第8話 冷たい照会文と、すり替えられた茶葉
翌朝。
クラリス・ベルモンドは、学院購買係の窓口に立っていた。
隣には、いつものようにリディア・フォルクレアがいる。
ただし今日は、茶会でも、面談でも、礼法の確認でもない。
商売の場だ。
そして商売の場である以上、クラリスは昨日までのように、ただ扇で口元を隠している令嬢ではいられなかった。
「ベルモンド商会の納入品について、品質確認の申し立てがあったと伺いました」
クラリスは、丁寧に言った。
声は穏やかだった。
しかし、背筋はまっすぐだった。
購買係の窓口に座る男性職員、エリアス・ヴェントは、眼鏡の奥で少しだけ目を細めた。
三十代半ばほどの、整った顔立ちの男だった。
制服に乱れはない。
机の上の書類も整っている。
だが、その整い方が、クラリスには少し気に入らなかった。
見せるために整えた机。
必要なものがすぐ取れる机ではなく、乱れていないことを見せるための机。
「はい。規則に従い、次回納入予定の茶葉および紙類について、再審査が必要となりました」
「理由は?」
「一部納入品に、品質不良の疑いがあるとの申し立てがありました」
「具体的には?」
「香りの劣化、茶葉の混入、保管状態の不備です」
クラリスの指が、扇の柄を軽く押さえた。
香りの劣化。
茶葉の混入。
保管状態の不備。
商会の信用を傷つけるには、十分すぎる言葉だった。
「現品を確認させていただきます」
「それは、こちらで確認いたしますので」
「いいえ」
クラリスは、微笑んだ。
「品質確認の対象がベルモンド商会の納入品であるなら、納入元として立ち会う権利があります。少なくとも、学院と商会の取引記録上、異議申し立ての前に現品確認の機会は与えられるはずです」
エリアスの表情は崩れない。
「学生の方に倉庫をお見せするわけには」
「学生としてではありません」
クラリスは、持参した封筒を机に置いた。
「ベルモンド商会代表の代理確認者として参りました。父の署名入りです」
エリアスの眉が、ほんの少しだけ動いた。
クラリスは内心で息を吐く。
昨夜、父へ使いを出した。
返事は短かった。
――確認しろ。商会の名を守れ。
その下に、正式な委任文。
父らしい。
心配の言葉は少ない。
けれど、紙は早かった。
それだけで十分だった。
エリアスは委任状を確認し、ゆっくり頷いた。
「……分かりました。では、倉庫へご案内します。ただし、記録係を同席させます」
「もちろんです」
「そちらの方は?」
エリアスの視線がリディアへ向く。
リディアは、にこりと微笑んだ。
「お茶の香りを見に参りました」
「……香りを」
「はい」
エリアスは一瞬だけ返答に迷った。
クラリスはすぐに言う。
「フォルクレア様は立会人です。記録上、同席者としてお名前を残してください」
「承知しました」
エリアスは立ち上がる。
その仕草は丁寧だった。
購買係として、簡単に狼狽を見せるような男ではない。
だが、少しだけ硬い。
昨日の照会文と同じだ。
丁寧に見せようとして、急いで整えたもの。
クラリスは、リディアの横顔をちらりと見た。
リディアは、何も言わない。
ただ、廊下の奥へ向かうエリアスの背中を見ていた。
学院の購買倉庫は、西棟の裏手にあった。
厚い扉。
鍵束。
石造りの床。
茶葉、紙、インク、蝋燭、布、食器、清掃用具。
学院の華やかな茶会や授業を支えるものが、ここには黙って積み上げられている。
表舞台の礼法が白い手袋なら、倉庫はその裏側にある手のひらだ。
クラリスは、その匂いを嫌いではなかった。
乾いた木箱。
麻紐。
古い紙。
茶葉。
少し湿った石の匂い。
商会の倉庫と似ている。
「こちらです」
エリアスが、一つの棚の前で足を止めた。
そこには、ベルモンド商会の焼印が入った木箱が三つ並んでいた。
茶葉の納入箱だ。
クラリスは近づく前に、まず棚全体を見た。
一段目。
二段目。
湿気の逃げ方。
箱の向き。
日光の当たり方。
周囲の匂い。
そして、問題の箱。
「これが品質確認対象ですか」
「はい」
エリアスが一つの箱を示す。
「茶葉の香りが通常より鈍く、別の葉が混入している可能性があると」
クラリスは、箱に手を触れなかった。
まず、見た。
ラベルは本物。
ベルモンド商会の納品番号もある。
封蝋も、一見すると本物。
だが。
「……なるほど」
クラリスは、小さく呟いた。
「何か?」
エリアスが問う。
「いえ。開けてください」
「よろしいのですか?」
「ええ。記録係の前で」
同席していた若い記録係が、慌てて羽ペンを構えた。
エリアスが封を切る。
木箱の蓋が開いた瞬間、茶葉の香りが倉庫に広がった。
普通の者なら、十分に茶葉の香りだと思ったかもしれない。
だがクラリスは、眉を動かした。
ベルモンド商会の茶葉ではない。
少なくとも、箱に記された等級の茶葉ではない。
乾きすぎている葉が混じっている。
色も浅い。
香りの立ち方も鈍い。
安い葉を混ぜたか。
あるいは、保管状態の悪い葉を足したか。
リディアが、そっと箱を覗き込む。
「クラリスさん」
「何?」
「この茶葉、少し寂しい香りがしますわ」
「寂しい?」
「はい。本当は別の場所にいた葉を、無理にこの箱へ入れられたような」
エリアスが、微かに眉をひそめた。
「詩的な表現ですね」
「お茶は、居場所が違うと香りが落ち着きませんもの」
リディアは真面目に言った。
クラリスは、箱の縁を指でなぞった。
「エリアス様」
「はい」
「この箱は、納入時からこの状態でしたか」
「倉庫記録上は、そのように」
「倉庫記録上、ですか」
クラリスは、箱の麻紐を見る。
「うちの商会は、茶葉箱を閉じる時、麻紐を右下から通します」
エリアスが止まった。
「細かいですね」
「商売は細かいものです」
クラリスは微笑む。
「特に茶葉は湿気と混入が命取りですから。結び目の位置、封蝋の角度、ラベルの貼り方。すべて決まっています」
彼女は、問題の箱の結び目を指した。
「これは左上から通している」
記録係のペンが止まった。
エリアスは、すぐに言った。
「運搬中に結び直した可能性は」
「ありません」
「なぜ断言を?」
「結び直す必要があるほど紐が緩んでいたなら、運搬記録に残ります。うちはそのようにしている」
クラリスは、持参した控えを取り出した。
「こちらが納入時の控えです。運搬担当者名、箱番号、封印状態、受領者名。すべて記載されています」
エリアスの視線が、控えに落ちた。
表情は変わらない。
さすがに購買係を任されているだけはある。
簡単には崩れない。
だが、眼鏡の奥の目が、一瞬だけ控えから外れた。
クラリスは続ける。
「そして、封蝋」
彼女は箱の封蝋を指した。
「これは確かにベルモンド商会のものです。印も本物。けれど、端が曇っています」
「曇り?」
「ベルモンド商会の封蝋には、改ざん防止のために少しだけ灰白の樹脂を混ぜています。普通に割れば断面は粗くなる。温めて剥がそうとすると、端が白く曇る」
クラリスは、自分の小袋から小さな封蝋見本を取り出した。
「父の趣味です。面倒くさいでしょう?」
リディアが、ぱちりと瞬きをした。
「素敵ですわ」
「そう?」
「はい。汚される前提で備えている紙や蝋は、少し頼もしいです」
「……父が聞いたら喜ぶわね」
クラリスは少しだけ笑った。
すぐに表情を戻す。
「この封蝋は、一度温められています。つまり、箱は納入後に開けられた可能性が高い」
倉庫の空気が冷えた。
エリアスは、表情を崩さなかった。
「……失礼。少し、目が疲れましたかな」
そう言って眼鏡を外し、布でレンズを拭く。
仕草は丁寧だった。
職員として、令嬢たちの前で無様を晒すつもりはないのだろう。
だが、リディアはその手元を見ていた。
「クラリスさん」
「何?」
「眼鏡を拭く布が、少し震えておりますわ」
エリアスの手が、一瞬だけ止まった。
記録係も、思わず彼の手元を見る。
エリアスはすぐに眼鏡をかけ直し、何事もなかったように表情を整えた。
「失礼。倉庫は少し埃っぽいもので」
「ええ」
クラリスは微笑んだ。
「埃は、どこにでも溜まりますものね」
エリアスの声が少し低くなる。
「つまり、学院倉庫内で不正があったと?」
「可能性の話です」
クラリスは即答した。
「ベルモンド商会の品質不良を疑うなら、同じように倉庫内での開封、再封、すり替えも疑うべきでしょう。記録として公平であるために」
公平。
その言葉に、エリアスは黙った。
リディアは、箱の底を見ていた。
「クラリスさん」
「今度は何?」
「お茶の箱なのに、お茶ではない香りがします」
エリアスの顔が、ほんのわずかに強張った。
それでも、まだ崩れない。
クラリスはリディアを見る。
「どんな香り?」
「夜の沈丁花です」
倉庫の中が、一瞬だけ止まった。
夜の沈丁花。
旧温室。
ロザリンド。
白い手袋。
「それと」
リディアは、箱の内側の隅を指さす。
「少しだけ、焦げた紙の匂いも」
クラリスは、箱の底へ目を落とした。
茶葉の細かな粉が、隅に溜まっている。
その中に、黒い小さな欠片があった。
茶葉ではない。
紙片だ。
焦げた紙の端。
クラリスはそれを直接触らず、持参した小さな紙片取りで摘まんだ。
「記録係」
若い記録係がびくりとする。
「見たままを書いてください。茶葉箱の内側より、焦げた紙片らしきものを確認。ベルモンド商会代理確認者が直接触れず、紙片取りで取り上げた、と」
「は、はい」
エリアスは平静を保っていた。
「それは……倉庫内の塵かもしれません」
「そうですね」
クラリスは頷いた。
「ですから、確認しましょう」
「確認?」
「この箱が納入されてから、今日までに、誰がこの棚へ近づいたか。倉庫の入退室記録。鍵の貸出記録。品質申し立てを受けた日付と時刻。申し立てを行った者。現品確認をした者。すべて」
エリアスが沈黙した。
クラリスは、焦げた紙片を見つめる。
「焦って燃やしたのね」
「何を、でしょう」
エリアスの声は落ち着いていた。
だが、少しだけ間があった。
クラリスはそれを聞き逃さない。
「何かの下書きか、指示書か。燃やしきれなかった紙を、灰と一緒に雑に払った。たぶん、すり替えた茶葉箱の近くで」
彼女の声が、少しだけ冷えた。
「どうせ茶葉の粉に紛れると思ったのでしょう」
「推測が過ぎるのでは」
「ええ。推測です」
クラリスは微笑んだ。
「だから、記録と現物で確認します」
彼女は、焦げた紙片を専用の紙に包んだ。
「ただ、ひとつだけ確かなことがあります」
「何でしょう」
「うちの商品を、証拠隠しの屑入れにした者がいるかもしれない、ということです」
エリアスは黙った。
記録係の羽ペンが、かり、と紙を引っ掻く音だけが響く。
クラリスは、扇を開いた。
「品質審査をしましょう。もちろん、ベルモンド商会の茶葉も審査対象です」
彼女は、ゆっくり微笑んだ。
「ただし、審査されるのは茶葉だけではありません。この倉庫の管理記録もです」
記録係の喉が鳴る音がした。
リディアは、箱の中を見て少し悲しそうにしている。
「せっかくのお茶が、かわいそうですわ」
「今回は、さすがにお茶がかわいそうで合っているわ」
クラリスは静かに言った。
エリアスは表情を整えようとしていた。
だが、昨日の照会文と同じだった。
丁寧に見せようとして、少しだけ急いでいる。
「ベルモンド様」
彼は言った。
「この件は、購買係内で改めて確認いたします」
「いいえ」
クラリスは即座に返した。
「学院長補佐にも報告します。品質確認の申し立てが正式文書で出された以上、こちらも正式な確認記録を残します」
「しかし」
「それと、記録係の方」
クラリスは、若い記録係へ視線を向けた。
「はいっ」
「今の確認事項に加えて、ベルモンド商会は本件について、品質確認の差し戻しに伴う納入遅延、信用毀損、および再検品費用の算定を留保する、と記録してください」
エリアスの眼鏡の奥が、わずかに揺れた。
「それは、学院に対する請求の示唆ですか」
「いいえ」
クラリスは微笑んだ。
「事実関係が確定するまで、誰に請求するかは決めません」
倉庫の空気が、さらに冷えた。
「ただ、損害は消えませんもの」
クラリスは、箱の中の茶葉を見た。
「うちの商品に泥を塗るなら」
声が、少しだけ低くなる。
「その泥がどこから来たのかまで確認させてもらいます」
エリアスは、何も言わなかった。
その沈黙は、肯定ではない。
だが、反論でもなかった。
クラリスは箱をもう一度見た。
ベルモンド商会の焼印。
本物のラベル。
曇った封蝋。
左上から通された麻紐。
安い葉の混入。
夜の沈丁花。
焦げた紙片。
証拠はまだ断片だ。
だが、断片は十分に鋭い。
「リディア」
「はい」
「この箱、まだ読める?」
リディアは首を傾げた。
それから、少しだけ微笑んだ。
「はい。かなり汚れていますけれど、まだ読めますわ」
「なら、読むわ」
クラリスは扇を閉じた。
「最後の行まで」
倉庫の窓から、午後の光が差し込んでいた。
茶葉の香りは濁っている。
けれど、濁った香りの中にこそ、混ぜられたものの正体は残る。
クラリスは、今度こそはっきり理解した。
ここは、リディアの茶会ではない。
ここは、ベルモンド商会の倉庫ではない。
けれど、これは自分の戦場だ。
商売は、信頼を紙にして積み上げるもの。
ならば、その紙を汚された時。
ベルモンド家の娘は、笑って引き下がるわけにはいかない。
「まずは入退室記録を」
クラリスは言った。
「それから、この箱に触れた全員の名前を確認します」
エリアスの眼鏡の奥が、わずかに揺れた。
リディアは、箱の隅を見つめている。
「クラリスさん」
「何?」
「この焦げた紙、少しだけ文字が残っています」
「文字?」
リディアは、紙片の端を指した。
黒く焦げた端の内側に、ほんのわずかに残った線。
文字の一部。
読めるほどではない。
けれど、それは確かに、飾り罫の一部に見えた。
クラリスは息を止める。
ルブラン工房の高級紙には、縁に薄い飾り罫が入る。
だが、この飾り罫は、それとは少し違う。
もっと細く、控えめで、見る者が見れば分かる程度に家紋の意匠を崩したもの。
ハートレイ家が私信に使う便箋の、端飾りに似ていた。
断定はしない。
まだ早い。
だが、道は見えた。
冷たい照会文。
すり替えられた茶葉。
焦げた紙片。
夜の沈丁花。
そして、焦げ残った飾り罫。
次に掃除すべき場所は、倉庫の棚だけではない。
誰かが焦って燃やした、その文面の中にある。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第8話は、クラリス主役の商会編でした。
ベルモンド商会への品質確認という形で、ロザリンド側の反撃が始まりました。
ただし、商売と納品はクラリスの領域です。
今回は、リディアが香りや焦げた紙片の違和感を拾い、クラリスが茶葉・封蝋・紐・記録で逃げ道を塞いでいく回でした。
エリアスも簡単には崩れない購買係ですが、封蝋、焦げた紙片、そして損害算定の記録で少しずつ逃げ場が狭まっています。
次回は、倉庫の入退室記録と、焦げた紙片に残った飾り罫から、誰がこの箱に触れたのかへ迫っていきます。
続きも読んでいただけると嬉しいです。




