10 小姓にはどうすることもできませんでした
「おい……おい!」
王城の中の宮廷獣医師たちの集う診療室を出てからしばらく歩いたところにある庭園の小川の傍で、夜明け前の薄暗い中、膝を抱えてぼんやりしていたところで、唐突に声を掛けられた。
自分を呼んでいるのだと気づいて振り返ると、柳眉を潜め、滲み出る不機嫌さを隠そうともしないキール様が仁王立ちしていた。
「なんでこんな辺鄙なところにいるんだ、探したんだぞ」
「……すみません」
なんで僕が謝らなきゃいけないのか、僕がどこにいようが自由じゃないか――というひねくれた言葉を飲み込んで、ふて腐れたように呟いてから、顔を正面に戻したというのに、キール様はお構いなしに僕の前にやって来て、その高い身長から僕を睨みつけた。
「この俺がお前を探していた理由くらい分かるだろう」
僕が黙り込んでいると、キール様は苛立ったように膝をつき、僕の両肩を持って乱暴に僕を揺さぶった。
「そうやってふさぎ込んでいじけている場合か!グレン様が……!グレン様があんなことになっているというのに!」
「だからこそですよ!」
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あの後のあの場でのことはうすぼんやりとしか覚えていない。
僕が、目を閉じたまま動かないグレン様を揺さぶろうとして、イアン様に止められたこととか、師匠が止血処置を施してもなお腹に空いた大穴から大量出血を続けるグレン様を緊急搬送する手立てを取ってくれたこととか、自分では覚えていないけれど、錯乱した僕が運ばれるグレン様になおも追いすがろうとしたことで、師匠に思いっきり平手で頬を張られたこととか。
覚えているのはそれくらいだ。
グレン様と師匠の後を追いかけて、王城に入ったところで僕を待っていたのは、国王陛下からの呼び出しだった。
なにせあの化け物と最初に対面したのは僕だし、教皇と最後に話したのも僕だ。さらに、グレン様に任されて化け物の片割れを始末したのも結果的には僕な上、一番事情を把握していらっしゃるであろうグレン様が意識不明の重体になってしまったもんだから、いくら、主人が一刻を争う状況になっていようと、その義務から逃れることはできなかった。
僕は、グレン様の運び込まれた緊急病棟に行くことすら許されず、国王陛下との謁見室に連行された。
国王陛下の御前に出る前なのだから、本来は着替えるべきだったはずだけれど、事は一刻を争うということで、あの場にいたまま――つまり、全身埃と土と、それから大量の血にまみれ、ところどころ化け物の残骸が付着した巻頭衣姿かつ全身傷だらけの呆然自失とした状態で、僕は謁見の間に連れていかれた。
そこで僕は、国王陛下、王太子殿下、第二王子である殿下や宰相様とあと数名の関係部署の重役の前で、事情の報告をさせられた。
例えこんな状態でなくても、国家的大事件の重要参考人として報告することに慣れていない底辺男爵家の一学生に過ぎない僕に、要領よく話をまとめることなどできるはずもなく、結局は、宰相様の問に答える形での事情説明となった。
その間、僕は、終始視線を床に落としたまま答えていた。グレン様をあのような目に合わせた僕が、殿下のお顔など見られるわけがない。
許可なく国王陛下方と目を合わせてはいけないというしきたりがあってよかった、なんてそんなくだらないことをぼんやりと思った。
宰相様の的確な質問のおかげで、僕が知っている情報のほとんどをお話することができ、永遠にも感じられた尋問は、客観的にはそう長い時間を経ることなく終わった。分からないことは分からないとだけ答えればよかったし、分かっていることは客観的に事実を伝えればよかった。
だから、ただ一つの質問を除いて、僕が答えられないものはなかった。
「グレン・アルコットが戦闘の末に意識不明とのことだが、原因は分かるか?」
そう問われた時だけ、僕は、はいともいいえとも答えられなかった。
そんな僕に、殿下がどのような反応を示していたかも分からない。
尋問が終わった後、首元にたらりとした液体の流れる感触があって初めて、今はない首輪を手で掴もうとして、せっかく塞がりかけていた首元の傷を指で抉ってしまっていたことに気付いた。
尋問を終えた後、僕が向かったのは、もちろん、グレン様が集中治療を受けていらっしゃる病室の傍だった。
グレン様の腹に空いた大穴は、身体の主要な血管の一部を破っていたらしく、グレン様の体からは大量の魔力と血が失われている。
他人の魔力が毒になるこの世界において、回復魔法で細胞を活性化させ、比較的容易に治るはずである「怪我」が恐れられているのは、補充することのできない血を失えば、傷が塞がってもそのまま亡くなるケースが多いからだ。
今のグレン様が、まだ命が繋がっていることが奇跡的だというくらいに非常に危うい状況だということは分かっていた。そして、通常であれば、そのわずかな奇跡は看取りの時間として使われることも。
でも小姓契約をしている僕がいるグレン様ならば違うかもしれない。
グレン様の魔力に溶け込むことのできる僕の血であれば、提供できるかもしれない。
不衛生なままふらふらと病室に入ろうとする僕は、当然のことながら立ち入り禁止を命じられ、その場で「どうして!」などと喚いたことから、病室の前で待機していた師匠に無理矢理に病棟の外の人のいないところまで連れていかれた。
師匠の前で遠慮はいらない。と、考えたことをそのまま話せば、師匠には、「うー」とか「あー」とか呻かれた挙句、「聞かなかったことにする、しかねぇな」などと言われた。
「なんでですか!?グレン様が助かるかもしれないんです!試してもらえませんか!?」
「落ち着け、エル。お前、今自分が言ってること分かってるか?小姓契約は禁忌とされてるんだ。そのことは、研究者でもある俺たちなら知ってる。今の世で言われている小姓と、かつての世で小姓と呼ばれているものが違うってことくらいはな。でもよ、その理由は知らないんだぞ。自分の魔力に他人の魔力を馴染ませる……そんな禁忌情報をおいそれと口にすんな」
「そんなこと言ってる場合なんですか!?グレン様が助かる方法が……!現実的な方法がここにあるかもしれないんですよ!?」
ほら、と震える指で僕の体を指示しても、師匠が頑なに首を横に振るだけだ。
僕はたまらず、師匠の体を両手の拳で何度も叩きながら、絶叫した。
「どうして!?グレン様っ!グレン様、僕のせいで死んじゃうかもしれないのに……!」
「お前のせいじゃない」
「僕のせいなんです!」
耐えられなくなった僕は堰切って、あの時に起ったこと、僕がそれを元に考えたことを師匠にぶちまけた。
しかし、それでも、師匠は、頑として首を縦に振ってくれなかった。
「なんで……?どうしてダメなんです!?」
「それが本当だったとしても、いや、本当だったとしたら、余計に、それが彼の選んだ道ってことだ。お前のせいじゃない」
「でもっ、僕、そんなこと知ってたら――」
僕が口を戦慄かせると、師匠は、いっそ冷たくも聞こえる声で僕を遮った。
「知ってたら、なんだ?片割れを破壊しに行かずに、この王都の民全てを犠牲にしてたってか?もしくはお前のご主人様をあの化け物の本体に食わせてたってか?」
「それはっ………!」
「聞け、エル。彼は言っていたんだぞ。『なにもかも想定通りだ』ってな」
「え……?」
師匠の話では、確かに、あの時何が起こったのか、周りの誰もすぐには分からなかったらしい。
グレン様の目の前にいる化け物は、僕とヨンサムがいなくなった後のグレン様の猛攻により、身体の大半を回復する間もなく削がれていき、本体と思しき赤黒い小さな核がむき出しになっていた。
そしてグレン様は、それをその状態のまま、何かの空間に圧縮して閉じ込め、それを維持し始めた。
それには多大な魔力と繊細な調整と壮絶な集中力が必要になったのだろう、グレン様の顔色はどんどん悪くなっていたが、グレン様はそれを止めなかった。
これをこの段階で壊しても意味がなく、むしろ別の場所で発生させ、取り返しのつかないことになるからと。
「目の前で固定させたら、後は小姓を信じるしかない。大丈夫、あいつならやってきますよ、だってこの僕の小姓ですから」
――そう、冷や汗の浮かぶ顔にいつものような飄々とした笑顔を浮かべて言ったのだと。
果たしてその時は訪れた。
グレン様が縛っていた小さな核が急速にその空間を破壊しようと激しく暴れ始め、グレン様がそれを押さえつけ、そして核が白光したその瞬間、グレン様は、持っていた刀らしき武器で化け物の核を刺し貫いた。
そして、その核が砕け散った直後、グレン様の背中から大きな棘のようなものが生えた。
生えたように見えたが、正確には、生えたのではなく、腹の手前から背中に向かって長く、鋭い角のような、棘のようなものが刺し貫いたのだと、いう。
それはほんの一瞬の出来事で、次の瞬間にはその棘は消えてなくなっていたけれど、グレン様は血を吐いてその場に倒れた。
真っ先に飛び出したのは、イアン様で、その後に師匠が続き、急いで止血を始めた。
グレン様は、真っ青になるイアン様に対して、『なにもかも想定通りだよ。だから騒がないでいい。あいつにもそう伝えて』――そう言って、意識を失ったのだという。
イアン様も混乱していたし、何より思ったよりも早くに到着してグレン様の惨状を見てしまった僕が錯乱したので、その場では伝えられなかったのだろう、と。
その話を聞き終わった頃、グレン様の緊急手当ては終わった。
一応出血は止まったとのことだけれども、それはもう今のこの国の医療技術ではこれ以上の手を尽くせないところまでやったから終えたにすぎず、なんとかまだ命を繋いでいるとはいえ、予断を許さない状況にあることは分かった。
持ち直せるところまでは全く至っておらず、今すぐ亡くなるかもしれない命が辛うじて細い糸でつながっているだけの状態であると、そう言われた。
グレン様は意識も戻らないまま、集中管理を続けられている。
それだけ伝えられて、僕は師匠から病棟に立ち入ることすら禁じられ、追い払われたのだ。
 




