「彼方へ」
いよいよ別れの時です
出立前の一際賑やかな時がいつしか過ぎ、そろそろと言うことで無尽が大地に頭をぴたりと据える。
それを見た瀬織姫様が一層雨子様にしがみつき、その有り様に雨子様は何とも言いがたい顔をしているのだった。
勿論、瀬織姫様自身も、現在の雨子様の置かれている状況を良く理解している。理解しているが故、繰り言の一つも言うこと無く、じっと我慢して只抱きついているだけなのだ。
しかしそのただ耐え忍ぶ姿が、より一層強く雨子様の心に訴えかける。
そしてその身を抱きしめる手が、雨子様の決意をも大きく揺らしていくのだった。
いっそ連れ帰ってしまおうかと思うことも無いわけでは無い。
けれども瀬織姫様はこの地の神であり、目の前で心配そうにしている沙喜の、義理とは言え娘でもあるのだった。その場の思いのみで、簡単に事を為すわけには行かないのだった。
雨子様は腰を屈めると、そんな瀬織姫様と視線を合わせながら言うのだった。
「瀬織姫よ、実はな、我から其方にお願いがあるのじゃ」
そう言うと真剣な眼差しで目を覗き込んでくる雨子様に、こくりと応えながら瀬織姫様が言う。
「はい…、なんで御座いますでしょうか雨子様?」
目を潤ませながら真剣に雨子様の言葉を伺う瀬織姫様。
見掛け幼気なこの瀬織姫様、その分余計にその真摯な思いが、強く雨子様の心を揺さぶるのだった。
雨子様はぐっと腹に力を入れると、喉の奥にある塊を飲み込み、静かな口調で言うのだった。
「以前其方達に送って貰った米が本当に美味かったのじゃ。あれほど味わい深い米はなかなか巡り会えるものでは無い。そこでなのじゃ、来年もまた特上の米を作って、我に食べさせては貰えぬか?」
思えば瀬織姫はこの地の土地神である。中でも民達の育てる稲の大いなる守り手であり、豊穣の神でもあるのだった。
その瀬織姫様に向かって為された雨子様の願いというのは、瀬織姫がその全身全霊を傾けて為すべき事でも有るのだった。
最初雨子様の言葉を耳に入れただけでは、未だぼうっとした所があった瀬織姫様なのだが、その意味が心の奥底にすとんと落ちると、まるで目から鱗が落ちたかのように瞳に光が蘇り、解けていた口元がきっと結ばれるのだった。
くいっと背筋を伸ばした瀬織姫様は、雨子様にしがみついていた手をそっと離したかと思うと、一歩二歩と後退る。そしてその場に平伏すると、凜とした声で思いを述べるのだった。
「古きより四周の大海を司る大海神の娘、我瀬織姫は、天露の神、雨子様との制約を守り、この地の豊穣神として思いの全てを掛け、精魂を傾けこの地にて良き稲穀を作り、御身に捧げることを誓います」
そう一気に奏上しきると初めて面を上げ、雨子様に向かう瀬織姫様。
目に一杯の涙を溜め、けれどもまるで憑き物が落ちたかのように爽やかな笑みを浮かべている。
そんな瀬織姫様の言葉を聞き、姿を見た雨子様は、一つ大きく柏手を打つと言うのだった。
「うむ、でかしたのじゃ瀬織姫。其方のその誓い見事果たしてみるが良い。そしてその末に得たもので我を楽しませるのじゃ。良いか?」
年長の神らしくしっかと申しつける雨子様の姿と言ったら、さすがと言った貫禄なので有るが、皆黙って口にしなかったことがある。その雨子様の目尻からつっと一筋の銀が流れ落ちていたこと。
恐らく瀬織姫様には雨子様の真剣な思い、十分に、いや、十二分に伝わりきったのだろう、嬉しそうに笑みを浮かべるとこくりと頷く。
そして綺麗な所作で立ち上がると、雨子様に背を見せることなく、すすと沙喜の処まで下がり、控えるのだった。
そんな瀬織姫様の手を、時を置かずに沙喜が握りしめ、そして握り返す。
それを目にした雨子様は、安心したように笑みを浮かべるのだった。
そして祐二の手を借りると真っ先に、無尽の頭へひらりと上がるのだった。
序で頭上より見回すと、笹姫達に目をとめ、「暫しゆるりと養生するが良い」そう言いながら頷いて見せる。
対して笹姫と次郎太は、深く頭を下げると感謝の思いを表すのだった。
次にと思って見渡すと、いつの間に起きて来たのか、大勢の村人達が次々と屋内から現れるのだった。
「其方らにも感謝を!とてつもなく美味い餅じゃった。其方らの豊穣神が誓ってくれたぞ、来年は今年以上の豊作となろう」
その言葉を聞いた村人達は、互いに顔を見合わせたかと思うと、皆腕を天に打ち上げながら叫ぶのだった。
「おおっ!」
そんな彼らに頭を下げると雨子様は言うのだった。
「この幼気な豊穣神が其方らの大いなる味方じゃ、大切にしてやってくれ」
すると先程の皆の歓声を上回るような大きな声で、この村の村長である藤治が言うのだった。
「お任せ下さい雨子様、この藤治命に代えましても!」
だがそんな藤治に雨子様から雷が落ちる。
「馬鹿者!易々と命をかけるでない!そのような危機に陥る前に我に助けを求めよ。我もまた瀬織姫の保護者なのじゃ!」
雷を落とされて一瞬青ざめた藤治だったのだが、雨子様のその後の言葉を聞いて顔を赤くし、次に感涙しながら言うのだった。
「承りまして御座います、雨子様!」
そんな藤治のことを、菩薩のように優しい笑みで見つめた雨子様。当然の如く一番最後にしっかと沙喜のことを見つめる
「沙喜よ、今回も本当に世話になったな?」
「とんでも御座いません雨子様。雨子様からそのような言葉を頂いて、どうお返ししたら良いか、分からなくなってしまいます」
「くふふ、瀬織姫にも言ったが、この村の米、また楽しみにして居る。そしてそう時間は掛からぬこととは思うが、暫し笹姫達のことくれぐれも頼むの?」
「はい、お任せ下さい」
そう言う沙喜ににっこりと笑みを浮かべると雨子様は言うのだった。
「先程見た笹姫の、当たり前の娘らしい姿、あれを見て我は安心したのじゃ。ただ次郎太…、その…早めに散髪してやってくれ」
雨子様の言葉に皆一斉に次郎太のことを見る。少し気弱そうだがなかなかに良い男と言った風貌なのだが、長く伸びたざんばら髪は頂けない。
皆の成る程と頷く姿を見た次郎太、頭を掻き掻き顔を赤らめる。
雨子様の指摘に悪気が無いのは分かっているので、何も言わないのであるが、そんな次郎太に雨子様がにっと笑いかける。
「髪を整えて早う笹姫に似合う男前になるが良い」
その一言でますます真っ赤になる次郎太なのだった。
気が付けばいつの間にやら七瀬や令子だけで無く、祐二も既に無尽の頭上の人となっていた。
そして雨子様の言葉が途絶えるのを待ち、揃って頭を下げる。
「沙喜さん、村の皆さん、本当にお世話になりました」
「「「ありがとうございます」」」
三人で声を揃えて礼を言うと、それを機会と見切ったのか、無尽がゆっくりとその頭を持ち上げていく。
「皆さんお元気で~!」
一際大きな声を張り上げて七瀬が言い、そして大きく手を振るのだった。
合わせて令子も手を振り、そっとハンカチを目に当てる。
ぐるりと大きく無尽が方向を変え、伸び上がるようにして空高く登り始める。
背後から藤治の胴間声で調子がとられ、皆の声が聞こえてくる。
「万歳!万歳!万歳!」
それを聞いた雨子様、ほんの少しだけ口元を尖らせながら言うのだった。
「我はもうちっと年上じゃ…」
それを聞いてしまった祐二、そして七瀬と令子。彼らは顔を見合わせる成り、思わず腹を抱えて笑い出してしまう。それを束の間面白く無さそうに見ていた雨子様なのだが、こう言った笑いは人を引き込む魔力があるのだった。
何時しか共に笑いながら、そっと手の甲で目を拭うのだった。
その頃地上では、瀬織姫様が沙喜の胸にしがみつき、わんわんと泣いている最中。
恐らく、多分、きっと、その声が雨子様の下に聞こえていたのかも知れない。
去年は本当にお米の高い年でした。
今年こそ美味しいお米が食べやすい値段になりますように(^^ゞ
いいね大歓迎!
この下にある☆による評価も一杯下さいませ
ブックマークもどうかよろしくお願いします
そしてそれらをきっかけに少しでも多くの方に物語りの存在を知って頂き
楽しんでもらえたらなと思っております
そう願っています^^




