10 小姓に逃げ場はございません
ごりごりごりごり……
「おーい」
ゴリゴリゴリ……
「おーい、エル」
ぐるぐるぐるぐる……
「エル!おいってば!」
「はっ!何か用、リッツ?」
乳棒を回す手を止めて顔を上げると、二階の書庫から下りてきたリッツが呆れ顔でこっちを見ていることに気付く。リッツは、抱えていた図鑑と数冊の文献を机の上に置いて僕の手元を指さした。
「ベデジャンの実のすりつぶしはそんなもんでいいんじゃねーの?そろそろ固着剤の方はできてるし、造血剤の方は既に煮だってる。そろそろ入れ時」
「げ。やば」
鎮痛剤の元になる実を割って混ざる程度に細かくするつもりが、ついつい粉塵になるまで磨り潰していたらしい。リッツが僕に指摘してくれなければ、同時進行で作っていた造血剤と固着剤をダメにするところだった。
「集中するにも程があんじゃね?」
「集中って言うか……やり場のない怨念をこれにぶつけてた」
「やり場のない怨念……?怨念って対象が明確なものじゃ――?」
「まぁいろいろあるんだよ。ありがと、助かった」
薬剤をかき混ぜ、体が覚えるままに作業を進めてから、固着剤以外を保冷庫に保管する。
よく使う薬は僕たち獣医師志望にとっては仕事の必須道具だが、授業で使う分以外は支給されない。勝手に野生動物を診察する僕や、学園から仕事を受けているリッツなんかは薬剤を切らすわけにはいかないから、よくこうやって時間を見つけて補充している。
ここは、獣医師志望課特別研究室だ。その名の通り、特別課の獣医師志望課学生が研究用に使うことを認められている部屋で、二階に獣医関係の本――動物や魔獣の生体図鑑、魔法関係の文献、他国の医術書など――がある書庫があり、一階が研究室になっている。
「リッツ、呪術系の文献はこれで全部?」
「ここにあるのはこれで全部だけみてーだなー」
「じゃ、資料探しに入りまーす」
ここのところ、僕は雑念など消し飛ぶくらい忙しい毎日を送っている。
グレン様のお世話をしつつ、毎日の訓練をこなし、宮廷獣医師試験で提出必須の論文(ピギーの成長日記こと『翼竜幼体の生育観察及び幼体の知能習得についての考察』)を仕上げた。
小姓として命じられた呪術の解析についてももちろんやっている。ちょうど今、リッツが国家試験用に作成するのが呪術についてのレポートだと聞いて、便乗して調査を進めているところだ。ちなみに、小姓のお仕事内容自体は他言無用の国家機密にあたるので、僕が僕の目的で調べていることなど知らないリッツは、単に借金の利子返済の代わりの労働提供だと思ってくれている。利子ってところが抜け目ないよね。
「利子の分だけきっちり働いてくれー……と、言いたいところだけど、お前今日も夜、ヨンサムと自主練すんだろ?」
「あ、うん。その予定」
「じゃー無理しすぎんなよ。とりあえずそれ読むのはこれ飲んでから」
ぽいっとこっちに放られて反射的にキャッチしたのは、果実や薬草を混ぜて作られた栄養ドリンクのボトルだった。それも、果物成分が多くて飲みやすい甘いジュースのような高級品だ。
「えっと?」
「後でお前に倒れられて賠償とかさせられて損するのやだってゆー理由から俺のおごりー」
「そ、そんな……守銭奴リッツが……明日はきっとカンカン照りの――」
「返せ?」
「リッツ様太っ腹!ありがたくいただきますっ!」
ごきゅごきゅとそれを一気飲みする間に、僕がヨンサムと自主練する羽目になっている半月前の出来事を思い返す。
#######
「大会……学園選抜大会のことですよね?」
「顔の横についたその穴は、筒をいれるための節穴なんじゃないかと疑いたくなる耳の悪さだ。それとも問題は中身?」
にっこりと可愛らしく笑うグレン様に対し、事態を飲み込んだ僕はすかさず叫んだ。
「特殊課でなんの対策も訓練もしていない僕が本戦に残るなんて不可能です!」
ヨンサムが本腰入れて特訓している例の大会なのだ。グレン様やイアン様は既に要職に就かれているから出ないけれど、それでも全生徒参加可能だから、同年騎士課では五指に入るヨンサムよりも強い相手だって当然参加するし、魔術師志望の有能株だって参戦する。その彼らは、先日から学園が休暇に入ったせいもあって寝食を忘れる勢いで訓練中だ。
つまり実力差が開く一方というわけ。
「だ、大体ですね。僕はその数月後に大事な大事な宮廷獣医師の国家試験を控えていて――」
「勘違いしてない?僕は『お前から対価を受ける権利』を行使しているだけだ。本来なら別にこんな条件をつけなくてもいいのに、優しい僕の温情でつけてあげているだけ。無理なら諦めて大人しく僕の要求をのめばいいじゃない?」
ぐっと言葉に詰まる。
そりゃあね、正論だよ。正論。
小姓になった時だってそうだけど、割に合わないことを度外視すれば、僕とグレン様の今の状況は全部「取引」によるものなのだ。貴族位が格上であるという、貴族にとって一番便利な圧力を使って一方的に命じられたことはない。選択の余地が与えられているという意味だけで言うなら、この方のやり方は貴族らしくなくフェアなものだ。
だから正論だってことは理性では分かってるんだけど、それでもあんまりな横暴ぶりにふつふつと怒りが湧いてくる。
昨日までのもやもやとした妙な気まずさなど、なんの夢物語だったのかな?と思ってしまうくらい、目の前の人物に殺意が湧く。
それを分かってだろう、グレン様は獲物をいたぶる勝者の笑みを見せた。
これは、この方が相手を挑発する時にもする顔だ。
「そうだ、いいことを教えておいてあげる。僕の婚約者が誰になるかは社交界の注目の的だ。ちょうど学園大会予選のすぐ後にあるその婚約者候補の選定会は、婚約者のお披露目も兼ねててね?僕が最終決定をすることになってるから、ご令嬢方はまるで肉食獣のように真剣なんじゃないかな。その渦中に、わざわざ僕が連れてきた相手として放り込まれるんだから針の筵になることは請けあいだね。特にお前の貴族位からしたら大揉めに揉めることは目に見えてる」
「……それでも僕にさせるの、ですか?」
「だから昨日言ったでしょ?『お前は女だ』ってさ」
あれはただ生贄を選定するためのセリフだったのか!僕が悩んだ時間を返せ今すぐ!
「別に僕はどっちでもいいんだよ?チャンスを生かす機会を放棄しても、どうしても」
「出ます……!出て勝ち上がってみせますとも!!」
僕の返答に、グレン様は部屋に掛けている時計を見上げ、わざとらしく驚いた表情を作った。
「わぁーもうこんな時間かー。確か受付の締め切りまであと半刻分だったんじゃないかなーまぁ今日までぐずぐずしてる出場者なんていないだろうから関係ないかー」
半刻だと!?
申請書を書いて学生部に持っていくことを考えたらギリギリの時間だ。
この方のことだ。あえてこのタイミングまで言わなかった疑いが色濃い。いや、どう見ても、わざとだ。口をぱかりと開けているけど、目がにやにやと笑ってるから僕にはわかる。
「―――っ!ご忠告どうもありがとうございましたぁ!」
「せいぜい僕を楽しませてね」
ひくひくと口角をひきつらせながらお礼を言い捨てて、僕はグレン様の部屋を飛び出た。
やってやろうじゃないかこの野郎!
######
というわけで僕は急遽、大会に出場することになったわけです。
大会に出場することと本戦までは行きたいことを最初にヨンサムとリッツに伝えたとき、ヨンサムには全く相手にされなかったし、リッツの方には大笑いされて「無謀ー」とばっさり切って捨てられた。
まぁそれでも、なんだかんだ二人は優しい。
リッツはこうやって気遣ってくれるし、本気で上位を目指すヨンサムはそんな暇があれば寝たいだろうに、夜、自分の訓練の合間に僕の剣術と武術の稽古に付き合ってくれている。実力差がありすぎて、僕じゃヨンサムの相手にはなれないから、あくまで稽古をつけてもらっている感じになるのが申し訳なくなるくらいだ。
……本当に、僕に勝てる可能性なんてあるんだろうか。自分が勝ちあがる未来なんて全く思い浮かばなくてため息が出て来る。
こうやって考えれば考えるほど協力してくれてる友人二人の優しさに涙が出そうだ。そして思い出さなくてもご主人様には殺意が湧くわ。――いけないいけない。文献に集中しなきゃ。
積み重なった文献のページをざっと眺め、呪術の中でも主に操作系を中心に紙に書きだす。考察をするときは資料と文献を照らし合わせてにらめっこをし、検証実験がなければ分からない所はその旨を付け加える。
僕とリッツしかいない部屋の中、ただただ紙を捲る音と、かりかりと羽ペンの動かす音だけが響く。
どのくらいか経ってふと顔を上げると、チコが、僕がさきほど飲み終わった栄養ドリンクの瓶を前脚で押さえて中に尖った黒いぽち鼻を突っ込んでいた。
チコ、いい匂いがするのは分かるけど、体をぷるぷると震わせるほど頑張ってもそれ以上舌は伸びないし、中身も出てこないと思う。
「チコ。それ以外の瓶は絶対舐めちゃだめだよ?」
「きゅうううー」
「食いしん坊ネズミには必要ない忠告じゃねー?」
「確かに」
奥に少し残った中身を舐めようとしているようなので、滴が落ちて来るように少し瓶を傾けてやる。
落ちてきた滴を舐めても満足できなかったのか、チコは、仰向けになると、小さい両手両足で瓶をお腹の上に抱えるようにしてその恰好のまま中身に舌を伸ばした。この体勢は海で一度見たことがあるラッコという動物そっくりだ。
あまりに可愛くて顔をほころばせていると、リッツも顔を上げてチコを見た。
「なんつーか。魔獣っぽくないよなーこのネズミ」
「そう?」
「人前で腹見せるって野生動物としてどーなのよ?認可魔獣でも見たことない体勢じゃねー?」
「は、はははは。僕と長く一緒にいることで人間への警戒心が薄まってるのかも……」
「お前は動物に異様に気に入られてるもんなー」
そういえば最近森に入る余裕もなかったな。動物さんたちは元気だろうか。
誰か大怪我とか、大病で苦しんでいないだろうか……
考えたら気が気じゃなくて、文献に手がつかなくなった。
「リッツ、僕ちょっと外出て来るね!」
「おーう」
チコが瓶から離れて僕のポケットにするりと入ったのを確認してから、僕は久々に学園の森に遊びに行くことにした。
 




