21 小姓の支柱はご主人様なのです
「この傷、入学してすぐに同級生に見られて怯えられたこともあるんですよ?」
「だから?」
「だから?って!『傷が武勲になりうる』男だという前提でも気持ち悪いと思われるくらいなのに……なんとも思わないんですか!?」
「僕は自分で見て、訊いて、感じたことだけを信じる。そして今、それに見て触れて感じた結果、僕は純粋な疑問以上の何も感じなかった。傷があろうとなかろうと、お前はお前でしょ。お前に対する評価が傷一つで変わるとでも?大したことのない凡人の感情を僕にあてはめるのはやめてくれる?」
グレン様は、道端の石ころに黒い斑点があった、と言うのと同じ調子で僕の傷のことを語る。この傷は特別じゃないと言われたわけだ。
それはきっと普通の人には嬉しいことなのかもしれない。
けれど、僕には――僕にとっては――
「……どうしてです?」
普段は目を背けていた不安がそこで突如として大きくなって、ぶわりと心の中を覆い尽くし、思わずグレン様のシャツを掴み、迫ってしまった。
「どうしてそんなに、なんでもないことのように言うんです!?」
「叫ぶなうるさい。僕はまだ耳の遠いじじいじゃない。なにか話したいなら普通の音量で話せ」
文句たらたらながらも、グレン様が聞いてくれる姿勢を見せてくれたことに、僕の心の弱い部分が縋った、のだと思う。
「……父が僕に男として生きていく道をあっさり許してくれたのには――多分、『傷物』になった僕が、令嬢――女性としての幸せを掴めないと考えたからというのもあると思うんです」
「だから?宮廷獣医師じゃなくて、貴族の令嬢らしく生きたかった。それなのにできなかった、僕可哀想――って?」
「違います!そうではありません。稀に、心細くなる、んです。……僕が今進んでいる道は、本当は自分で積極的に選び取ろうとしたものじゃなくて自分が無意識のうちに、現実と向き合うのが怖くて逃げた結果で――本来の道に行けないから、妥協で選んだ道なのではないかと考えてしまうんです」
父様は、僕が望む道を選ぶことを許してくれた。
姉様は、昔一緒に風呂に入ったときも、僕の採寸をしてくれる今でも、いつも優しく傷を撫で、嫌な顔一つしない。
顔を合わせていなくても定期的に連絡を取っている兄様は、「傷物だからって弾くような了見の男なんてこっちからお断りだ、大事な妹をくれてやれるか馬鹿野郎」と言ってくれた。
この傷跡は、優しい家族ですら腫物に触る扱いを受けるほどのものだから、例え伴侶が見つかったとしても幸せな人生なはずがない。そんな僕が、もし、一男爵令嬢としての人生を強制されていたらと考えるとぞっとしない。そういう意味で、僕が男として生きていきたいと言ったことは、きっと父様にとっても、僕にとっても幸せなことだったかもしれない。
つまり、この道は、傷が特別なものだから許されたもの。
じゃあ、傷がなかったら?傷が特別なものじゃなかったら?――僕の生き方が正当化される余地なんてない。
僕は、本当に自分の意思でこの道を進んでいると言える?
僕が宮廷獣医師になることは、性別を偽って学園に通い、人数の限られた地位を奪い取ることを意味する。それは、お世話になったたくさんの人を騙し、国家を裏切ることを孕む。そんなことを、僕は妥協の産物としてやっているんじゃないの?
「仮にそうだとしたら、なに?王家も貴族も平民も、自分の地位に縛り付けられてそこで生きていくことが当たり前なんだから、この国のほとんどの人間が妥協の中で生きているに決まってる。それとも何?お前は、陛下が陛下としてこの国を治められることも、貴族が貴族という枠に縛られることも受け入れられないってわけ?」
「正道を通る時に妥協するのは、正道が変わらない限り仕方がないことだと思います。でも僕の場合は、妥協で通る道が本来ならその縛られた枠の外、通っちゃいけないところなんです。――国の在り方を変えるでもなく、ただ周りのたくさんの人たちを騙して、嘘をつかせて、無理をさせて突き進んでるのが、僕です。そんなこと、本当は許されない。そんな、不誠実で、不安定で、能力に秀でたわけでもない僕が、この道を進んでいいのか……小姓なんていう重役を務めていいのか、分からなくなるんです」
自分の信念に従うこと、夢を追うことを考えてそれ以外に目を向けない。それが僕の生き方だ。
じゃあ、その目標足る信念が人から見て異端だったら?夢を追うことが間違っていたら?それがたくさんの人を不幸にすることだったら?
二年ほど前、国王陛下の呼びかけに返事をしたあの瞬間、僕は全てを騙して生きていく覚悟を決めたはずだった。
それは、僕にはそれだけの力があるという、ある意味傲慢のなせる業だったと今なら思う。
自信があったんだ。
例え女でも、例え周りを騙すなんて卑怯なことをしていても、それに見合うだけの成果を示すことができるって。
けれど、体が成長し、自分が男でないという現実と、それに伴う周りとの格差をありありと自覚させられるにつれ、自分の生き方に小さな揺らぎが生じてきた。
獣医師という面で言うなら、男爵家で、しかも男性に比べ魔力量が少ない「女」という性別だからこそ、治療法が制限されてしまう。体力や筋力勝負になることだっていくらでもある。知恵や技能をどんなに身に着けても足りない。
助けられなかった子なんて、いっぱいいる。
小姓という意味でなら、自分が考えていた以上にもっと役立たずだった。知能も政略もまるでないし、グレン様の身を守るという最低限のことですら、満足にはできていない。これからグレン様のお命を狙う暗殺者と対面することがあったとして、僕に出来ることは身を投げ出すことくらいなんじゃないかと思っている。
きっと、(粘着質だし、思想は全く共感できないけれど)貴族男子として十分な資質に恵まれたキール様の方が、護衛という意味でははるかに役に立つだろう。
能力も力も不足する僕には、他のやつらであれば当たり前にできることすらできない。
心の奥底で感じていた無力感が積もっていくにつれ、貴族の男女の役割がはっきりと区別されたこの国で性別を偽り続けることへの罪の意識は大きく膨らんでいく。
こんな僕が、胸を張って小姓を名乗っていいのか。宮廷獣医師という夢を追いかけていいのか。
「……日々目の前のこと以外情報として頭に入れられない単細胞がこんなことに頭の容量を使っていたなんて――無駄にもほどがある」
「僕だって人間ですから!悩みくらいあります。一つや二つや三つや四つは」
「悩むだけの容量がある者にだけに悩む資格が与えられる。悩む行為は、獣にはできない高尚なものなんだ」
グレン様は大きなため息をついてから弱音を吐く僕をいつもの調子でこき下ろした。そして容赦なく現実を突きつけてくる。
「まぁ確かに、フレディみたいな例外を除けば、貴族だったら、お前の傷を女としての欠陥と考えるのも無理はないだろうね。小賢しいやつであればあるほど妻を政略の道具と飾り物くらいにしか思わないから」
「……はい、分かっています」
「お前が、性別詐称という罪を犯していることも、今のお前の能力が、歴代の小姓に比べてはるかに劣っていることも別に否定しない」
この方は、弱音を吐く人間を慰めるような人じゃない。むしろあっさり見放していく。
「自信がないなら全てやめれば?」「弱い上に鬱陶しいばかりの人間なんて要らない」
そう言われて放っておかれると思った。
「だけどさ、お前は今、大事なことを忘れてない?」
「はい?」
が、グレン様は、存外落ち着いた声音で、僕が自身の左手首をはっきりと視界にいれられるように、僕のシャツの腕の部分を少し捲った。
そこには、掴んでくるグレン様の右手首と寸分たがわぬエッセルベルク王国の紋章が赤い血文字のように浮かんでいる。
「お前は、今どういう立場にいる?」
「……学園の生徒で、グレン様の小姓です」
「小姓ってどういう存在だったか諳んじてみなよ」
「えーっと、例え王族であっても一度認めれば立ち入れない、絶対不可侵の強い絆を持ち、貴族のしがらみも関係なく、ただ純粋に主人のためだけに働く存在――です」
「バカでも分かるように一から訊いたんだから分かるでしょ。小姓にとって、一番大事な存在は誰?」
「……ご主人様、です」
おそるおそる手首から顔を上げると、グレン様は存外真面目な顔で、僕としっかりと目を合わせた。
「性別を偽ったお前に加担した時点で、僕も同罪になる。小姓であるお前の罪は、僕の罪にもなる。『正義感』にかられて、ぼろを出して、僕に迷惑をかけるつもり?」
「い、いえっ――」
「それにね。世界にカミサマってやつがいるなら、そいつは無情だよ。いくら縋っても、助けを乞うても、何もしてくれない。無力なやつは、永遠に底辺を這いつくばるだけだ。……だから、無力感に苛まれる暇があったら、それを克服する工夫をしろ。努力を惜しむな」
何かを思い返すように、一度きつく目を瞑ったグレン様が再び目を開くと、力強い紅色の輝きが僕の目に飛び込んでくる。
「お前は小姓だ。周りがお前を見てどう言うかは二の次で、まずは主人の僕に役に立つと思わせればいい。この僕に認められるようになったら、周りにだって馬鹿にされない。それだけの力をこれから身に着けて、自分に替えられる存在がいないことを周りに思い知らせろ。そうなった時点でもし、お前の性別がばれて、『女のくせに』と言えるやつがいるなら、その時は僕が相手になってやるよ。僕が認めたやつを見下せるのは、僕を越えるやつだけだ」
グレン様が、僕が女だからという理由で手加減をしてくれたことなんて一度もない。
どこまでも傲慢に、自分中心に僕に無理難題を押し付けてくるこの方には、思いやり成分が圧倒的に欠けているんだと思っていた。
でも、もしかしたら、ただ甘やかすのとは違う、それよりもっと難しい『思いやり』を見せてくれている、のかもしれない。
実際被害に遭っているその場では、恨みつらみを言いたくなるし、腹も立つし、ただの自分の嗜虐趣味の発散用だとしか思えないけれど――
こうやって叱咤してくれる声は、思っていたよりもずっと温かい。
「大体さぁ、僕は女だと分かっていてお前を小姓にしたんだよ?フレディの腹心としても、性別の垣根を越えて能力を発揮できる国造りの一翼を担っていく役人としても責任重大のこの僕がね。この意味くらいは分かる?」
小姓の評価は主人の評価につながる。
例え僕が自分の生き方を疑いたくなったとしても、もう僕は見失ってはいけない。
守り抜かなければいけないものを僕はもう、たくさん背負ってる。
迷ってる余裕なんてない。
「だから僕は、『お前自身』ではなく、『僕に』恥じない小姓であることを、お前に命じる。それ以上無駄なことで悩むな、エル」
揺らいではいけないのだ、自分のためではなく、ご主人様のために。
きつく掴まれた手首の痛みが、王家の紋章を体に刻まれている重圧を思わせる。
ずしりと響くご主人様の厳命は、ふらつく僕の重りにはちょうどいい。
悩んだり迷ったりするのが性に合わない僕は、一度自分の信じる方向が決まればずっと走り続けられる。その方向性を、この方はくれる。
目が覚めるような気分だった。
「ありがとうございます、グレン様。僕、勝ちあがって見せます。――あなたの小姓として」
大会でも、宮廷獣医師の試験でも、男女差別の激しいこの貴族社会でも。
「言ったからには、やってもらう。恰好つけるのは結果出してからにしないと恥ずかしいよ?」
「最善を尽くします」
「まぁどうあがいても僕の婚約者として出てもらうことは確定事項だろうけど」
「速攻の手のひら返しは予想済みです。やってやりますよ、僕は!」
「はいはい、やれるもんならやってみな」
グレン様はくすりと笑うと、僕の髪をくしゃりと撫でた。
※ 次更新は30日になります……それまでに書くぞ!
※ おまけ
「あれだけ言っても分からないようなら、悩む余裕もないくらい一つのことで染め上げてあげようと思ってたんだけど。残念」
「……怖いのでそれが何かを想像するのは差し控えさせていただきます」
「そこまで言われると言いたくなっちゃうな。お前もここまで聞いたら気になるでしょ?」
「いいえ、微塵も気になりません」
「それはね――」
「おおおおお楽しみは最後まで取っておくべきだと思います!できれば死後の世界まで!」
「僕、好きなものは最初に食べる派なんだよなぁ」
「ひぃぃぃぃ!」




