灰の帳簿
地下の空気は、血が増えると急に乾く。
刃夜はそれを、収容室の前を歩きながら知った。ゼルハの部下たちが死体を壁際へ並べ、本物の牢番を起こそうとしている。誰も大声を出さない。騒げば騒ぐほど、消したい者に都合がいいからだ。
「副長」
女の声が廊下を切った。
細い靴音で現れたのは、黒髪を後ろでまとめ、銀縁眼鏡をかけた女だった。白い官僚制服の上に灰色の外套を羽織り、片腕に文書箱を抱えている。眠気の気配はない。起こされた顔ではなく、呼ばれる前から働いていた顔だ。
「宮務第三局、ユスティナ・レイヴェル」
刃夜を見ずに名乗り、彼女はまず死体を見た。
膝をつき、指先で血の広がりを確かめる。次に黒筒、銀管、偽命令書。封蝋の削られた端へ灯りを寄せ、乾き具合まで眺めた。
「雑ではありませんね」
「感想か」
ゼルハが言うと、ユスティナは顔を上げた。
「判定です。書類は前もって用意されています。現場で思いついて作った字ではありません。死体を回収する段取りまで含めて、今夜のうちに終える予定だった」
その視線が、初めて刃夜へ向く。
冷たいが、侮りはなかった。
「あなたが九條刃夜」
「そうだ」
「広場を壊し、狙撃を読み、収容室で四人殺した男」
「殺しに来たから殺した」
「結構です。言い訳をするタイプより使えます」
言ってから、彼女はラズェリアへ目を移した。
「竜人皇女ラズェリア・フィルグレイン。今のところ、あなたの血が目当てだった可能性が高い」
ラズェリアの金の瞳が細まる。
「高い血だ。欲しがる雑魚は多い」
「その雑魚が、皇城地下の鍵を開けたのが問題です」
ユスティナは立ち上がり、命令書を文書箱へ入れた。
「副長。襲撃者の遺体と当夜搬送の記録は、どこへ回りますか」
「地下の遺体保管庫だ。夜明けの葬送組が引き取るまで置かれる」
「では急ぎましょう。待てば消えます」
ゼルハが頷く。
「私も同じ結論だ。だが正式命令は」
「陛下の正式命令が届く頃には、帳簿の肝心な行はなくなっています」
ユスティナは言い切った。
「私が文書責任を持ちます。副長は武を。九條刃夜は、奪われる前に押さえるための刃です」
刃夜は少しだけ口端を動かした。
「勝手に役を決めるな」
「違います。役に合う場所へ置いているだけです」
その言い方は乾いているのに、逃げがなかった。
数刻後ではなく、すぐ動く女だと分かる。
四人は地下回廊を進んだ。ゼルハが先頭、ユスティナが灯りと文書箱、刃夜とラズェリアが後ろにつく。通路は下るにつれて温度が落ち、代わりに灰の匂いが濃くなる。
角を二つ曲がった先で、鉄扉の隙間から橙の光が漏れていた。
遺体保管庫。
中では何かを燃やす音がする。
ゼルハが扉脇へ寄る。
ユスティナは呼吸を整え、外套の襟を正した。
「正面は私が止めます。副長は正当な命令の顔をしてください」
「お前は」
「私は、彼らが文言を読み終える前に時間を奪います」
刃夜を見る。
「その間に、裏から入って帳簿と死体を押さえてください」
「死体まで数えるのか」
「死体は嘘をつきません。だから燃やされます」
短く、それだけだった。
ゼルハが扉を開ける。
熱と灰が一気に流れ出た。
保管庫の中は広くない。石台が六つ。壁際には死体を覆う灰布。奥には口を開けた焼却炉。その前で、白い法衣の男と灰色の作業服の男が二人、担架を炉へ寄せている。
「止まれ」
ゼルハの声が落ちた。
全員が振り向く。
白法衣の男が不快そうに眉を寄せた。
「近衛副長殿。夜明け前の葬送処理です。神殿の権限」
「今夜の襲撃者だな」
「そのように聞いております。異端と接触した穢れが深い。早く焼くべきかと」
ユスティナが一歩前へ出る。
「聞いている、では保管記録が書けません。搬送番号、受領印、担当者名を」
男の視線がわずかに流れた。
その一瞬で十分だった。
刃夜はラズェリアとともに横の搬入口へ回りこんでいた。半開きの木扉を押し、保管庫の裏へ入る。狭い通路の先、棚の上に分厚い帳簿が見えた。
同時に、作業服の男が一人、裏からそれへ手を伸ばす。
刃夜は走った。
男が短刀を抜く。低い。だが遅い。
刃夜は手前の鉄盆を蹴り上げた。盆の中の熱灰が男の顔へ散る。悲鳴。そこへ踏みこみ、短刀を持つ手首だけを蹴り折る。落ちた刃が石へ鳴った。
「ラズェリア!」
呼ぶ前に、彼女はもう動いていた。
正面で担架ごと焼却炉へ押しこまれかけた遺体台を、片手で止める。筋の浮いた腕が熱で白く煙ったが、ラズェリアは眉も動かさない。そのまま台を引き戻し、白法衣の男を尾で薙ぎ払った。
男は炉前の床へ転がり、口から罵声を吐く。
「貴様ら、何を」
ゼルハの剣が喉元へ突きつけられた。
「喋るな。動くな」
ユスティナはその横で、もう別の帳票束をめくっている。
「搬送欄が抜かれています。最初から切り取るつもりだったのですね」
刃夜は分厚い帳簿を抱え、遺体台へ近づいた。焼けかけた灰布を剥ぐと、今夜収容室で襲ってきた男の一人がいた。喉は潰れ、顔の半分が煤けている。
ラズェリアがその首を掴み、乱暴に顎を上げる。
「これを見ろ」
喉元に、黒い焼痕があった。
彼女の首に刻まれていた処刑紋ほど整ってはいない。線は歪み、深さも浅い。だが形は似ている。似せて作った、粗悪な印だ。
刃夜の掌が脈打った。
「処刑台の印か」
「真似事だ」
ラズェリアの声に、露骨な嫌悪が混じる。
「私のものより下品だ」
ユスティナも覗きこみ、眉をひそめた。
「穢れ処理の印ではありません。少なくとも、私が見慣れた宮廷式ではない」
白法衣の男が息を呑んだ。
その反応を、刃夜は見逃さなかった。
「知ってる顔だな」
「知らぬ! それは下働きが」
言い切る前に、ゼルハの剣先がわずかに喉を押した。
「次に嘘をついたら、その喉で焼却炉の熱を飲め」
男は黙った。
保管庫の奥で、夜明けの一打目が鳴る。
鐘の音が石壁を伝い、保管庫の鉄盆まで細かく震えた。
ユスティナは帳簿をめくる手を止めた。
「該当行だけ切られています」
彼女が見せた頁では、搬送番号の列に不自然な裂け目が走っていた。前後の番号は残っているのに、その一行だけが刃物で抜かれている。
だが、端に焼け残った墨があった。
`七四一`
数字の半分だけが残っている。
「十分です」
ユスティナが言う。
「この番号と偽命令書の書式があれば、どの局を通したかは追えます」
「追えるのか」
「追わせないために切ったのです。なら、追える場所に繋がっています」
その時、保管庫の外から近衛が駆けこんできた。
「副長! 陛下から!」
ゼルハが紙片を受け取り、目だけで読んだあと、刃夜へ差し出す。
「お前宛てだ」
刃夜が開くと、短い文しかなかった。
`その帳簿を持って来い。今すぐ。`
署名はない。
だが、読むまでもなく誰の命令か分かる。
ラズェリアが焼けた遺体台から手を離し、刃夜の隣へ並んだ。
「行くのだろう」
「行く」
「なら、その紙より先に私を見るな」
刃夜は彼女を見た。金の瞳は怒っていたが、怒りの向く先は自分ではない。
皇城の奥で、まだ見えない何かが動いている。
その中心へ、自分たちはまた呼ばれている。




