27 小姓の長い一日が始まるのです
僕が、間もなくやってくるであろう未来で僕の貞操が守られる展望が見えないという絶望感に打ち震えていると、さっき僕を抱きしめてくれたふわふわボンキュッボンのお姉さんが突然可愛い声で、「あらまー震えちゃって。みんなごめん、あたし、ちょっとこの子を風にあたらせてくるね~」などと言いだした。
「えっ、あの、僕は……っ」
「いいからいいから。おねぇさんにまっかせなさーい!」
お姉さんは僕を立たせた後、細身の体に似合わない力で僕の背中をぐいぐいと押してきた。
学園の中のランクでは貧弱でも、一応進級もしてて、剣も振れる程度には、貴族男子としての訓練を積んできた僕だ。風が吹けば飛ばされてしまいそうなこんな細い(一部除く)お姉さんを無理に押し返して怪我でもさせようもんなら責任は取れない。
結局、僕は、なんだかんだ、女性たちが集まった壁の影になるところまで、半ば無理矢理連れてこられてしまった。
お姉さんはそこで僕に向き直ると、僕の両腕を掴んで、僕の顔を正面からじっと見た。
近くで見ると、ぱっちりとした目の上が青い染料で塗られて、目元にかなり派手なお化粧を施していることが分かる。
いや、お姉さんのお化粧を観察してる場合じゃない。入りたくはないが、ここで約束の刻限を逃して入れなかったらもっと大変なことになる。仮にうまく入れたとしても、二人だけだと余計目立ってしまうかもしれないし……!
「あのっ、僕大丈夫ですから!」
「大丈夫じゃないでしょ?緊張しっぱなしのくせにぃ。話に聞いてたとおりね~。強がりなんだなぁ、妹ちゃんは」
「いも……えっ……!?」
お姉さんは、さっきまでの、どこか気だるく甘ったるい話し方を急にやめ、いたずらっぽく片目をつぶってきた。
「安心して。あたし、ユージーンの仕事仲間なの。名前は――うーん。ここではお互いの名前なんか使わないし、うっかり名前呼んじゃっても不自然だから、内緒ってことで」
「あ、兄様の?えっと、妹って……!」
急な展開に対応が思いつかず目を白黒させていると、「あー大丈夫大丈夫」とお姉さんは軽く手を振った。
「あたし、ユージーンの妹ちゃんがどういうところで働いてて、どういう目的で入るかとか、なんで妹ちゃんが僕を名乗ってるかとか、興味ないんだ。あたしの仕事は、あなたをこの大聖堂の中まで連れて行って、中であなたが一人になれるような状況を作り出すこと。それ以上でもそれ以下でもないよ」
「それが、兄様から言われているあなたのお仕事なんですか?」
「そ。依頼主はユージーンしか知らないから、あたしはしーらない。あたしは自分の取り分がもらえればそれでいいんだ。下手な情報持ってたら逆に危険だし」
「あの、あそこにいる他の人たちは、まさかみんな僕のために?」
「まっさかぁ。要員はあたしだけよ。他の子たちは本物の踊り子さん。だから期待しちゃだめよ……あ。最初に言っておくけど、あたし、平民だから魔法は使えないし、護身も武術もからっきしだから、護衛だとは思わないでね」
お姉さんは腰に置いた細い二の腕をぺんと叩いて見せた。その細腕で実は暗殺者だったとか言われたら僕は人間不信になりそうです。
「それは自分でなんとかします。でも、お姉さんは大丈夫なんですか、その……中で」
「うまく逃げてやるわよー。こういうお仕事はこれまでもないわけじゃなかったし。過去最高にスリル満点なのは否定しないけどね」
「僕、中でお姉さんとは離れることになるだろうし、何かあってもお姉さんを守ることは多分できないです」
「へーきよ、あのユージーンがなんか考えているみたいな様子だったから、心配しないで。あなたはあなたのやるべきことだけを考えてって」
兄様に仕事を頼んだのは、十中八九、僕のご主人様だ。
ということは、グレン様もさすがに僕を魔物の巣窟に投げ込んで盛大なお仕置きがしたい、というわけではないらしい(全くないわけではない気もするのが怖い)。
あー肝が冷えた。
とはいえ、サポートがあるのは心強い。
「分かりました。すみませんが、どうぞお願いします」
「はーい。そうと決まったら、さっさと作戦だけ練って戻りましょっか」
僕が頭を下げると、お姉さんはこれまた軽い感じで、安っぽい耳飾りを手で撫でるようにしてから、にかっと白い歯を見せた。
お姉さんとほんの少し打ち合わせをしてから、元居た場所に戻り、それほど間を置かずに、大聖堂の裏門は開かれた。
これだけの人数を(それも全く正当でない理由で)通すのだから、なんだかんだ緩い検査なんじゃないのと思いきや、当然のように魔力検査や手荷物検査がなされ、合言葉での確認まであった。しかも、合言葉はなんと一人一人別のものだということも分かった。
今日は一人も出なかったが、これまでもこの噂を聞きつけて、その機会に大聖堂に忍び込もうとした者たちはいたらしく、その者たちはこぞって、この検査で引っかかったそうだ。引っかかった途端に捕えられ、その後の行方は知れないのだという。恐ろしい話だ。
僕は恐怖耐性が鍛えられていたおかげか、合言葉を間違えることもなかったし、検査をされるときも内心の冷や汗やら絶叫やらを押し殺して涼しい顔をしていられた。
魔獣であるチコはどうなるんだろう、と思ったが、なんとチコは、教会士の目を盗み、大胆にも、大聖堂の排気孔らしきところに身体を滑り込ませていた。
チコにつけられたあの赤いリボンにも僕の首輪と同じような機能が追加されているのかもしれない。今のチコなら僕よりずっと優秀な密偵になれるんじゃないかという気がする。
そうこうしているうちに、僕たち全員の検査は終わり、全員が裏口から大聖堂内に通された。
さぁ、魔窟に入ったぞ。ここから無事に生きて出られるかは、まさに、神のみぞ知る、というやつだ。
######
裏口から入った教会内は、どうやら教会士たちの生活区に直結しているらしい。
外からは円柱状に見えた建物だが、中の構造はくり抜き型なのか、階段やら壁やらで区切られていて、一つの階にたくさんの部屋があるように見えた。
廊下にはわずかな明かりしかなく、薄暗い。
もっと嫌なのは、階段をそれなりの階数下りたにもかかわらず、少なくとも目に見える各階の様子が全部同じだったことだ。それはつまり、階層ごとに全く同じ区切りになっているということ。中から出入り口まで戻るまでに同じ道を通ろうと思っても、混乱しやすく、つくづく侵入者に優しくない構造だった。侵入者に優しい造りをするところなんてないか。
どれくらい歩いただろうか、かなり内部まで歩いた気がする。
脱出の道を覚えようとしていたのと、初めて見た光景が珍しかったことで、僕がきょろきょろとしていると、僕たちを連れていく警備の教会士の一人が「こら、さっさと歩け」と言って僕を小突き、僕はよろめいた。
「ごめんなさいね、お兄さん。この子、緊張しちゃってるらしいの」
その機会を逃さず、例の協力者だというお姉さんが僕の肩を支えるように持ち、とんとん、と僕の肩の上で指を滑らせた。
間もなく、下品な宴の部屋に到着するだろう、という合図だ。よし。
「う、うぇええええ」
「げっ、お前、何してるんだ!」
「あーきんちょーしすぎちゃったのねぇ」
僕は唐突に座り込んで口元をベールと貫頭衣の端で覆った。
しかし、それでも口の端からたらりとわずかに漏れてしまったピンクっぽい透明な粘液が聖堂内の床に零れ、泡を含んで少し白っぽく濁った水たまりを作る。
それを見たお姉さんは、すかさず隣に座り込んで背中を擦ってくれ、警備の教会士は、ちっと盛大に舌打ちをした。
「こんなとこで吐くな!」
「しょーがないじゃない、まだ年端もいかない子なんだもの」
もちろん、僕が本当に胃の中のものをぶちまけたわけではない。
もともと、お昼に黒づくめに襲われた時から、武器らしい武器は持っていなかった僕が荷物として目立って持っていたものと言えば、先ほど新入りへの手向けとしてお姉さんたちがくれたピンク色の粘性の液体くらいだ。
その用途から、舐めても安心なものなので、決して飲み込まないようにしながら口を覆った袖口から口に含ませ、泡立たせてから、口の端から零して見せたというわけ。
ベールに貫頭衣、という姿なのも誤魔化すのに役立った。
お姉さんの言葉に、裏口に入る前のやり取りで僕について大いなる誤解しているらしい踊り子のお姉さんたちも次々に加勢してくれる。
「そんなに責めないでやってよぅ」
「その子、今日がはじめてだっていってたもの」
「そうよ、あたしたちが先にお相手するからさ――」
「えぇい、仕方ない。おいお前、ここにいて片付けていろ!他の者は先に行くぞ!」
「ちょっとちょっと、お兄さん、お手洗いの場所くらい教えてあげないと。この子また吐いちゃうかもよ。ほら、顔色も真っ青だし」
僕の頬は、薄暗い廊下でも分かるくらい、青くなっていた。それはもう不自然なくらいに。
もし警備の教会士の男が、僕の顔をまじまじと正面から見れば、その頬が不自然に青くなっていて、キラキラ光っていることに気付いただろう。お姉さんの目の上の化粧が一部取れていることにも気づいたかもしれない。
しかし、廊下が薄暗かったこともあってか、終始イライラしているこの男がそれに気づくことはなかった。
「仕方ねぇな。おい小僧、便所はあっちだ。それ以上奥に行ったら命はないぞ」
「は、はい……」
「女、お前は坊主の相手をしている場合じゃないだろ、さっさと来い」
「はぁーい」
協力者のお姉さんは立ち上がると、僕の方を見て、「幸運を祈るわ」と言わんばかりに片目をつぶると、男たちの後に続いていった。
悪友たちの話を聞いて思いついた即席の作戦とはいえ、上手くいってよかった。
今回の作戦は、お姉さんと打ち合わせをしたときに出来たものだった。
教会士たちのことを散々気持ち悪い、吐きそうだと罵っていた僕に対して、お姉さんが、「じゃあいっそ吐いちゃえばいいんじゃない?」と言ってきたのだ。
そこで手に持っていた贈り物を見て、かつて、親愛なる悪友たちが、「この素敵なピンクの液体は本当に匂いどおりに甘いのか?」を確かめるため、「飲み比べ」をして、さすがに飲めないと気づき、盛大にえづくという阿呆をしていた、という記憶を思い出した。彼らのアホも役立ったというわけだ。
「チコ」
「きゅっ」
僕が小さく声を出すと、さっきまでどこかにいたはずのチコがすぐさま僕の近くにやって来た。僕が零したこの液体は、その用途ゆえ、甘い匂いがするものだから、遠い王城にいても町中にいる僕の匂いを嗅ぎ分けられるほどの嗅覚を持つチコが、この廊下内で僕の居場所に気付けないわけがない。
「チコ、進むべき怪しい匂いのする方向って分かる?」
「きゅ」
こんな曖昧なお願いでも、チコは迷いなく廊下を駆けていくので、僕も音を立てないぎりぎりの小走りで後を追った。
その際、グレン様の荷物に入っていた小さな紙きれを同じような間隔になるように壁に貼っていく。
その小さな紙きれは、グレン様が僕に持たせた貫頭衣と一緒に袋に入っていたもので、大聖堂内への潜入に成功したら中に貼るように言いつけられていたものだ。
一見ただの紙吹雪にしか見えないので、なにかの芸に使うものだと思われたらしく、手荷物検査も余裕で通過していた。
チコの後を追いかけ、いくつかジグザグと角を通り抜け、そのうち、少し開けたところが見えるようになったところで、チコが急に足を止めた。
「チコ?」
チコはきゅっといういつもの返事すらせずに、背中を丸めている。薄暗い中で目立つチコの背中が大きく丸まっていて、ぶるぶると明らかに震えていた。
そうか、ここなのか。
グレン様が僕に命じたものがここにあるのかは分からない。けど、先ほどから奥に向かうにつれて感じていた異様な雰囲気はここから発せられているとはっきり分かる。
何でと言われても分からないけども、肌の感覚、としか言いようがない。
「チコ、お前はここまで。グレン様のところに報告に行って」
グレン様は、無事に目的物を見つけられたらすぐさま外にチコを放つように命令されていた。
ちなみに、この約束を破ったら僕の手を一生ベッドの柱に縛り付けてやるって謎の言葉まで添えてあった。
なんであえてのベッドの柱なのか、一生ってそれ本気で言ってるのか――とか、深く考えると色んな意味で怖いので、いつもの脅し文句だと思って考えるのを辞めた。
僕がグレン様への合図になるよう、チコの首につけたリボンの結び目を変えようとするのに、チコはじたばたと暴れて僕から逃れようとする。
それどころか、僕の袖を引っ張って必死でここから離れさせようとしているようだ。
「チコ……だめなんだ。僕はここに入らなくちゃならない。だからお前だけでグレン様のところに行って、このことを伝えて」
「きゅう!きゅうきゅう!」
警戒音のような声で僕に危険を知らせるチコ。
でも僕は小姓として、ここに入らなければならない。
「お願い。チコが行ってくれないと助けが来ないかもしれないんだ。チコが行ってくれれば、僕もきっとちゃんと戻れる」
「きゅぅ……」
「グレン様はなんだかんだ、約束を破ったことはないでしょ?だからきっと、何かあったら助けてくれるよ」
「きゅ……」
僕の固い決意を悟ってか、チコの白いふわふわな尻尾がだらんと力なく垂れる。耳もへにょんと下がっていて、しゅんとしている様子を見るとついほだされそうになっていけない。
チコはもう一度僕にうるうるとした黒いまん丸の瞳を向けてきたが、僕が頭を撫でて、「行って」と伝えると、僕の手をガブと一度甘噛みしてから、世闇に姿を消した。
無事に外に出られることを祈るしかない。
チコの後ろ姿を見送った僕は、その先に身体を向けた。
それだけで体がわけもなく震える。何かを怖がっているように、嫌がっているように。さっきのチコみたい。
でも、行かなきゃ。
目をつぶって足を踏み出すと、そこは円形の広間のような場所だった。
天井までは半円状にかなりの空洞があり、そこそこ広い空間になっている。
それなりの人数がここに集まることもできるくらいの広さだ。
地下深く、明かりもないのでかなり暗いが、中央部付近の天井からぼんやりとした光が見えた。どうやら天井の一部が天窓になっているらしい。昼間であればここまでお日様の光が届くのかもしれない。
よくよく目を凝らすと、中央付近に何かがいるのが分かる。
ごくりと、自然と涌き出る生唾を飲み込み、僕は広間の中央に見えるその物体に近づいていった。
近づくと段々、それが人――それも女性のような姿をしているのが見える。
なのになんでだろう、どうしてこんなに鳥肌が立つんだろう。胸がざわざわするんだろう。
これは武者震い、武者震い。
足が震えるのは、夜ご飯を食べてなくて力が出ていないからだ、きっと。
気休めのようなことを頭に思い浮かべながら、僕は立ち止まろうとする本能と戦って足を進め、そしてとうとう、ソレの前にやってきた。
間近でソレ――いや、椅子の上に座った若い女性を見て、僕は叫び声をあげそうになった。
その顔は、その顔は―――――
「おや、こんなところに一匹、ネズミが忍び込んだようだな」
急に円形の空間を支える外側の柱のそれぞれの灯篭が灯って、あたりが明るくなる。
「いかんな、明日は第二王子妃殿下のご結婚祭だというのに寝不足になってしまうではないか」
僕が固まったままでいると、その声の主らしき人物が、僕と中央の女性のところまでやってくる気配がした。
この半教会派を極めた僕ですら、その声を聞いたことがある。
年始、年末、戴冠、祝祭――国の大きな行事では、必ず出て来て、お言葉を述べるこの声の主は、さすがの僕でも知っている。
「教皇……」
「ほほう、君は」
漏らすような僕の言葉に、白髪頭の一見優しそうな――けれど目の奥はいつも全く笑っていない老年の男が僕を興味深げに見る気配がした。「これはこれは」と含みのある言葉すらも発した。
それなのに、僕の目は、目の前の少女らしきモノから離せない。
「どうして……」
「うん?」
「どうしてここに、どうしてこの、この女の子は――――!」
「どうしたんだい?言ってごらん」
「この女の子は、僕の友人のリッツと瓜二つの顔をしているんですか……!」
ぼんやりと開いた意思を感じさせない目は深緑色。
長いまっすぐの黒髪は、束ねられることもなく床に無造作に広がっている。
背中は椅子にだらりともたれ掛かっていて、目は、僕にも教皇にも向けられず、どこか明後日の方向に向けられていた。
深緑色の目は、何か恐ろしい空洞のような、人間さの感じられないものなのに、その顔は、
どこからどう見ても、僕の友人のリッツと瓜二つだった。
第5章、終わり。
6章の予定は活動報告の方で。




