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小姓で勘弁してください連載版・続編  作者: わんわんこ
第三章 学園大会編(16歳末)
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35 好敵手の課題

 ひきずるように一歩前へと足を踏み出すと、蓄積された疲労に筋肉が悲鳴を上げる。

 戦闘を終えて歩き初めて、まだ幾分も経っていない。

 それなのに、自分の体が鉛のように重く、視界が陰る。髪から落ちてきた汗が目に入って沁みる。足が柔らかく湿った土にめり込み、前へと進む俺を阻む。

 もうこれ以上一歩も進みたくないと数え切れないほど思った。


 それでも前へと足を進める。


「お前の、せいだ、アッシュリートン。地面に跪いて、詫びろ。丁寧に本心からだぞ、あのいつもの慇懃無礼は、絶対に、許さないからな」


 俺の呼びかけに答える声はない。

 俺の肩からだらりと垂れ下がった腕には相変わらず力がなく、首から肩に乗りかかった灰色の頭はピクリともしない。他人に重さを軽減する魔法をかけることはできないからその体重のままに乗りかかっているはずなのに、背中に乗せた体自体は驚くほど軽い。

 細い腕に、小さな骨格、軽い体重、そして魔術師課である俺とも比べ物にならないほど柔い体。

 脱力しきってこの重さとは、驚くほどの発達不良だ。こんな体で俺と武術も用いた真剣勝負をやっていたなど、つい先ほどまでの戦いを疑いたくなる。



 ほとんど存在も知らなかったこいつがグレン様の小姓になったと聞いた時は、悔しさと憤りで頭がおかしくなりそうだった。

 努力で補うことが容易な苦手科目を苦手のままに放置して、ちょっとばかり得意な分野だけに逃げている、地味で、不真面目で、低能なやつだと思ったから。


 しかし、実際にここ一月ほど間近で見て、大会という真剣勝負の場でぶつかって、少しだけその評価は変わった。


 こいつは、確かに発育不良で、背丈も能力も知能も足りないし、身分もない。


 だが、その生き方には一本筋を通している。

 そしてその筋は、樹齢何千年の木の如く、太い。

 やりたいこと、求めることに対しては異様に貪欲で、一生懸命の度を越えて向こう見ずですらあった。  

 

 あまりにも規格外なのだ、こいつは。

 枯渇するまで魔力を使い切る恐れ知らずの無鉄砲さも。どうあっても覆せない魔力不足を仕方がないと諦めなかったためなのだろう、それを何度も経験するという豪胆さも。貴族らしくない身分意識の低さも。魔獣に対する恐怖心のなさも。自分を嫌っている相手の前で仮死状態になるその神経の図太さも。憎んでいることを隠しもしない相手に大切なものと自分の命を託した無防備さも。想定外の事態を臨機応変に受け入れる柔軟性も。何もかもが『常人』では考えられない。



 見捨ててもいいはずの、俺が欲しいものを全て持っている、まるでぼろ布のような姿のこの少年のことは、今だって大嫌いだ。妬ましい。羨ましい。

 それだけ負の感情を抱いている相手にすら、変なところで潔く純粋であり続け、憎めないと思わせた。

張り合って、競り勝ちたいと思わせた。


 俺がここで歩みを止めてこいつを捨てたら、こいつはここで死ぬかもしれない。生殺与奪権は俺が握っていると言っていい。

 だがそんなことで勝つのはごめんだ。


「俺は、正々堂々、お前に勝つ。勝って、グレン様からの信頼を手に入れる。お前になど、負けない」


 勝負は終わっていない――だからこんなところで死んでもらっちゃ困る。



 返事がないのを分かっていながら、俺は好敵手(ライバル)に話しかける。


「生きろよ、アッシュリートン」

「きゅっ」


 思わぬ返事に歩みが止まってしまった。

 返事?――いやそんなバカな。魔力枯渇からこんな短時間で起きられるはずがない。大体、こいつがいかにふざけたやつだとしても、さすがにこの場面であのような人をおちょくった声は出さないはずだ。


 ハンカチの代わりに袖で乱雑に目元の汗を拭った俺の足に、何か柔らかい物体が勢いよくぶつかってきた。

 視界を確保して目を落とせば、白いふかふかとした毛玉から覗く二つの丸い黒い瞳がこちらを見上げている――と思ったら急速に俺の足を昇り、背中に回った。そして獣が仲間を呼ぶ時のような大きな声で啼き始める。

 甲高い声で耳元で騒がれると非常にうるさい。それに魔獣の中では雑魚とはいえ、仲間を呼ばれたら面倒だ。が、手が塞がっているせいで物理的には叩き落せない。わずかな魔力も惜しい今、一撃で仕留めなければならないが、背中のお荷物(アッシュリートン)に怪我をさせずにこの至近距離から魔法で動きを止めるのは少々厄介だ。


 どうするのが最善か、と悩んでいたその時、肩口に見える灰色の頭に乗ったその白い毛玉から、どこかでみたことのある赤いリボンが見えた。


「……もしかして――」

「よく見つけた、ネズミ。お前もたまには役に立つ」


 声とともに暴風が巻き上がり、目の前に広がる草木が刈り飛ばされた。


 草の汁が飛び、千切れた葉が舞う中、トパーズ色の髪に葉がつくのを構う様子もなく歩みを進めてきたその人は、俺の背を確認してから深紅の瞳で俺を見た。


「僕の小姓の世話をありがとう。ここからは僕が引き受ける」


 憧れの存在が目の前にいた。



####



 グレン様は、俺の背中の少年を抱きとると、わざわざお召しになっていた上着を脱いで地面に敷き、その上に少年を寝かせた。

 アッシュリートンの頭の上にいた白いネズミの魔獣は、主人を心配そうに眺め、何かを伝えるようにグレン様の袖に黒い鼻を二度ぶつけた後、森の奥へと走っていく。

 俺はといえば、近づくことすらなかなか叶わないその方に(ねぎら)われた――そのことに陶然となっていて一言も出せずにただその様子を見守る。


 俺に視線が向けられたのは最初の一瞬だけ。その後は地に片膝をつき、横たわらせた意識のない少年の背が地に着かないよう、肩を支えながらそいつだけを見つめている。

 傷ついた小さな体を負担がないように柔らかく支え、壊れものを扱うような慎重な仕草で呼吸を確認し、眉間に皺を寄せた。


「なにがあったか報告してくれる?」

「た、大会の途中で――」

「用水路に落ちて川に流されたことは知ってる。こいつがこうなった直接の原因だけでいい」

「アッシュリートンは、サーザントアリクイに襲われた私たちを庇ってくれたと思われるタレタレシャーレの成獣を助けたことで魔力枯渇になっております。サーザントアリクイは黒い巨大な球体と化していて、狂暴化しておりました。私はアッシュリートンに言われるまでそれが何か分からず、アッシュリートンも、最初は何か分からなかったようですが、途中いきなり分かったようでした。これがその一部です……アッシュリートンが気絶前、託してきました。貴方様にお渡ししてほしいと」

「ふぅん」


 グレン様は生返事をしながら俺から小瓶を受け取りポケットにしまった後、しきりにアッシュリートンの怪我に手を沿わせ、魔力を這わせている。

 治療を試みているようだから、邪魔をしてはいけないと少し距離を空け、それから思い出したもう一つの伝言を付け足す。


「あの……アッシュリートンが、その……グレン様に謝罪を申してあげておりました」

「謝罪?」

「はい。小姓の仕事を中途半端にしてすみません、と、あなた様に私の手からこれを渡させることになったことを謝っておりました」


 言伝てると、グレン様の動きが止まった。

 大きく息を吐き、背中側から手を放すと、ご自分の胸元にそいつのぼさぼさになった灰色の頭を引き寄せ、泥で汚れた頬を無言で撫でる。


 他の邪魔立てを許さない、たった二人で完成された世界が俺を拒絶している気がして、目を逸らそうとしたその時、グレン様の白い首元、髪の襟足あたりに飛び散った鮮紅が見えた。

 見間違いかと思ってもう一度目を向けたが、一度気づいてしまったせいか、肌の白さと色素の薄いトパーズ色の髪に、赤い染みが際立って見える。


 間違いない。あれは血だ。

 もしかして、グレン様はお怪我をされているのか!?


 怪我の有無を確認しようと歩みを進める直前、俺の足は止まった。


「遅れて悪かった……エル」


 まさにその時、木々のざわめきが止まり、蚊の鳴くような声が耳に入ってきたのだ。


 なんて哀愁に満ちた響きなんだ。

 なんて柔らかく名前を呼ぶんだ。


 ご令嬢方やらの社交用に作りきった声音とは全く違う温かさと切なさを帯びたその声を聞いたその瞬間、なんでこいつばかり、という嫉妬よりも、もっと冷静な確信が俺に生まれた。


 俺が違うんじゃない、こいつが特別なんだ。

 小姓だからじゃない、「エルドレッド・アッシュリートンだから」なんだ。


 確かに小姓は、歴史的にも重視されてきた、主人にとって最も信頼できる部下だ。だからそれが重い怪我を負って意識がないとなれば、胸は痛む。

 が、それはあくまで部下を思いやる程度の気持ちであって、それ以上にはなりえないはずだ。特に、数十年連れ添ったわけでもない、たった二年ほど仕えただけの関係の浅い部下に対してそれほど強い感情を持つなど、どれほど相性が良くても、普通はない。



 硬く目を瞑り、身じろぎ一つしない少年を胸に、背を丸め、後悔に耐え忍ぶ姿は、普通の小姓と主人の姿ではない。

 ただの小姓でないなら、グレン様にとってのあいつはなんなんだ?


 グレン様とアッシュリートンとの下賤な噂など、与太話に過ぎないだろうと思っていた。そもそも男同士でそんなこと(・・・・・)があるなど、気色が悪くて怖気が走る。グレン様がそんな外聞の悪いことを本気でなさるわけがない。

 アッシュリートンが俺に切った啖呵だって、聞いた時は驚いたが、その後は見栄くらいだろうと考えていた。


 ――けれどもしそれが本当なら?


 例え本来学園に潜り込むことができない人物であったとしても、それを可能にしてしまえるほどの能力と権力が、グレン様にはある。

 発達不良だと思っていたアッシュリートンの体格、体の柔らかさと丸み、容姿、声の高さ、魔力量の低さ、筋力のなさが頭をめぐる。


 ――もし、その関係が「気持ちの悪いもの」でなく、多くの人が無作為に落ちていく感情による、普通の人に違和感のない関係だとしたら?


 なにもかもが符合し、違和感が消える。


 目を瞑って横たわっているその姿は、男というよりもむしろ――



「――こいつのこの火傷、魔獣の体液によるものだよね?なんでこれを浴びることになったの?」


 そこで考察が止まった。


 結論がどうあれ、ただの部下という枠を超えた、信頼という言葉だけでは言い表せない違う感情がそこにあるのが、俺にすら透けて見えるのだ。


 それだけ大事にしているアッシュリートンの重傷が俺のせいだと知ったら、俺はこの方に見捨てられるんじゃないか?

 とはいえ、そいつが勝手に防御に失敗したという嘘をつくこともできず、言葉が出てこない。


 しかし、俺の作った一瞬の間だけで言葉にできなかったことを悟ったらしいグレン様が、アッシュリートンを抱き上げて立ち上がってから視線をこちらに向けた。


「こいつの行動原理くらい知ってるから、どうせ獣や魔獣や君のために無茶したんだろうことくらい想像がつく。それを君が隠そうと思ったことも悪いとは思わない。ずるさと賢さは紙一重で、僕や君のいる世界は、阿呆なやつには生きていけないところだからね、君の行動は間違ってないし、ずれているのはこいつだと思う。だから別に僕は君のことを責めるつもりはない」


 卑怯で矮小な自分への自己嫌悪で視線を逸らす俺に、そんな言葉をくださった。

 追及されるどころか慰められたことが、余計に羞恥を膨らませ、喉に焼け付くような痛みが走る。


 なにか、申し上げなくては。


「グレン様、その、お怪我は大丈夫なのですか?!」

「怪我?」

「首の後ろに、血がついておられるのです」


 「血?」と後ろ襟足の下、首元にやったグレン様の指には、べったりと生乾きの血がこびりついた。しかし、グレン様はそれを何の感慨もなく見つめる。


「……あぁ、ついてたんだ。僕のじゃないけど」

「……え?」

「ねぇキール君」

「は、はい」

「君は、賢いし、能力もあるし、努力もするし、伸ばそうと思えばいくらでも伸ばせる、引く手あまたの人材なんじゃないかと思う。僕はさ、君のこと、優秀だって評価してるよ」

「あ、ありがとうございます」


 名を呼ばれ、なおかつ評価してくださったことへの嬉しさで、それまでの会話も忘れて声が裏返ってしまう。憧れている人に褒めてもらえた。それもこれ以上なくいい評価だ。

 が、天にも昇る心地になったところで一気に冷水を浴びせられた。


「だから、僕には要らない」


 一瞬で地獄に叩き落され、目の前が真っ暗になる俺に、グレン様は続けた。


「僕はイアンと違って他人を育てるのに向いてないからね、時間がかかるんだ。そして僕には、たとえ君くらい手のかからなさそうなやつでも、育ててやるほどの時間がない」

「え……?どういう意味――」

「僕には不器用で低能なこいつで精一杯ってこと。だから悪いけど他を当たって」


 そのまま背を向けてグレン様が歩き出す。

 小さな体を抱き上げて、何の未練もなくここから立ち去る背中は、まだ近くにあるのに、とても遠く感じる。


 待って、待ってくれ。違う、俺はあなたのためにここまで来たんだ。ここに来て、断られて、はいそうですかと引き下がれるか――!


「お待ちください!俺はっ、あなた様の傍でお仕えしたくてここまで来たんです!」


 グレン様の前に回り込み、アッシュリートンを包む黒い上着を掴んで引き止め、膝をついて懇願する。なりふりになんて構っていられなかった。


「小姓になれないのは分かってます。あなた様にとってアッシュリートンが特別だということも、察しがつきました。そいつは、賢くはありませんが、柔軟性に富んでおりますし、機転も利きます。少々生意気ですが驚くほど潔いですし、純粋でもあると思います。俺にはないところで……だから小姓じゃなくても――」

「あのさぁ」


 突然温度の変わった声音に驚いて地面から顔を上げると、何の感情も写さずに俺を見降ろす赤い瞳と目が合った。


「こいつのこと、分かったように言わないでくれる?」


 失敗した。今グレン様は明らかに苛立っておられる。

 俺は何かを間違えたのだ。一体何を?アッシュリートンの評価を?それとも、グレン様の前でそいつのことを軽々しく語ったことを?


「君、なかなかの洞察力だと思うけど、考えていることが顔に出過ぎ。それじゃあ僕の傍にいられないよ。僕は手いっぱいで君まで手を回せないって言ったでしょ?」

「も、申し訳ございません。ご無礼は重々承知しております。ですがそれでも、俺はあなた様の傍にお仕えしたいんです」


 俺がしつこく粘ったことで、グレン様は苛立ったのか、呆れたのか、軽く肩をすくめた。


「じゃあこうしよう。君が評価してるってことは、こいつのこと、それなりだって認めてるってことだよね。だからさ、こいつに勝てたら、君のことを僕の傍で使ってあげる」

「え……?使っていただける……?」

「うん。そうなった場合、多少立場は違えどこいつと近くで仕事してもらうことになるんだから、ちょうどいいよね。簡単でしょ?こいつは、せいぜい学園平均値程度の能力の、平凡未満の小姓なんだから」

「勝てたらって――」

「さぁ?その意味くらいは自分で考えなよ。ここにきてただの魔力武力勝負だけを意味してないって分かるくらいには敏いんだからさ。ただね、一つ言っておく」


 グレン様が、形だけ、天使のように愛らしい微笑を口元に浮かべた。


「どのような場面であれ、こいつをここまで傷つけることは二度と許さない。もしこんなことが次にあったら覚悟しておくといいよ。怪我ですめばいいけど……君が教えてくれたこの血の痕の持ち主のようにならないといいね」


 慈悲のない、凍り付くような笑顔に肌が粟立つ。


「ここから北に50メートルほどの木の陰に、連れてきた馬を置いてある。それに乗って帰れ」


 グレン様はどうされるのか、と訊くことも許されず、俺はその場でただ茫然とその後ろ姿を見送った。



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