37 小姓は結局捕まったのでした(3章最終話)
ざぁっと風が木々の間を吹き抜け、擦れた葉っぱがざわめく。学園の森ではない。アッシュリートンの領地でもない。なのに、どうしてだか見覚えがある。
そんな森の中の木立に隠れるところで、僕は一人で立っていた。
ここは一体どこだろう?みんなは一体どこにいるの?
いつもなら聞こえる動物たちの声が聞こえず、不安になり、視線を向けた先は、木々の隙間から光が漏れ出るところだ。そこに開けた空間があることをなぜか僕は知っている。
そこには、痛くて、怖くて、観たくない光景が広がっている気がする。
行きたくないはずなのに、勝手に足がそちらへと向かってしまう。
嫌だ。そっちに行きたくない。なぜかとてもそちらに行きたくないんだ。
まだ足を踏み入れる前からどうしてだか分かってしまうんだ。
そこに広がる――複数の罵声、動物の啼き叫ぶ声、兄様が僕の名を狂ったように呼ぶ声、千切れた葉の香り、鉄さびの匂い、肉が焼ける臭い、頭をじわじわと溶かされるかのような怖気の走る感触、鈍色に輝く鋭利な光、真っ赤に染まる草、薄れゆく視界、踏まれた腕、動かない体――
何もできない自分に憤り、動けないことにもどかしくなり、取り返しのつかない過去を後悔する。
やめて、やめて、やめて。お願い。もうやめて。
だから僕は獣医師になろうと思ったんだ。どの子も助けられるようになるために、宮廷獣医師になると、男として生きると決めたんだ。もう誰も傷つけさせない、傷つけない。僕がみんな助けてあげられるくらい強くなるって生きてきたんだ。
だけど今の僕じゃまだそこまでできない。もう少し時間が欲しい。だから止まって。
僕の意思に反して動く足に抵抗して木を掴もうと何度も伸ばした手が滑る。倒れ込んでもなお足元の草を掴んで体を止めようとするのに、何かに引きずられるようにその場所まで引き寄せられる。
だめだ、止まれない。結局僕なんかの力ではどうにもできないのかな。
そうだよ、どうせ僕は貧弱で、平凡以下で、お荷物さ。
叫ぶための力も全部使って必死で抵抗しても全然敵わなくて、もう諦めようかと抵抗の力を弱めたその時、僕の手を、誰かが反対側に引っ張ってくれた。
だが、これが痛い。ギリギリと締めあげられている。配慮も遠慮も微塵も感じない。力強くて、僕の弱い体が向かおうとする力なんて全部無視して、無理矢理連れ去ろうとする。ありがたいはずなのにこれはこれで辛い。
痛いよ!文句を言ってやらなきゃ。誰だっけ、この、とっても思いやりに欠けた腕の持ち主は。
――どこに行く気なの。僕のペットは僕の傍にいるはずでしょ。
あぁ、腹が立つ。そうだよ、なんで忘れてたんだろう。この方は、僕がなに言ったって聞きやしない、傍若無人でドSで鬼畜な最低野郎だった。
でもこれだけは承服しかねる!
だから、何度も申し上げているじゃないですか。
「僕はペットじゃありません!」
叫びながら上体を起こして、荒い息をついてから我に返る。
「……あれ。なんで僕、叫んだんだっけ」
つい今さっきまで何かとても嫌な気持ちだった気がするのに、何が嫌だったのか思い出せない。
森の中で親蛇さんに助けられた後、魔力枯渇になったことは覚えているんだけど、その後何があったんだっけ?
うーん、としばらく悩んでから、悩むのを諦めた。
だって思い出せないことって結局大したことがないことだってよく言うもん。多分大したことないはずさ、うん。
早々にすっぱり諦めたところで改めて辺りに目を配る。
白い寝台に、通気性抜群の赤い毛布。頭の上には、凝った刺繍がされた、分厚い生地の赤い布地の天蓋。見渡すという表現が正しいほど広い部屋は底辺貧乏貴族の僕には全く似つかわしくないけれど、僕は毎日ここに立ち入っている。
ここはグレン様の寝室だ。
目を落とすと、僕にかけられた毛布の上に見慣れた上着が無造作に置かれていた。前開きのボタンと襟部分に金色の縁取りがされただけのシンプルなデザインの黒い上着は、宮廷魔術師がローブとともによく着る普段着だ。
あの方はまたこんな放置の仕方をして。こういうのはきちんと吊るしておかないと皺になるのに。
その上着の真ん中あたりに丸っこい白い塊があった。温かくてもこもこの真っ白な長毛種のその子は、体を丸めてふさふさの尻尾で黒い鼻を隠しながら、呼吸とともに小さな背中を上下させている。
あの、動物が一歩でも部屋に入ったら即叩き出すはずのグレン様の部屋にこうしてチコがいて、上着の上に毛がくっつくのも構わず放置されているってことは、グレン様がチコの入室を許可したってことだ。
ということは、遭難していた僕をチコが自慢の鼻で見つけてくれて、グレン様に連れ帰ってもらったってとこかな?
いつもはまん丸の目が横棒一本に見えるほどぐっすり眠っているチコの鼻先には、血止めと痛み止めの効用があるサモネットの葉が数枚と、僕がよく火傷の時に採ってくるよう頼んでいる貴重な赤紫色の木の実が数個転がっていた。
チコが僕のために採ってきてくれたんだろうそれらを手に取りながら、起こさないようにもう片方の手でそうっとその温かい背中を撫でる。
「チコにも心配かけちゃったね」
チコを思う存分撫でた後、グレン様の部屋の時計を見ると、ちょうど夜の11刻を指していた。グレン様ならきっとお仕事時間だ。隣の執務室にいるのかもしれない。
グレン様に気付かれないうちにお礼を言えるように身支度を整えておかないといけないな。
寝ているチコを起こさないように上着ごと毛布をずらし、寝台から足を下ろして、まだふらつく体を支えるために手をついた先で、妙に温かくて少し硬くて弾力のあるものに体重をかけてしまった。
まるで毛のない生き物を踏んだような感触だなー。あ。毛がないっていうか、怪我で手当てされた馬の足とかそんな感じ。……布に包まれた、生物?グレン様のお部屋で?
脳が結論をはじき出した瞬間にぱっと自分の口を覆った僕の経験値はなかなかのものだと思う。
この「感触の持ち主」の耳元で大声を出せば、僕は目覚めて早々眠りにつかされる。暴走馬車に半分轢かれかけている状態で更に下に潜り込むほど僕は愚かでもなければ、自殺願望もないのだ。
恐る恐る視線を上げると、僕の、よくあたる、とてつもない嫌な予感を裏切ることなく、僕の手の下に細身の黒い布地が確認でき、更に絶望的な思いでその大腿部の先を目でたどると、案の定、椅子に座って腕を組んで目を瞑るご主人がいらっしゃった。
なんでこんなにお近くにいるんだよ!いつもならいくら寝ろと言っても寝ないのに、どうしてこんな時に限って僕の傍で番をするように寝ているんだ!ソファで寝てくださればよかったのに!
しかし幸いなことに、グレン様は相変わらず天使の寝顔 (鑑賞用)を晒してくださっていた。相変わらず憎たらしいほど整った可愛らしいお顔だ。
ありがたい、そのまま見る者の心を癒す寝顔のままでいてほしい。目覚めた瞬間にたくさんの人の心を踏みにじる破壊神になるんだから。
そういえば今、瞬間的に体を捻ったけど痛みがなかったな。脇腹の骨折が治っているみたいだ。
もしかして、グレン様が治してくださった、のかな?
僕を連れ帰ってくれて怪我を治してくださるのは親蛇さん事件の時以来だ。ほんの半月ほど前のことなのに大分昔な気がする。
「きゅうっ!」
「わぁ、ごめん、チコの方を起こしちゃった!?」
目が覚めたチコが、しみじみと思い起こす僕の肩に這い上がって乗ると、僕の頬に濡れた黒い鼻を押し付け、すんすんと鼻を鳴らす。なんともくすぐったい。
「ごめんごめん。心配かけたね。あ、チコにはお礼も言わなきゃ。お前が僕を助けてくれたんでしょ?」
そうだ!と言わんばかりに胸を張って、完璧なお座り姿勢を見せるチコにお礼を言って頭を撫でてやると、チコはころりんと転がってお腹を見せ、「もっと撫でて」と要求してくる。
なんて愛らしいんだろう……グレン様にこの欠片ほどでも可愛げがあれば……!
チコの要求に120%答えていると、どこかからみしみしと不吉な音が聞こえてきた。
頑丈なはずの石造りの建物のはずなのに。と何気なく窓に視線を向けると、ピギーがどうにか僕の傍に来ようと、グレン様の部屋の窓に無理矢理身をねじ込ませようとしているのが見えた。
僕に甘えているチコにヤキモチを妬いているらしく、顔だけを窓の中に入れたところで、ぴぃぴぃと甲高い声で啼き始める。
啼き声こそ変わらないが、生後1年ほど経ったピギーの体はもうすっかり大きく成長しており、被膜で覆われた羽を広げると体長2メートルほどもある。
そのピギーが明らかに容量の足りない隙間に入ろうとしたらどうなるか。
それよりなにより、このまま啼かせ続けたら何が起こるか――きっとでかい焼き鳥ができる。
「うわわわわわ、ぴ、ピギー!待って待って!気持ちは嬉しいんだけど、桟が壊れちゃう!!僕がそっちに行くから!あと、もっと静かにしないと、寝た子を起こすよりも面倒くさいグレン様の目覚めを招く――」
「分かっててやるとは恐れ入るね。その勇気に免じて、飼い主ごと永久に静かにしてやるか、獣たちが自ら出ていくか、さんを数えるまでに選択肢をあげるよ」
「ひっ、グ、グレン様、お待ちを!」
「さん」
「いやそれ数えるって言いませんから!チコ、ピギー、逃げて!」
「いち」と「に」をすっ飛ばしたグレン様のカウントと同時に浮かんだ火球がチコとピギーをめがけて飛んでいく。
すかさず僕が編んだ防御魔法が消し飛ばされるまでの間に、グレン様の横暴に慣れた2匹が猛スピードで部屋から飛び出していった。
2匹がいなくなってから手の中の火を消したグレン様に立ちあがって抗議する。
「動物虐待反対!」
「お前ならいいの?」
「小姓虐待反対!僕、さっき大火傷を負ったところなんです、背中ひりひりですよ、悶絶ですよ。もう火傷はこりごりで――……あれ?痛くないな。治ってる。治してくださったんですか?」
「……まぁね」
「火傷の治療って難しいのに、ありがとうございます。ご自分が他人に (主に僕に)火傷を負わせることが多い分、治療もお得意になってたんですね。感慨深いと申しますか、反省していただきたいと申し上げるか悩ましいところです」
そこまで嫌味を言ってもグレン様がお仕置き直前に見せる愉悦に歪んだ顔を見せなかったので、防御姿勢を解除する。
おや。いつもと調子が違うな。どうしたんだろ。
僕が首を傾げると、僕を苛められる口実を得たというのに浮かない顔のままのグレン様が僕に尋ねた。
「……お前さ、僕に怒らないの?」
「え?なににです?」
「僕のせいで大会に出て火傷を負って、それで死にかけたこと」
何を今更なことを仰っているんだろう。グレン様のせいで死にかけたなんていつものことなのに。こんなに神妙な顔つきで続けられると気味が悪い。
「今回の怪我は僕が獣医師の卵として未熟だったためと、小姓のお仕事を満足にできなかったために起こったものですから、グレン様のせいではないです」
「僕が行くのが遅れた。お前の技量じゃどうにもできない相手に丸腰で立ち向かわせることになったのは、主人である僕の危機管理不足だ」
グレン様が悔し気に舌打ちしている。
なんということだろう。僕の考えが外れていなければ、グレン様が「反省」という二文字を覚えようとしてくださっているようだ。人を人とも思わない鬼畜ドSが人を思いやって反省するその姿は、例えるならば、生まれたばかりの雛が飛ぶことを覚えるようなもの。
これは大変貴重な機会だ。是非とも大事にすべきだ。――すべき、なんだけどなぁ。
「この怪我は僕自身の不徳の致すところです。だって、小姓は本来もっと優秀で、ご主人様の手助けこそすれ、足手まといにはならないはずですから」
悲しいことに、今回の件について、グレン様が反省してくださる必要はない。先ほどの例えで言うなら、雛が飛び立とうと努力する場所が崖だったようなものだ。やることは正しいのに、場面が間違っている。
卑怯になれない僕の人の好さが残念だ。
「うーん。これだけ育ち方を間違ってるんだもん。やっぱりここは多少危険でも崖から飛び降りさせる方がいいのか――いひゃひゃひゃ!」
「考えていることを見透かされているのを忘れる鳥頭のお前には言われたくないね」
「申しひあへてないひゃないへふは~はなひてくだはい~」
ほっぺたを力いっぱい引っ張られた。痛い。心の中ですら毒づけない僕、可哀想。とは思ったが、とりあえず真面目な顔を作って続ける。
今回、謝らなきゃいけないのは僕だから。
「小姓の立場にあることを望んだのは僕です。最初のきっかけはどうあれ、今は僕自身の意思でここにいます。キール様や他のたくさんの方が望む立場に立たなければ、――やりたくないこともやる必要がないと思われることも多々ありますが――本来ならできないことをさせてもらえているわけで、その分、そこで負傷することだって当然あると思っています。今回のことも、きっと普通の『小姓』なら、こうまでならなかったと思いますから、僕の実力不足に問題があると思っています。十分にお仕事できなくて、申し訳ございませんでした」
「……今回、お前は十分よくやった」
「え?」
今、グレン様が僕を褒める言葉が聞こえたんだけど、空耳だよね?
「お前が確保した液体も、お前の特殊能力も、役に立った。お前がいたおかげで手がかりを手に入れられた」
勘違いじゃない。僕、労われてる……!
グレン様が、僕を労う!?ま、まさかぁ。また何か仕掛けようとなさってるんじゃないか?
「ほ、本気で褒めてくださってます?」
「僕は嘘はつかない」
「も、もし本気で労ってくださるおつもりなら」
「厚かましくも何か要求するつもり?」
「そうですねー……あ、じゃあ、労りの気持ちを籠めて頭を撫でてください!」
僕の提案に、珍しく、グレン様がたじろぐ気配がした。
辛いときに頭撫でてもらった記憶があるせいか、なでなでしてもらえると僕は安心するのだ。
それに、よく分からないけど、さっきから無性に頭を撫でてもらいたい。姉様の優しい手じゃなくてもこの際仕方がない。
「あ、撫でるって頭を押し潰すことでも、髪の毛を抜いたり、滅茶苦茶に刈りあげることでもないですからね?」
「……なんで僕がそんなことをしなきゃならないの?痒いんだったら板にでも壁にでも擦りつけてなよ」
「僕は猫ですか。大体、そんなことしたら摩擦熱でハゲます。誰かに撫でてもらいたくなったんです。なんか、無性に撫でていただきたいなーって。いいじゃないですか、タダですし!」
妙案だと思ったのにな。どうやら体を洗ってもらえたみたいだから今なら汚くないし、グレン様の手なら男の人特有で骨ばってるとはいえ、姉様の美しい手に似た雰囲気があるし、タダだし(ここ大事)。
……あと、鬼畜が撫でてくれたら希少価値高いじゃないですかとは言えない。
暫くしても黙っているから、そろそろ「冗談ですよー」と言おうとしたときに、ぽふ、と頭に軽く何かが乗った。
触れるか触れないかの重さで、髪に沿って動く感触がある。何度も何度も上下に動く。
柔らかくて、気持ちがよくて、安心できる。
「……え!?」
「今顔を上げるな馬鹿。こっちを見たらそのまま爪で頭の肉を抉ってやる」
「仕草と言葉が恐ろしく不似合いです。こんなにソフトタッチでお優しい手つきなのに」
「……うるさい。黙って撫でられてなよ」
「はぁい」
見るなと言われると見たくなるものだが、真剣に命を代価にすることになるのでそれには挑戦しない。 無言の部屋でただひたすら、細い指が髪を通っていく地肌を優しく撫でてくれる感触を楽しむ。
ほんとにやってくださるなんて思いもしなかったなぁ。グレン様が母性本能らしきものに目覚めている今ならちょっとしたおねだりも聞いてもらえる、かも?
よし、ここは可愛くねだってみよう。
「あとちょっぴりでいいんでお手当てもくださると、僕、とっても嬉しいです」
「いいよ、あげる」
「え、あっさり!いいんですか!?」
「うん」
わぁい、これで借金生活ともおさらばだ!なんてついているんだろう!
舞い上がってるんるんと鼻歌を歌っている僕に、不吉な一言が付け加えられた。
「調子に乗っていられるのも今のうちだから」
「……どういう意味です?」
「お前、これから一月ほど、毎日の特訓と仕事に追加で行儀見習いがあるからね。今くらい図に乗せといてやるかと思ったんだ」
「こんなにお育ちのいい模範本のような姿をご覧になってなにをおっしゃいます?」
「それも容易に否定できるけど、今言ったのは、『淑女』行儀見習いのこと」
「……そんなもの僕には必要ありませんが?」
「あれぇ?僕との賭け、忘れたのかな?」
頭に置かれた手の影から、よくよく見慣れたご機嫌なにやにや笑いが見え、せっかく血行がよくなった頭から急激に血が落ちていく。
「……賭け、ってまさか」
「僕とお前の賭けは一つしかないんだな、これが」
「ででででも、僕、負けてませんし!」
「負けてるよ。お前、蹴り飛ばされて場外に出たんでしょ?大会で区域外に飛び出したら失格負け。その時点でキールの不戦勝になる」
「キ、キール様だって区域外に……!」
「お前が失格になった時点で試合終了だからキールが飛び出したことは関係なくなる。例えほとんど時間差がなくてもね」
「……そうだ!ぼ、僕、この後一月ほどみっちり自領で用事がありました!残念ですが――」
「用事の方、いくらでも潰してあげるよ」
優しく撫でてもらっていたはずの髪がぐしゃりとと掴まれ、固定される。
顔面蒼白の僕の眼前で、整い過ぎた美貌の青年のルビー色の瞳がにこりと優しく美しく細められた。
「というわけで、当日までよろしく。偽婚約者さん?」
「そんなぁ!」
小姓は見事に捕まってしまいました。誰か、僕に救いの手をください!
これにて3章完結です!これで、連載版完結お礼小話の「ドレス姿エル」に繋がります笑
ここまで小姓の世界にお付き合いいただき、ありがとうございました。
今後(4章)の予定は活動報告の方に載せておきます。




