1 小姓はフラグを立てました
十六歳最後の定期試験の最後の筆記試験を終えた僕は、見事に燃え尽きて試験会場になっている大教室で天井を仰いでいた。沁みが数えられるほど低くないのが残念でならない。
「エル、お前さっきから酸欠の魚並みに口ぱくぱく動かしているだけで声が出てねーよー?」
僕の隣では、友人が僕とは対照的に余裕そうにノートを捲っている。
リッツ・ノバルティ。真夏の葉を思わせる深い緑色の垂れ目に、襟首にかかる程度の黒髪を持つこの男は子爵家の次男で、同じ宮廷獣医師志望者だ。ヨンサムと並ぶ、僕の気の置けない悪友の筆頭者でもある。
「声を出すほどの元気がないんだよ……国教学のあの問題、何なの?」
「あぁ。『この国の主席聖教者を第三代から名前と功績を簡単に書いた上で、順に述べよ』ねー」
「あんなこと覚えて意味あるの?大した事せずに死んだ人いっぱいいたよね?!しかもみんながみんな似たり寄ったりの顔してるし……!」
「人物図鑑集を睨みつけて似顔絵で覚えようとしてたのはお前くらいだろーよ」
「視覚による記憶はバカにできないんだよ?」
「それで大事なところ覚えていないなら本末転倒じゃね?」
ぐうの音も出ない正論だ。涙ながらに先ほどほぼ真っ白で提出した紙を思い返す。
落第になるのは四割以下というところだから、テストだけなら一発落第になるほど出来なかった。レポートでなんとかなっていると信じたい。
「あんなもの、教会に入りたいやつだけ覚えればいいんだ……!なんで必修教科なんだろう……!」
「しょーがねーじゃん、この国では宗教大事。これ常識。おー俺は全部合ってたー」
「泣いてる人間の隣で答え合わせすんなっ!それだけじゃないよ、歴史学の『これは何年に起こったものか、下記選択肢から選べ』でマイナーな出来事並べて2年ごとにずらした選択肢を出す、あの問題の意図は何?別にいいじゃん、384年でも、386年でも!これ、落とすためにやる入学試験じゃないんだよ!?全員合格でもいいんだよ!?」
「問題にケチつけても何も益は生まれないぞ若者よ」
「……リッツは優等生だもんなぁ……」
八つ当たり紛れにリッツから取り上げたノートを抱え込んで再び机の上に突っ伏す。
のんびりした口調に似合わず、リッツは成績優秀者の常連だ。
武術や剣術、魔法の必修実技部門はともかく、専門科目以外の科目でも座学だけなら僕たちの学年の五指に入るやつなのだ。先生方から滅多にない文官への推薦を受けたのに、「特殊系の方が金がいいんでー」とのたまって蹴ったド守銭奴でもあるけど。
ちなみにグレン様の小姓になる前までの僕は、専門特化科目以外の授業では、騎士課きっての有望株であるヨンサムと、座学成績優秀者常連のリッツといつも一緒にいる平凡な地味人間として周りに認識されていた。先生方への自己紹介ですら「セネットの同室で、ノバルティといつも一緒にいるアッシュリートンです」。
……目立ちたいわけではないけどどこか空しい。
「ひがむなひがむな。努力である」
「知ってるさ!愚痴くらい言ったっていーだろー!?」
「あーんなもん、薬学の知識と同じで頭に詰め込みゃいいだけの話じゃん?エル、お前魔獣の名前や特徴、その系統のアレルギーや混合薬作るときの配合はばっちりグラム数まで覚えられるのになんでそっちはできねーの?」
「うるさい!どうせ僕は教養必修試験の落ちこぼれ常連ですよーだ」
ご主人様に常日頃貶されている通りね!
あの方は僕の昨年末の歴史学の筆記試験の解答用紙を無理矢理提出させておいて、見た瞬間にあろうことかその場でそれで鼻をかんだからな!ちーんって音まで立てて!思いっきり!
「あ、鼻紙と間違えた。これ意味のある紙だったっけ?なんか有用な情報があったなら是非ご教授願いたいね」
とか、にやにやと厭味ったらしい笑顔で言いやがったからなこんちくしょう!
間違えたところを直して再提出義務有りかつ追試っていう赤点の罰則なんて当然のように知っててやったんだあの方は……!
「お。エルだけじゃない沈没人間はっけーん。おーい、ヨンサムー」
試験日程を(無事ではないがなんとか日にちだけは)終えて、食事に来たリッツと僕が向かった食堂奥には、先ほどの僕よろしく机の上で突っ伏している同室の親友がいて、リッツの呼びかけに目をしょぼつかせながらこっちを向いた。
が、頭上に黒い暗雲を垂れこめさせ、目には生気が全く感じられない。
「……………あぁ?」
「こっちも声が出なくなる病かと思いきやこっちはほぼ意識ねーじゃん、生きてるかー?」
「ヨンサムぅ~!仲間ー!さすが同じ釜の飯を食う友だ!」
「……そうか……飯を……食うんだった……」
「だーめだこりゃ」
僕同様、食事を一日の楽しみにしているはずのその声にいつもの張りは微塵もない。一週間水をやり忘れた切り花並に萎れている、いや枯れている。
そのしなびた頭をぽんぽんと軽くたたいたリッツは、仕草に反して言葉のナイフで容赦なくヨンサムを抉ってきた。
「あえて塩塗るようだけど、ヨンサムはどーだったわけ?」
「おうっそれ訊くか!?訊くのか!?この状態を見たうえで、この俺に!!」
「過去と向き合わねば傷を癒えぬぞ青年よ」
そういえば、こいつもどっちかって言うと嗜虐趣味がある方だったな。賢いやつっていうのはどいつもこいつもSなんだろうか。それとも単にヨンサムがいじりやすいタイプだからだろうか。
ヨンサムは、顔を上げ、突っかかるようにリッツを睨みつけた後、へにゃへにゃと再び机の上に沈没した。
「……解答欄、一個も埋められなかった……。言語学と歴史学と国教学と政治学」
「多っ!」
「うはー……俺なら一週間は立ち直れねー」
食欲がないのか、僕とリッツが昼ごはんを食べているのを横目にまだ食事を取りに行かず光のない目でどこか遠くを見やるヨンサム。僕ですら引くほどのヨンサムの惨状に目元をひきつらせる優等生のリッツ。
「ごめん、ヨンサム、僕、仲間じゃなかった。僕が出来なかったのは国教学と歴史学だけだから」
「裏切り早すぎだろ、エル!こうしてやる!」
「あああああ!大事に取って置いたデザートとったぁ――――!ひどい、返せ!」
目の下に隈を作ったヨンサムが、僕が大事に最後までとって置いた定食のデザートのクッキーをかすめ取るなどという暴挙に出た!
「吐き出していいならいいぜ」
「ヨンサムがエルに当たってるのとか珍しーな。相当やさぐれてんなぁ」
「誰のせいだよ!ったく、この三日完徹で頑張ってこれだぜ……!」
「あの量をたった三日でやろうとする方が間違ってんじゃね?半年分あるって分かってただろーに」
「うっせぇ!忙しかったんだよ、訓練で!」
やさぐれるヨンサムの目の前に座り、一人優雅にパスタをフォークに絡めたリッツは、我関せずを貫いている。
パスタなら盗られないと踏んでいるらしい。つくづく頭の回る小賢しい男だ、リッツめ……!
「困窮している貧民の四分の一月に一回の贅沢を盗るなんて万死に値する……!食べ物の恨みは許さないからね、ヨンサム……!」
「エル、お前もデザート一個で心が狭い」
「リッツ!僕のお財布がいつも苦しいことを知ってるだろ!?」
「ああそうだったな。確か俺にも3半銀くらい借金あったもんなー?」
「げっ……」
姉様と殿下の婚約が無事成功した去年、僕はこちらに戻ってきて久しぶりにみんなと遊んだのだ……が、育成補助師のおばあさんから苗木を買ったときにお給金を全部使ってしまった僕は、その時にリッツにお金を借りた。
リッツほどの高利貸しに金を借りるというのは自殺行為なのだけど、他に僕に貸せるほどお金のあるやつがいなかったのだ。
一刻も早く返そう、と思って働いているのだが、僕の敬愛するご主人様は大事なこと以外には本当に気まぐれで、僕のお給金程度などその辺の窓枠の埃くらいにどうでもいいことらしく、いつもあっさり忘れられる。
しぶっているわけではないので、申告すれば忘れていた分もくれはするのだけど、三月に一回どかん、とまとめて渡されるのだ。その時に必要としている物――例えば高価な治療薬とか薬の材料になる素材――を現物支給されることもある。その時必要な上に、給料以上に高価なものになっているから文句を言い損ねて後悔するのも一度や二度ではない。
そしてなんとか現金をいただいても、僕の下にやってくるお金にはどうやら羽がついているらしくあっという間になくなっていく。
つい最近いただいた分だって、王城に出仕中に体調を崩したご主人様へのお高い薬のためと、学園に帰った後にちょうど来た急患の子のために消えた。
薬草を数種混ぜるだけでできるお薬なら薬草を現地調達して自分で作るが、複雑なものになると薬剤師でないと作れないので、お高い合成薬を買い求める必要があるのだ。今回運悪くこの合成薬のお世話になってしまった。どれもこれも買わざるを得ないものだったから後悔はしていないとはいえ、僕は今また無一文。僕の懐は真冬の氷を抱えるかの如く極寒だ。
……おかしいな、正当な労働の対価であって、決して悪銭ではないはずなんだけど。
そんなわけで返済期限もとっくに過ぎて一年半ほど経った今も利子を順調に膨らませているリッツに僕は全く頭が上がらない。
「必ずお返ししますのでっ、どうかご猶予をっ!!」
「別に構わねーよ?俺にとっては利子収入増えるだけだし?まいどどーも」
この守銭奴め!!言えないけど!!
守銭奴の友人は僕の内心を読んだかのようにちろりと僕を見た後、行儀悪くフォークでヨンサムを指した。
「んで、ヨンサムが勉強する暇がないくらい忙しかったのは、あれ?エッセルベルク王国の名物、学園選抜大会」
学園選抜大会。
それは武術、剣術、魔法、何でもありの実践形式で、身分不問で実力を競う、年に一回行われる学園の大会だ。
年末に予選が行われ、ベスト32以上になると、年明け後半月経った頃に王都で行われる本戦に出る資格を得られる。王家の皆さまの前で実力を示す機会が与えられる、騎士、魔術師志望にとっての登竜門で、普通は就職時に不利な身分差を実力でひっくり返すことができる一番の好機でもあるから、参加は自由だが、ほぼ全員の騎士課・魔術師課の生徒が参加する。毎年挑戦できるので、基礎課程の二年生で参加する者も多い。
逆に、非戦闘職の特殊課の僕たちにとってはあまり関係がなく、参加者はこれまでほとんどいない。
なにせ騎士課・魔術師課が低学年高学年問わず本気で望む試合だ。救護担当の先生方では間に合わず、特殊課の中でも医師志望部の者は全員、運営の方に回されるほどの激戦になるから、命を落とした者は今のところいないけれど、それに近い大怪我者が発生することなどざらにある。特に僕たち四年生は、ちょうどその半年後に控えている専門職第一次試験の対策に忙しいし、怪我などしてはたまらないので参加することはないと言っていい。
要は、僕とリッツにとっては他人事。ヨンサムにとっては、テストなどよりよっぽど大事な大会、というわけ。
「おうよ。あれでベスト16に入れないとイアン様の特別隊から除籍なんだよ」
「除籍!?厳しいね……!」
僕のデザートを奪ったヨンサムは難しい顔でため息をついた。
「当ったり前だろ。イアン様の特別隊にいる連中っていうのは、イアン様の騎士団の候補生たちなんだよ。あの方の下に就きたい生徒なんかうじゃうじゃいるから、常にその座は争われてる。そんなに甘くねぇの」
「ふぅん……」
どうにも腑に落ちずに沈黙すると、リッツが苦笑した。
「エルは普段、グレン様の近くにいる関係でイアン様とも近いからなーそんなに特別感ないんだろうけど、特殊課の俺にとってもイアン様って言ったら雲の上の憧れの存在って有名だぜ?」
「憧れ、ねぇ……別に否定する気はないけど……」
確かに外面だけなら、イアン様はすごくかっこいい。
あの硬派に整った容姿と生真面目さはご令嬢方を一網打尽にするが、圧倒的に女性ウケするグレン様と違うのは、かの方が男子にも大人気だということだ。
成績優秀なのは言わずもがな。剣術及び武術に関しても、天性の才能に慢心することなく日々鍛錬を怠らない。自分に厳しく、酒も女も欲望となりうるありとあらゆるものを排除するストイックな姿勢を崩さない。部下を育てることにも長け、褒めるべき時はきちんと褒める上司としても有名だ。
悪を挫き、弱きを助く、まさに漢の中の漢。
自らの主の一番の騎士であるため命を懸けている騎士の鑑。
それがイアン様の世間的な評価だ。
酒を飲めばご不浄場と優に半刻はお友達になってしまったり、女である僕以上に下ネタに弱かったり、女性に積極的な色仕掛けをされた時にきっぱりはねつけたかと思ったら、殿下とグレン様だけになった途端にだらだら冷や汗を流していたり、生真面目さゆえにグレン様にいつもおちょくられていることは決して漏らしてはいけない真実なのだ。
僕のせいでイアン様の秘密が外部漏洩した時には、きっと僕はあの剣でみじん切りにされる。
「エル、お前、目が脂下がっているのに口元が引きつってるっていうすっげぇ面白い顔してるぜ」
「笑いたいのか、怯えたいのか、どっちかにしとけー」
すかさず二人に白い目で見られてしまった。
うぅ、僕は僕でこの表情に出やすい性質をなんとかしたいんだよね。
グレン様には「お前もそろそろ自分が頭部透明人間だと認識した方がいいよ」と言われ、内心の罵倒の分だけお仕置きされてきたこの2年弱、僕は常々そう思ってきた。
そんな僕の来年の目標は「グレン様を出し抜く」だ。
「じゃあヨンサムはもうあと一月くらいは練習で忙しいんだ?」
「そ。イアン様のしごきもきつくて、勉強どころじゃねぇっての。……でも、ま、充実はしてるし、機会をくれたエルにはすげぇ感謝してるけどな」
ヨンサムが頭を撫でてくれたので、手を差し出す。
「じゃあさっきのクッキーの分、返して」
「お前根に持ちすぎだろ」
すかさずそのまま頭を押し潰された。
そろそろ付き合い丸四年になるヨンサムは、今日も遠慮がなかった。