28 王子と、側近の青年の歪み
グレンは寝台の上で片膝を抱えると、机の上の生ラズベリーに手を伸ばし、数個を取って手のひらの上で転がす。
「能天気馬鹿の本人には知らされていないけど、今、『アッシュリートン家次女』としてのあいつは腐ったおっさん貴族やそれなりの爵位の次男坊あたりから縁談攻撃を受けてんだってさ」
「だがアッシュリートン男爵はその程度、独力で回避できる程度に十分有能だろう?そうやすやすとエルを奪われるとは思わんが」
王家が貴族の安否確認に使う専用魔道具の情報を反映した貴族図鑑を詳細に調べると、アッシュリートン家には「嫡男・ユージーン」の他、娘二名、息子一名が登録されている。なんでも人一人を完全に消してしまうと、魔道具に不具合が生じるなどの事情から、「次男」の存在を詐称しても、アッシュリートン家次女としての「彼女」が消えるわけではないのだそうだ。
ちなみに、アッシュリートン家「次男」の存在が王家公認されている件について王である父上に問いただしたところ、どうやら父上と男爵との間で何らかの取引がなされたことも分かった。その内容は教えてもらえなかったが、国王である父と取引できる材料を持っている男爵が一介の底辺貴族とは思われない。
「クロービー公爵が今でも尊敬している存在ってくらいには男爵の有能さを理解してるよ。そもそも、彼が僕のところにエルを送りこんだ張本人だし」
「なに?ではメグが私と会ったのも……」
「それは彼の想定外だったとは思う。どちらかって言うと逆。マーガレット様があんたの婚約者となったことで、彼は三人の子供の中で彼女を一番に優先して考えなければいけなくなった。現状、彼女が最も危険だからね」
「う……」
メグのことを出されると弱い。
現在、男爵令嬢であるメグが私の婚約者となったことについては、弱小底辺貴族を婚約者としたことへ反発する派閥とメグを擁護する派閥に分かれ、評価が二分されている。彼女自身の魅力、才覚によるもの、王太子妃である義姉上の力添えによるものはもちろんあるが、皮肉なことに一番強い味方は、兄上を王太子に擁立する派閥だ。私が兄上の臣下に就くと明言しても私を完全に安全視できない連中は、私が公爵家や有力侯爵家の令嬢を妃に迎えないことを兄上への最大の忠心の証と見たらしく、メグを擁護する姿勢を見せているというわけだ。
とはいえ、不穏な情勢であることに変わりはないし、彼女の身辺の安全が保証されるわけでもない。
「もしエルが一人娘なら、僕に託したりせずに一人で全てを捌ききるだろうさ。でも――」
「メグの敵対派がそれを匂わせながら、引き換え条件としてエルへの婚約を持ってきたときに、回避が難しいことを見越して、グレンにエルを託し、有力侯爵家の嫡男であるお前が婚約者として囲い込み周囲を寄せ付けないことに期待している、ということか」
「はっきり言われたわけではないけど、そうじゃないかなと見てる」
エルに手渡された白い寝間着を着たグレンが、片膝を立てたまま、グラスに山盛りにされたラズベリーを細長い指で摘み、一粒ずつ口づけるように口に含んで咀嚼する。
赤く薄い唇に運ばれる瑞々しい果実から水分が流れて寝間着の袖を濡らすのを気にする様子もない。
果物を食べているだけなのに、その様子は、男の私から見てもぞわりと鳥肌が立ちそうなほど生々しく、裏で色を売っていた彼の暗い過去を否応なしに想起させる。
出会ってから8年も経つ彼の中に未だ知らない姿を目の当たりにするたびに、私は、彼が違う世界に住んでいたことを思い起こされ、身分と生活格差を体現する目の前の青年の歪みをしかと刻み付けられる。
しかし、グレンは、自分の姿にも私の思考にも気付かぬまま、続ける。
「小姓契約を結んだことは彼の想定外だって言っていたけれど、あれも嘘だろうと思う。彼はきっと現状を予想していたし、予想してなお送ってきたからには、何か『結ばせたい動機』があるはずなんだ。王家を除けば、彼ほど小姓契約の危険を分かっている人間はいないのに、それを押しても敢えてするほどの、ね。尻尾の毛先すら見せないけれど、エルの異能といい、絶対に何かあるんだ、アッシュリートン家には。……それが分かっていてもなお、エルについて悔しいことに完全に彼の手のひらで踊らされている状態なんだけど……いいさ、男爵。甘んじて踊ってやるよ、今はね」
「……珍しいな。他人に踊らされることをなにより嫌うお前が、それに逆らいもせずに大人しく従うとは」
それほどまでにお前がエルを囲い込みたいと思っているということなのだろう?という意味を籠めて見やると、グレンは小さく笑みを浮かべた。
「違うよ、フレディ。あんたは勘違いしてる」
「勘違い?」
「確かに、僕があいつを僕だけに囲い込みたいと思っているのは否定しない。……けれど、婚約する――家の権力まで使おうとしているのは、それが理由じゃない」
「なんだと?ではなんのために――」
「他人に奪われないようにするため」
「自分の婚約者にすることと、他人の婚約者にさせないことと、何が違う?同じだろう?」
「表裏の関係にはあるね。じゃあ僕の目的は専ら裏だと言えばいい?」
「どういう意味だ?」
「目の前であいつを他人に奪われる方が、僕には我慢ならないんだ」
急に目に仄暗さを灯したグレンの薄い唇についた果汁が、まるで血のように赤黒く光り、私の目を捉える。
「他人に盗られるくらいならいっそ僕がこの手であいつを壊そうかとすら思うくらいにね。白い寝台があいつの血で真っ赤に染まったら、それはそれで絵になりそうじゃない?」
「……グレン?」
「泣き顔は今まで観てきたやつの中でもあいつが一番いいと思ってる。そういう意味では別に痛みだけじゃなくて人格を破壊する一歩手前まで快楽で溺れさせてもいいんだ。真っ赤に染めた顔を涙でボロボロにしながら僕に縋らせて、依存させるのもいい。他人に目を向けられなくなればいい」
手の中に残っていた果実を握りつぶしたのか、果汁が白い手から滴り、白い寝巻に赤い染みを作っていく。
それを焦点の合わない目で見つめるグレンの語りは止まらない。
「きっと、あいつにとっては僕が一番傍にいてはいけない危険な存在なんだろうね。だとすると男爵は僕を見誤ったのかも?……まぁどっちでもいいよ。あいつはもう僕のだし、あいつの主人という地位を誰にやるつもりもない。誰であろうと、僕からあいつを奪おうとするなら、生きていることを後悔するくらいの目に遭わせて――」
「グレン!」
エルへの狂気じみた執着を目の当たりにし、私が思わずその肩を掴み揺さぶると、グレンが私の手を外しながらくすりと笑ってこちらを向いた。
「だーいじょうぶだよ。そんなことがないように、婚約って見える形で積極的に囲い込もうとしているんでしょ?これを聞いた後なら健全だって思わない?」
そう言って寝台から身を乗り出したグレンが蠱惑的に微笑み、私の耳元で囁く。
「ねぇフレディ。今の、紛れもなく僕の本音だよ。自分で言うのもあれだけど、僕、結構歪なやつだと思うんだ。こんな危険な僕を身近に置くのはあんたにとっても危ないかもよ?あいつみたいに手遅れになる前に、もう少し距離を取ったら?」
今度こそ私の傍から身を引き、柔らかく微笑むグレンの見かけは、清純で愛らしい、神の愛し子という評判すら納得させるのに、その瞳はどこまでも狂気じみた愛情で彩られている。この目を見て、今のがグレンの演技だったとは到底思わない。
「馬鹿だな、グレン。逆だ」
「……は?」
思わないが、私は、グレンの腕を掴んで傍に引き寄せた。グレンの方は驚いたように目を瞬かせる。
「お前は、今初めて私に、お前が常に奥底に隠している感情と性格を見せたとでも思っているのか?それで引かせようとでも思ったか?身内に甘い私を案じたがゆえのことか?」
「何を言って――」
「甘い、甘すぎるな。どれだけお前と共にいると思っているんだ。これまでにだってお前の歪みを感じることはたびたびあったし、仮にそれがなく、初めて今のお前を見たとしても、だから何だと言ったところだ。そうだな、お前が積極的にそれを明かしたことを嬉しいとさえ思ったぞ」
「はぁ!?なにその常人をぶっちぎった思考回路!」
彼らしくなくあげられた頓狂な声といつも通りの毒舌がかえって清々しい。
「言っただろう?お前の行動がたった一つだけの目的に向けられていることはないと知っていると。お前は私に本性を見せることで私を測り、そして同時に、私を一定の位置まで引かせようとしていたのではないか?それだけでもないな、お前のことだから、さしずめ、何か不穏な手がかりを掴んだのではないか?それで、これから単独で調査に乗り込もうとでもしているんだろう?」
途中口を挟ませずに言い切ると、グレンは言い返そうとした言葉を飲み込んで気まずそうに目を逸らした。
長い付き合いだ。分からないことも多々あるし、知らない面もあるが、それでも、グレンとイアンの行動原理や性格を私以上に知る者もいない。
これくらい読めないようでは、実は人一倍自己犠牲心の強いこいつの主でも、友人でもいられない。
「グレン、以後、私の関知外で単独行動をすることを一切禁じる」
「なっ!」
「クロービー公は事後報告で許容していたようだが、私は許さん。必ず事前報告、許可を求めろ」
「えぇ……そんなの動きにくい……」
「お前が間違っていた時に誰がお前を止めると言うんだ?部下の危険管理は主君が引き受けるものだ。……そして、効率を無視してお前が私情を挟んだとき――エルを必要以上に遠ざけようとするなら、私はお前にエルを使うよう命じる」
途端に自尊心の高いグレンの目がすっと眇められた。
「……僕が間違えるって言いたいの?」
「そうだ。私情も挟むし、間違えもするだろう?お前とて、まだまだ経験の足りない青二才なのだからな」
「あんたに言われたくないよ。ついさっきだってうじうじ悩んでたくせに」
「あぁそうだ。私も王子としてまだまだ足りぬところばかりだろう。だからこそだ」
「はぁ?」
「この際だからはっきり言おう。私はお前を唯一無二の友人だと思っているし、お前がどんなやつでも、今更動揺することもない。私は一生そんなお前に付き合うつもりだ。その逆もまたしかり」
「逆?」
「未熟な私は、お前やイアンに助けてもらってなんとかやっているところなのだから、お前がいないと困るのだ。グレン、お前、忘れていないか?」
「何を?」
「お前の居場所はなにも一つだけではないだろう?お前の居場所を最初に作ったのは誰だ?私に身と心を捧げたのは誰だ?」
目を見開くグレンの腕を掴んで離れないようにしたまま目を合わせ、はっきりと告げた。
「お前は私の側近だ。少しは私に信を預けろ、グレン」
すると息をのんでいたグレンが、暫く後、困ったように顔をくしゃりと歪め、泣き笑いの表情をその美麗な顔に浮かべた。
「こんな僕でもいいって……立派な変人だね、フレディも」
「なんとでも言え。変態とエルに罵られ続けている部下の主だ。これくらい当然だろう?」
「……どうしてあんな狂気を受け止められる?怖くないの?」
「自分が対象でないから安全だというのがある」
「――ド直球だね」
「建前だ。本音で言えば、それをエルに隠し通している時点でお前はそんな己と常に戦っているのだろう?それも、たった一人で」
辛かったな、と囁けば、グレンが小さく身じろぎして顔を伏せた。
「私であれば、おそらく耐えられない。あれほどの情動があれば、気持ちのままに愛する人にぶつけてしまう。……お前を尊敬するよ、私は」
その対象となっているエルが、あれを聞いて何と言うかは知らない。
私が知るグレンの過去を、エルは何も知らないようだし、おそらくこういう感情も見せてはいないのだろう。
それでもエルという少年――いや、少女は、過去も事情も何もわからない相手に、何も訊くことなく二年間、誠心誠意仕えている。私がグレンの情報を教えてやろうとしたときもあったのに、それを拒絶してグレンの意思を優先した。それもそれでなかなかできるものではない。
そんなあの子なら、
「うっわ、重すぎて気持ち悪いですねー。でも、グレン様が変態なのは元々ですもんねぇ」
などとあっけらかんと返しそうな気がする。
「まぁ、エルとのことについては、私は傍観者に過ぎん。これ以上踏み入るつもりはない。せいぜい楽しませてもらう」
「……悪趣味ぃ」
「それより、グレン。先ほどの命への返事は?」
グレンは私に掴まれた手を引き剥がし、寝台の下に降りると膝を折り、
「御意」
拳を胸につけたまま、深く頭を下げた。
殿下の視点はこれで終わりですが、もう少し別視点が続きます。時点はこのまま、次話からは生真面目でからかわれやすい彼です。




