。
しゅーしゅーという、哺乳類の出さない独特の鳴き声、ただの動物の体格からは考えられないほど広い範囲にわたってなぎ倒された草や低木。そして獣を恐れないはずの魔獣のチコの怯え。これらから導き出される答えは一つ。
「……グレン様。もしかして、もしかしなくても。あの。ここにいるのって……?」
予感よ外れろ!と念じつつ、僕が恐る恐る尋ねたところ、グレン様はさっきまでとは打って変わってうきうきとした調子で答えてくれた。
「あぁ、ここにいるのは大蛇の上位魔獣らしいよ」
上位魔獣。
それはそれなりの実力の魔術師が十人以上で挑んで互角になる規模のランクの魔獣を言う。
上位魔獣の中でもランク付けはいろいろあるが、総じて蛇類は厄介なことで有名だ。
なぜなら体躯が大きいわりに素早いのに加え、その太い胴は囚われれば人間など簡単に絞め殺されるほど力が強いからだ。加えて大抵は強い毒を持っているので注入されたら即死、または麻痺するから、噛まれたらまず生きては戻れない。そして攻撃しようにもその外表を覆う鱗は総じて対魔性が高い。直接的な物理攻撃だって、生半可なものは通用すらしない。
「認可外魔獣がいるって最近連絡が入ったんだよ。街の警備団の兵士じゃあ手に負えないから助けてくれってさ」
「……まさかとは思うんですが、それをグレン様と僕で退治する、とか…?」
「まさかぁ。やるのはお前だけ」
死にます。生きる可能性が見出せません。
「溜めてきた喜びを放出するかのような邪悪な笑顔を手向けにするのはおやめください。できるわけありません」
「あっれー?前科もちのお前に任せてやろうって言ってるのに、なにか文句でも?」
「確かに僕は既に禁忌を犯していますけど、それは恩赦されたはずです。小姓の命を慮る程度の思いやりは最低限持ってくださいませ。僕がしばらく顔を出せないだけでいじけてしまうくらい可愛がってくださっているというイアン様の言は嘘ですか!?」
「可愛い可愛い、可愛くてたまらない。だからこそだよ。ほら、よく言うでしょ?可愛い子には旅をさせよって」
「死地への旅になりますからこれ!!永久に帰って来られない片道の旅ですから!!こ、ここに上位魔獣がいるのは本当だとしても、僕に一人でやらせるっていうのはさすがに冗談ですよね?グレン様、冗談お好きですもんね?!」
「冗談を言うべき時か否かは見極めてるけどね」
日頃悪質な冗談しか言わない人が何を言っているんだよ!
しかし、掴みかかる僕を片手で押さえ、もう一方の手でなぜか木の板で作られた紙留め具と羽ペンを器用に取り出しているグレン様は本気以外の何物でもないらしい。
何を言っても聞く耳をもたない様子のご主人様に、僕の焦燥も募る。
「いやいやいやいや、お待ちください。そりゃあ僕は動物たちみんな友達だと思っていますが、向こうで僕を友達だと思ってくれているのは見知った子だけで、初対面の子につれなくされることはいっぱいありますよ!僕は動物たちと話せるわけではありませんし!無理ですって!」
「無理無茶無謀の三拍子揃ったことばかりやらされて慣れたって言ってたのはどこの誰?」
「僕ですけど……!」
「そうだよね、言ったことには責任持とうね」
「ぐ、グレン様だって――」
「僕はこれまで言ったことは必ず守ってきたはずだよ?破ったことがあるなら言ってみなよ」
「くっ……」
そうですね!言質取られないように、周到に計算して抜け穴のある言葉ばかり使っていますもんね!
「大体、僕はにょろにょろしたやつって嫌いなんだ。近づきたくもない」
「な、仲が良くない相手ほど、一度殴り合って喧嘩したら熱い友情が芽生えるって聞きますよ?」
「わーすごーい。手足がない相手と殴り合うのかー僕に手本を見せてほしいなー」
「棒読みで馬鹿にしないでいただけますか。雨降って地固まる、の精神です。苦手意識克服のチャンスですって!」
「ばっかだなぁ。僕が、気に食わないやつとわざわざ交流すると本気で思ってるの?」
「しませんね!きっと初撃から確実に息の根を止めに行くんでしょうね!」
嫌いな相手は目の前から消すとはっきり仰った異常者だったわ、この方!
初対面でグレン様とそれほど仲が良くなかったと聞くイアン様がそこをかいくぐれたのは、殿下の部下であることと、グレン様に対抗できるぐらいイアン様が高い戦闘能力を持つ特殊例だっただけだ。
「分かってるじゃないか。そんな僕がお前に任せようと思っているだけで温情だと思いなよ。うっかりにょろにょろを殺さないで済むように僕には僕のやることを用意したし」
「それは一体?」
「ん?生体観察」
僕が思いがけない言葉につい糾弾を途切れさせる間にも、グレン様の手はちゃくちゃくとそこに長時間座る準備を進めていた。
今、椅子の上にさりげなくふかふかのクッションを敷いた!本気で僕一人に上位魔獣の相手をやらせるつもりだなこの鬼畜は!
「上位魔獣は分かっていないことが多いから資料になるでしょ?あとお前のその体質の見極めも兼ねてる」
「僕の体質……ですか?何の変哲もない普通の人間である僕よりもよっぽど異常なご自身の観察日記をつけた方が有意義だと思います」
「その憎まれ口をたたく余裕はどこから生まれるのか、どこまでそれが持つのか、客観的に知りたくない?」
「知るまで生きていない確率が高すぎます。まさか本気でそんなもののために――」
「まぁ一番見たいのはそこじゃないけど」
「……と、おっしゃいますと?」
「動物や魔獣に対してどこまで適応力があるのか、好かれるのか、どのタイミングで『友人』として認められ、敵意を消されるのか、それがどのくらい国にとって有益なのか、……またはその逆なのか、とか、まぁ色々。僕の研究とフレディへの報告もこれ以上延ばせないところまで来てるしね」
その瞬間、上腕の鳥肌を擦る僕に向けられていたグレン様の声音が少しだけ真剣味を帯びたような気がした。が、すぐにその様子を消して、「だから僕は観察に集中しないといけないんだ。スカスカの脳みそでも分かった?」と、天使の愛らしさ全開で僕に小首を傾げてきたから、きっと気のせいだと思う。
「分かった?じゃ、ないです。誤魔化されません。さっき申し上げたじゃないですか。初対面じゃあできることも限られてます」
「慎重派の僕は僕自身の目で確かめたものしか信じないんだ」
「それぐらい信じてください!このままだと僕に対するものは生態観察じゃなくて死体検案になります!」
勝手に準備を終えたグレン様は、これまで見てきた何より黒い笑顔を浮かべて、訴える僕の肩をぽん、と叩いた。
「獣が大好きで大好きで、ご主人様のご機嫌伺いも忘れるほど魔獣とも仲がいいお前ならこんなこと、楽勝でしょ?」
甘かった。このお方は、根に持つどころか、全身に怨みを沁み込ませて何百倍にもして返す方でした。