2 小姓は用心に用心を重ねます
「そうだ、僕、厩舎の母馬の様子を診てこようと思ってたんだ。ヨンサム、リッツ、またね!」
残りの食事をかき込んで食堂を出た僕は、ヨンサムとリッツを残して厩舎に向かう。この試験期間中、僕は毎日厩舎向かっていた。
実は、この前、この学園で管理している馬の一頭が産気づいたのだけど、これがひどい難産だったのだ。産道を滑らかにする効果のある薬草でマッサージしてあげたり、お腹を擦ってあげたりしていたのに一向によくならず、直診の結果、逆子だと分かり、学園の獣医担当の先生と僕の手で引っ張り出した。幸いにしてその赤ちゃん馬は元気にしているのだけど、母体にはかなりの負担をかけてしまったから、予後の経過観察を兼ねて毎日調子を診ている、というわけ。
ちなみにその当日は徹夜だった。その日にあった国教学の試験は元から捨てていたので僕としては有意義な時間の使い方をしたと思っており、後悔はしていない。どうせ勉強しててもあれはできてないしね。
急ぎ足で向かう途中で、いつも僕と一緒にいる白い毛玉のような魔獣が僕の肩に飛び乗ってきた。どうやら森から戻ってきて僕を探していたらしい。
「お前は認可魔獣じゃないんだから、あんまり学内をうろうろしてると先生方に見つかって危ないよ?」
「きゅっ」
チコは、当然のように僕の学生服のポケットに入って中で丸まると、僕の体をぺしぺし叩いている。
食いしん坊ネズミの鼻を舐めんなってことか、ごめんごめん。
食堂のある学生塔から廊下をわたり、庭を抜けたところにある厩舎に入って馬丁に声をかけてから、目当ての場所にたどり着く。
「調子はどう?」
僕が母馬に駆け寄ると、先にとっくに立てるようになっている赤ちゃん馬の方が僕に駆け寄ってきた。
「お、君は元気いっぱいか!お母さんの方はどうかなー?」
出産前は気が荒ぶっていた母馬も今は落ち着いていて、僕の声にぶるるっと嬉しそうに鼻を鳴らして長い顔を擦りつけて来るので鼻づらと首を撫でてやる。産後の具合もよさそうで一安心だ。
「エルか?」
挨拶を済ませた後、いつものように藁の減り具合やフンの様子を観察してからお腹を撫でていると聞き慣れた声がした。顔を上げると、均整の取れた体格の、高身長黒髪美男子がこちらに歩み寄っているのが見えた。
場合によっては僕をみじん切りにしかねないと一人で噂をしていたまさにそのお方が僕の方に向かって軽く手を上げている。
「みじ……イアン様でしたか!」
「最初の言いかけはなんだ?」
「なんでもございませんとも!えぇ!」
さっき考えていたことがばれたら、僕が玉ねぎじゃないといくら主張してもきっと聞きいれてもらえないだろう。
「お前のことだ。どうせまたろくでもないことを考えていたんだろう?」
「いえいえっ!い、イアン様、どうしてこのようなところに?」
「あぁ、俺の馬の調子を見に来ただけだ。こうしてたまには相棒のご機嫌伺いに来ないとな」
イアン様が、よくよく観察しなければ分からないほどわずかに目を細めてご自分の馬の首を撫でてから僕の方を向いた。
「お前はどうした?」
「あぁ、このお母さん馬がついこの前この子を産みまして。その時に難産で僕がお産を手伝ったんです。それで経過を診ていたところです」
「熱心なことだな」
「へへ。この試験期間はずっとこの子たちといたんですよ。もうすっかり仲良しです」
「……お前、もう一人面倒を見るべき相手を忘れているんじゃないだろうな?」
「へ?何かありましたっけ?」
僕の間抜けな声に、イアン様が眉を顰める。これは怒っている……というより、のちの主に僕のご主人様の係わる面倒事の後始末を想像して悲壮になった顔だな。
それにしても本当にこの人って鉄面皮なんだろうか?ただ単に慣れただけかもしれないけれど、僕が見ている限り結構表情豊かだと思うだけどなぁ。
「お前、主人のことを忘れたのか?」
「まさか!忘れたくても忘れられませんよ。もし努力であのドS鬼畜野郎の存在を忘れられるなら僕は何度その辺りの壁に頭を打ち付けて記憶を抹消したことか……!」
「ならば最低限は顔を出しているんだな?」
「いえ、ここのところは試験とこの子たちでいっぱいだったので出せていません。でもグレン様も試験期間に僕があまりうろちょろしても迷惑でしょうし、呼び出されてもいないので大丈夫かなーっと……間違えたんですね、僕」
途中からやはりな……と呟きながら深いため息をつかれたところで僕の目測が外れたことの予想はついた。
「グレンにとっては試験など、お前を罠に嵌めるほど労力の要らないものだぞ。お前と違って」
「今さりげなく僕を馬鹿にされましたね」
「……あいつが『退屈すぎて死にそう』とここのところ口癖にしていた原因はこれか。これだけ長く小姓をやっているのだから、よもやそのような愚は犯さないと信じて放置していたが、ここまで阿呆だったとはな……」
「イアン様もグレン様の口の悪さを咎められませんよ?」
「いや、最初から礼儀知らずで阿呆だったな、こいつは」
僕の反応を無視してお一人で考察に入られるイアン様。
どうしてこの方も会話っていうのは質問と回答が対応してこそだという当たり前のことを知らないんだろう!
殿下、あなたは部下にどういう教育をされているんですか!
「お一人で失礼な考察を進めないで、阿呆な僕にも分かるように教えていただけると助かります」
「エル、お前何日グレンの元に行っていないんだ?」
「半月くらいだと思います」
「……せっかくだから教えておいてやろう。いい笑顔で『ねぇイアン。気に入ってるおもちゃが見つからないとさ、ものすごくイラッとするよね。見つかったら即壊したくなるくらい。』と言っていたのが三日前だ。お前がグレンのところに行っていないはずはないと思って聞き流していたのだが……」
「せっかくなら知らないままでいたい事実でした!」
僕の視界が、近い未来同様真っ暗になってふらつきかけたが、馬さんが背中を支えてくれた。あぁ動物さんたちの優しさが身に染みる……。
「そ、そりゃ…僕のご主人様が精神年齢いくつだって訊きたくなるくらいワガママし放題の暴君であることは知っていますが……。試験期間ですし……き、急患がいたんですよ!?」
「グレンはそんな正論の通じる人間ではないぞ。常識だろう?あの男の心の狭さとわがままっぷりは」
「……イアン様、僕ちょっと国外逃亡してきていいでしょうか?」
「エル、国外逃亡はちょっとやそっとではできない」
そんな現実的なツッコミはいらないんだよ!
蒼ざめ、どうにか言葉を絞り出す僕の肩をイアン様がぽん、と叩いた。
「辛いことは初めにやっておくに越したことはない。後回しにすればするほど後が酷くなるものだからな」
「じゃあどうしてそんな故人を悼む顔をされているんです!?」
「悪い。俺は正直なたちなんだ。幸運を祈る」
祈りが「冥福を祈る」に聞こえた僕は、全力で足を動かして走ることにした。僕の冥王のところまで。
ご主人様の部屋のドアの前に着いた僕は、大きく息をつく。
そして、ドアの取っ手を握ったところで一旦動きを止めた。
いいのか?僕、本当にもう準備は万端か?思い残すことはないか?
ここに踏み込んだら、もう二度と日の光の下には戻って来られないかもしれないぞ。
防御魔法の準備よーし、浮遊魔法の準備よーし、準備運動よーし。
姉様と父様と兄様への手紙よーし(最悪の場合に遺言にするため)、深呼吸よーし(即座に走って逃げるため)、鉄製の板の準備よーし(魔法発動までの時間を稼ぐ身代わりのため)。
気付け用の薬も念のために持ってきたけれど、よくよく考えたら気絶した後に飲ませてくれる人が必要だったからこれは使えなかった。恐怖のあまり動揺していたらしい、落ち着こう。
よし。
「そこで彫刻の真似をされると非常に邪魔なんだけど」
「ぎゃあああああああ!!」
気合を籠めて開けようとしたドアは、僕が顔を上げたときにはもうなかった。
代わりに至近距離にあった……いや、目に飛び込んできたのは、深紅の円らな瞳に二重の瞼から生えそろう長いカールした睫。そしてすっと通った鼻梁、小さな桃色の唇に、色の白い、透き通るような肌。上位貴族には珍しく、後ろを襟足にかからない程度の短く切っている亜麻色の髪は今日も指通り滑らかそうだ。
そこらの令嬢よりよほど美しいと誉めそやされるご主人様は、こう見えて既に立派な成人男性だ。おそらく来年にはこの学園の最終学年をスキップするほどの人物なのに、相変わらず美青年というよりは美少年と称した方がしっくりくる。
しかし、半月ぶりに心の準備なく間近で対面し、廊下に無様に尻餅をついた僕を見下ろすそのお顔は、残念ながら可愛らしさの欠片もなく、ひっくり返った虫の死骸を見るように顰められている。
「ぐぐぐグレン様……ご、ご、ご機嫌――」
「その非生産的な声帯の使い方にはいつも感心させられる」
本能的にきゅっと喉の奥が狭まり、舌がもつれる僕を遮るのはご主人様のため息交じりの罵倒だ。
「それで?万人が万人見惚れる僕の顔を見てどうしてそんな無駄な体力を使うことになったわけ?」
うわ、この相変わらずの自己評価の高さ!自信たっぷりに言われるところがまた一層小憎たらしい!あ、小さくない、単に憎たらしいわ。
との思いは内心の奥深くに眠らせて引きつり気味な笑顔を浮かべる。
「は、半月ぶりにご主人様に会えて感極まった結果でございます」
「あっそ」
グレン様の方は興味なさそうに座り込んだ僕を一瞥すると、そのまま僕に背を向けてすたすたと歩いていった……が、廊下の中ほどまで行ったところで瞼を脱力させた呆れ切った半眼がこちらを振り返った。
「なにそこでぐずぐずしてるの?」
「へ?」
「僕、これから仕事で出かけるんだ」
「そ、そうですか。それではお気をつけて」
僕の答えに、グレン様がじっと僕をご覧になる。出来の悪い子供を見る親の目から優しさ成分を全て除けばきっとこんな顔になるだろう。
何か期待外れだった、んだよね?これは。
「……えーと。い、いってらっしゃいませ?」
「僕が行くより先に、未だに小姓の仕事のなんたるかを分かっていないお前が逝くことになるんじゃない?」
「お待ちください。『行く』ですよね?お言葉を間違えてますよ」
「人間の資格を返す時なんだから合ってるよ。生き物として誕生する前の世界に還れ」
「遠回しに死ねと仰らなくても結構です」
「一人でできないなら僕が手伝ってやってもいい」
まずいぞ、ここ数月で一番のご機嫌の悪さだ!このままだと本当に逝かされる。なんだなんだ、考えろ僕、この方の傍にいる限り、いつなんどき何が原因で命を落としても不思議じゃないんだ、うっかりご主人様の機嫌を損ねてしまって、なんてことだって冗談じゃないんだ!
小姓のお仕事を要求されていて、「行ってらっしゃいませ」が間違いなんだからその逆は――
「あ――っと、僕にもついて来い、ということでしょうか?それなら準備をして3セミで参りますのでしばしお待ちを」
僕が叩き出した回答を聞いたグレン様は、それ以上何も言わずに一つため息をついてから廊下の向こうに先に姿を消した。
……あれ?おしまい?
罵倒の百や千、お仕置きの十や百は想定してたんだけど。
こんなのご主人様の普段の嫌がらせに比べればなんの挨拶にもなっていない。
もしかしてグレン様、調子悪いのかな?――いや、顔色も悪くないし、そんなことなさそうだ。
とすると――もしかして、僕が来ないことが寂しくて元気なかったとか?
……なんだよ、可愛いところあるじゃんか、ご主人様!
拍子抜けした僕はにやける顔を必死で抑えてから、さっさと歩いていったご主人様の後を追いかけた。




