10.龍瘴の森―南の魔物と西の何か―
木の実が宙を舞う。その小さくて硬い物体は重力を受けて降下し、そして飛び出てきた手の中に隠された。
誰もが、固唾を飲んで見守っている。特に、木の実を掴んだ妖怪の主の前に居る三体のコボルトは差し出された両手を注視し、どちらの手の中に木の実が隠されているか少しでもヒントを得よう一生懸命目を凝らす。
やがて、そのうちの一体が妖怪の主の右手を指した。続けてもう一体が左を、最後の一体が同じく左を指さす。
子女郎はその時、主の右手が微かに動いたのを見逃さなかった。つまり彼の意向は、ノーゲームだ。
三体の魔物と賭けの主催者を囲む面々の一部が、魔物の牙を木の枝で数珠状にした奇妙な楽器を用いて場を盛り上げ始める。音楽とは言い難い粗々しいものだが、緊張感を煽るには丁度良いだろう。
まず、左手が開けられる。そこに木の実はない。二体の魔物が悔しそうに吠え、残りの一体は飛び跳ねて勝利を表現した。
だが右手が開けられた瞬間、その勝利の昂揚は霧散した。右手にも、木の実は入っていなかったのである。その代わり、極小の何かの粉が薄く掌の上に広がっていた。その粉にコボルトが気付くより早く、男は木の実だったものを地面へと落とす。
「そう、争いってのは空しいもんなんだ。勝ったと思っても、より力を持ったものによって勝利は簡単に手から零れ落ちるもんなのさ」
「ぶー!ぶー!イカサマでありますよ。コボルトたちが可哀そうなのであります」
「ふっ、子女郎君。ばれなきゃイカサマじゃないんですよ」
「バレバレだったでありますし、あのような脳筋なイカサマ見たことないのでありますよ」
激化するコボルト同士での争いに対して主が打った手は、ギャンブルだった。もっとも、真剣に解決を試みたわけではなく、ただ彼が暇を持て余しすぎた果てに何となくコボルトたちを誘って始めただけなのだが。
しかし格差是正につながったかはともかく結果として、意外にもコボルトたちの不満が一時的に収まったのは事実だと認めざるを得ない。通貨が存在せず、狩りや収穫で得た成果が共有財産となるコボルトたちにギャンブルはあまり成立せず、ゲーム内容が単純に娯楽として楽しまれているのだ。
「とは言え、敗者にも勝者にも何もないのは主催者として忍びない。なので、頑張ったで賞として、俺お手製のサイコロを三人にプレゼントしようと思う」
そう言って男はボロボロのズボンのポケットからサイコロを取り出し、三体の魔物に一つずつ手渡しした。当然コボルトたちは、手渡された微妙に四角の物体が何に使われるのか知らない。だが魔物たちにとって大事なのは、群れの統率者から何か送られた事実なのだろう。三体とも、使えそうもないサイコロを持って狂喜の踊りを始める。
「そんなに喜ばれると、照れるな」
へへっ、と鼻の下を指の側面で擦る。魔物を仲間にする気はない、と突き放し気味に言葉にしていたのに、随分な変わり様だ。
そんな主のテレ顔を見て、腹心の女小狸も慈愛に満ちた優し気な笑みを湛えた。あの大目玉の魔物に男がドン引きしてからおおよそ三日、どことなく影のあった主が久しぶりに前向きな感情を発露させたのを見て、思わず零れたようだ。
その子女郎の隣へ、巨体が近づく。その姿を認めた妖狸は、軽く手を上げて挨拶をした。それが挨拶だと通じるくらいには、妖怪の主と子女郎と打ち解けているその大きな体躯の持ち主は、コボルトリーダーだ。未だ狩りには参加していないものの、普通に動いても問題ないくらいには回復したようだった。
「お、コボルトリーダー。お前もやるか?」
盛り上がっている場を指さし、次に己とコボルトリーダーを指さして男が問う。だが元首領は、頭を地面に近いところまで深々と下げて謝意を示す。ゲームを楽しむ気はないようだ。
「なんか真剣な顔だな。重要な用件があるのか?」
コボルトリーダーは男がしゃべり終わるのを待ってから自身の口をなぞり、そして全開に開けた。何か伝えたいことがある時に、行うアクションだ。それから元首領は夜になってますます暗澹とした森を、正確にはコボルトたちの巣のすぐ横を見やった。
「ここじゃ伝えにくいことなのか。分かった。あ、でも子女郎も一緒でいいよな?」
男が自分の側でコボルトリーダを見上げていた子女郎に人差し指を向け、次にその指をコボルトリーダーが見ていた洞窟の隣の方へと移動させる。
それを受けて子女郎は、つぶらな瞳をぱちぱちと瞬かせながら遠慮した。
「内密の話があるのなら、子女郎は待っているのでありますよ?」
「いやいや、俺とコボルトリーダーだけで正しく意思が伝わるだろうか?いや、伝わらない」
「無駄に自信満々に……では、コボルトリーダーが良いのであれば混ぜて頂くのであります」
コボルトリーダーとしても、男と一対一でのみ話したい訳ではないようで、すんなりと二人を指さしてから洞窟の隣を指した。
洞窟の隣は火元がないため、本当にまっ暗中でコボルトリーダーは立ち止まった。もっとも、妖怪やコボルトにとって暗さはさほど苦ではない。妖怪の主や子女郎にはコボルトリーダーの姿がはっきりと見えているし、そのコボルトリーダーも妖怪たちほどではないとはいえ、問題なく身振りで意思疎通を行えるくらいには見えている。
「さてさて、どんな話なのかな?」
立ち止まったコボルトリーダーに近寄り、その動きを見逃すまいと見つめる男だったが、元首領が身を屈めて切り株の上から鋭利に煌めく何かを手に取ったのを確認すると、小首を傾げた。
それは小さなナイフだ。闘いを挑む相棒としては、心もとない刃渡りの長さだろうそれを手に取ったコボルトリーダーは、何故かその刃を自らの肩に向けて勢いよく突き刺した。
「なっ……なにやってんの!?」
「…………」
妖怪の主は驚愕に目を見張って大声を上げ、子女郎は絶句する。しかしコボルトリーダーは涼しい顔でぽたぽたと血液を垂らす肩を手で叩き、それから未だに盛り上がりを見せているゲーム中のコボルトたちが居る場所に、血で染まった指を向けてそれを何度か弾ませた。
「ど、どういうことだ?何が言いたいのか、あんまり分からないんだが……」
コボルトリーダーが確固たる意志を持って何かを伝えようとしているのは、その態度と真剣さを見れば分かる。だが、肩を抉った決意も、流れる血も、コボルトリーダーの揺れない眼差しも、受け止めるには重すぎる、とどこかで感じていた。
自身の意思が伝っていないことを感じとったコボルトリーダーは、再び自らの肩を差そうとナイフを振りかぶる。それを慌てて男が止めてから、彼は子女郎に聞いた。自分にもちょっとした心当たりがあったのだが、子女郎の方がより正解に近いだろうと思ってのことだ。
「子女郎は、分かるか?コボルトリーダーが何を言いたいのかを」
「合っている自信はまったくないのでありますが……」
その言葉の通り、子女郎の声色は弱弱しい。ただ、彼女は彼女で懸念していることがあり、その懸念とコボルトリーダーの行動の意味するものが、そう遠くない気がしていた。
「もしかすると、怪我をしたコボルトたちが加速度的に増えていることを伝えたいのかもしれないのであります」
妖怪の主がコボルトたちに『従属登録』を行い始めてからおよそ一週間。『従属登録』が完了したコボルトは二十三体になり、これは群れの半数を少し越えた数だ。『従属登録』がかなりのハイペースで進んでいるのは、ひとえにコボルトと妖狸たちのおかげだろう。『従属登録』が終わったコボルトたちは、自分のどのような行動が主の利益に繋がるのか分かっているようであり、これは『従属登録』の能力の一部なのかもしれない。
反面、魔物狩りで無茶をするようなケースも増えてきている。子女郎やコボルトソーサラーの指揮がそれなりに統制の取れたものであるため未だ死者は出ていないものの、このままヒートアップしていけばどうなるかは目に見えている。今でさえ、動けないほどの怪我を負ったコボルトが洞窟内で数体療養中なのだ。
「……それは、俺もちょっと思っていたが……すまないが子女郎、それを確かめるために軽傷を負ったコボルトを数体連れて来てくれないか?今俺がここを動いたら、コボルトリーダーが何をするか分からない」
「了解であります」
敬礼をビシッと決めて、子女郎が走り出す。数分後、ちょっとしたゲームを楽しんでいたコボルトたちを彼女が引き連れて来る。いずれも、怪我をしたコボルトたちだ。
妖怪の主は、彼らの傷を何度か指さしながらコボルトリーダーの顔を見る。するとコボルトリーダーは、短く吠えた。
「とりあえず、怪我に関係しているってのは間違いなさそうだな」
「そうでありますね。コボルトたち、ありがとうなのであります。もう戻っても大丈夫でありますよ」
再び子女郎がコボルトたちを連れて、彼らを先ほどまでいた場所へと戻していく。自分の考えがある程度伝わったと感じたのか、コボルトリーダーはナイフを地面に落として、代わりにその巨躯には似つかわしくない細い木の枝を拾い上げた。そしてそれを使って地面に何かを描き始める。線だ。南と西へと伸びる長い二本の線が、地面に刻まれる。
「西の方が南より数倍長いな。これは……距離か?」
男の呟きが理解できないコボルトリーダーに当然答えられるはずもなく、その巨体は沈黙したまま木の枝をまた器用に動かして、南の線の端に何かの絵を描き上げる。
コボルトリーダーが書き上げたのは、口から二本の牙を飛び出させ、目を怒らせながらつるはしのような形状の武器を掲げ上げる、二本足の魔物の姿だ。
帰ってきた子女郎が、おおっ、と感嘆符を上げる。続けて、絵を完成させる工程を一部始終見ていた妖怪の主は、簡潔ながらも特徴を捉えたその絵を褒めた。
「いや上手いな。絵心あるんだな。びっくりした」
「どういった状況か分からないのでありますが、確かに上手でありますね」
ぱちぱちと二人が拍手をすると、コボルトリーダーは何事かと体をびくりと震わせる。だがそれが少なくとも害意を持った行動ではないと分かると、ほっとしたように木の枝を捨てて息をついた。
「まぁ、何となくわかったよ。南側にはこの魔物たちが大量にいるのか、縄張りがあるんだな」
「あ、この線が方角と距離を表現していたのでありますね。とすると、西には何があるのでありますかね?」
南の線に意味があったのだから、西へ続く線にも意味があるのだろう。
コボルトリーダーはもう何度となく見た謝罪を表す行動を行った後、即座に駆け出して洞窟の中に入っていった。しばしのち、彼はその腕一杯に魔物たちの骨を持って戻ってくる。
そしてその死骸の数々を、西の線の端へと落とした。命あったものの残滓。暗黒の中でそれらが、禍々しく積み上がっていく。その山の一部には、コボルトたち自身の骨も混ざっていた。
次に元首領は、西に向かって長く伸ばしたその線を足で消し始める。まるでその方角が忌むべきものであるように、乱雑に、執拗に、震えながら。
「西へは行くなってことかな……確かに、西へ向かうほどに瘴気が濃くなっていくなと感じてはいたけど、その発生源でもあるのか、いるのか」
「龍瘴の森には共倒れになった龍の骸が眠っている。ガルドオズムで耳にした伝説 は、本当なのかもしれないのでありますね」
「龍か。まぁ、龍神ってのが信仰されているくらいだもんな、そりゃいるよな。もし生きているなら、どれくらい強いんだろう?ちょっと興味がわいてきた」
「主殿の力を疑うわけではないのでありますが、コボルトリーダーがこう訴えている以上、出来るだけ南へは向かわないようにするべきでありますよ」
「それもそうか」
意外にすんなりと引き下がった主の態度を少し不思議に思いながら子女郎は、コボルトリーダーが伝えたかったと思われることを彼女なりにまとめ始めた。
「えっと、コボルトリーダーが伝えたかったことでほぼ間違いのないことを軽く整理するのであります。まず、コボルトたちの怪我が増えてきていること。そして、南には絵の魔物が生息していることと、西には向かわないほうが良いと言うことでありますね。本当はもっと詳細に伝えたいことがあると思うのでありますが、断定はできないでありますからね」
「しかし正直、コボルトたちの熱意って言うか、暴走って言うか、それを止める術がないんだよな。俺が首領として頼りないせいかもしれないけど。無理をするなって何度か俺なりに伝えているんだが、なかなか伝わらないし」
「まぁそこは、コボルトリーダーやソーサラーに頼むしかないのでありますよ。彼らなら、主殿や子女郎から話すより伝わると思うのであります」
「そうだな」
妖怪の主は頷くと、コボルトリーダーの硬い腕をぽんと叩いた。そして元首領の怪我を指差し、次にコボルトたちが溜まっている場所を指さして唇をなぞり口を開けて見せ、再び首領を指示した。
コボルトリーダーは理解したのか、感謝したように頭を下げると、元配下たちの方へ向かって歩いていく。
「これで、沈静化してくれればいいんだけどな」
「……そうでありますね」
子女郎の顔は浮かない。確かにコボルトリーダーやソーサラーは、群れの中では上位だろう。だが、今やボスは妖怪の主なのだ。主以外の説得に、どこまで効果があるのか彼女は不安でならなかった。
強力なボスを後ろ盾にしたコボルトたちの活動範囲は、それを誇るように日に日に広がっている。元首領が西の二本牙の魔物と南の何かを主に伝えたのも、それらの存在を刺激する日がそう遠くないことを予感したからかもしれない。
「主殿、もし南の魔物……はともかく、西の何かと事を構えることになったら、どうするのでありますか?」
「……」
男はぶるりと一度体を震わせた。武者震いかな、と子女郎は思ったが主の表情が曇っていくのを見て首を捻る。
「そう、だな。いっそコボルトたちと一緒に逃げちまうか」
子女郎のまん丸な瞳に映った男の顔は暗闇に隠されている。夜目の利く子女郎だけは、その表情がはっきりと分かっていた。
「なら、子女郎も一緒に逃げるのであります。置いていかないでほしいのでありますよ?」
「勿論置いて行ったりはしないが、子女郎なら幻術でも変化でも使って要領よく逃げられるだろ?」
「どれだけ要領よく逃げられるとしても、根本を解決しない限りきっといつか、追いつかれる時がやってくるのであります。そして追い詰められたとき、逃げることを選択し続けた心では、立ち向かう勇気も湧いてこないと思うのでありますよ」
「……そうかもな」
妖怪の主は、夜になっても生ぬるい空気を上に向かって吐き出す。転移したその日の夜、彼を空を見上げて今と同じように息を宙へ投げかけた。だが、その時には見えていた星の輝く夜空は今、木々に覆いつくされていて全く見えない。
「さて、戻るか。コボルトたちが先走らないよう、俺ももっと言い聞かせ……伝え聞かせるか」
戻る、が示す先はコボルトの巣だ。たった一週間と少し程度の付き合いだがそれでも、彼が戻ると言った場所はそこだった。
自分を認め、受け入れてくれる心地よさ。コボルトたちが自分を信奉している理由は、単純に力なのだと分かっている。だが、すでに別れがたく感じているのは彼がこの世界で、いや、転移前でもその感覚を数百年と味わっていなかったからだろうか。
「そうでありますね。完全には伝わらないと思いますし、伝わったところで彼らが冷静になるかは分からないでありますが、子女郎も注意しておくのであります」
杞憂に終わればいい。彼らの願いは、龍瘴の森の重苦しい空気の中へと、溶けていくのだった。