「土曜日」
「ただいまぁ」
そう言う声と共に玄関の扉を開いたのは葉子だった。その腕にはもうすぐ十ヶ月になろうかという美代が抱かれている。そして肩には、そんな美代のことを慈しむように見つめている小雨がちょこなんと載っている。
「道は混んでいなかった?」
応えるのは節子、葉子の自宅との距離は然程離れて居る訳では無いのだが、それでも気を遣ってしまうのはやはり親心なのだろう。
「大丈夫だったよ」
と、その傍らに、幾つもの荷物を抱えた誠司さんが姿を現し、挨拶をした。
「お久しぶりですお母さん」
その荷物を受け取るべく節子の背後から拓也も現れた。そして「よう!」と声を掛けると荷物を受け取り、さっさと中に引っ込んでいく。
「ごめんなさいね誠司さん、急にお呼びだてしてしまって」
そう謝る節子さんに、にこやかに笑みを浮かべながら返答する誠司さん。
「いや~~、大丈夫ですよ。ここのところ出張も無かったし、何かこう言う機会でも無ければ美代のことをお見せ出来ないなと、葉子とも話していたところですから」
それだけ言うと誠司は、近所の駐車場に車を置きに家から出て行った
その姿を見送った後、節子と葉子は仲睦まじくリビングへと入っていく。
するとそこでは邪魔になるからと、玄関には行かなかった祐二や雨子様と共に、不安そうな面持ちの令子がいた。
勿論葉子は、令子についての様々な経緯を、母節子から聞いた話により知っている。だがそう言うことを知っているのと、こうして実際に生身の相手と対面するのは、全く別の事柄だった。
令子の姿を認めた葉子は、直ぐにでも美代を節子に預けると、その元に歩み寄るのだった。
そして視線を合わせるべく、そっと身を屈めると、優しい笑みを浮かべながら初めての対面を行うのだった。
「初めまして令子さん、葛城葉子です」
令子の気後れを察して、先に挨拶の言葉を贈ってくれたことが功を奏したのか、ほんの少し表情を和らげると令子はそっと頭を下げた。
「初めまして、あの、え、令子と申します」
一瞬令子は、かつての名字を言おうと思ったのだが、今は何ものでも無い自分のことを思い、敢えて下の名前だけを名乗るのだった。
確かに考えてみれば、嫁いだとは言え自分の生家に、身も知らずの得体の知れない女が入って暮らしているのだ。事と次第によっては、一波乱があったとしても何ら不思議の無いことだった。
尤もそう言う意味でなら、雨子様もそう言えないでも無かったが、言っても彼女は祐二の大恩人。そこのところは全く異なると言っても良いだろう。
令子も葉子も、そう言ったことを想像しながら、互いに相手の胸の内を慮って次の言葉をいかに掛けるか逡巡している。
だが問題は意外なところから解かれていくのだった。
こればかりはまず二人にと思い、何も口を出すこと無く見守っていた節子。その腕に抱かれていた美代が、急に身を乗り出して令子の方へ手を延べる。
「ねえね、だっこ。ねえね、だっこ」
「あらまあ、女の子は早いって言うのだけれども、この子はもう達者なのね?」
そう言って破顔する節子。しかしそれとは別に、ねえねと呼ばれて抱っこをせがまれた令子にとって、それは深く胸を打つ、何とも言いがたき一言だった。
はたはたと長い睫毛を伝って、涙が幾つも滴っていく。
「抱っこしても良いかしら?」
その言葉は、現在美代を抱っこしている節子へでは無く、葉子へのものだった。
おそらく例えようも無く不安な思いを胸に抱きつつ、それをどこに吐き出すことも出来ずに内に溜め込んでいた令子が、どのような思いで美代の言葉に救いを見いだしていたことか。
葉子はそのことを想像して、自身も胸が痛くなってしまうのだった。
「ええ、お願い…」
辛うじてその言葉を口にした後、葉子もまた喉元の熱い固まりを飲み下せずに、はたりと涙を零す。
「ねえねだよ~」
そう言う言葉と共に美代のことを令子に渡す節子。
「いらっしゃい、美代ちゃん…」
令子はそう言いながら押し頂くように、優しくそっと美代の身体を受け取り、きゅっと抱きしめた。
「あ、赤ちゃんの匂い」
今はもう遠い過去となってしまった頃に嗅いだ、知人のお子さんの匂いが、ふっと脳裏に甦る。
その途端、辛うじて抑えていた感情の波が決壊した。
「うっうっうっ…」
小さく嗚咽を上げながら、目の前の命に縋るようにして泣く令子。
そんな令子の泣き顔を、美代が心配したのかひょこっと覗き込む。
「ねえね?ねえね?」
その後、多分、美代自身が泣いた時にでもされていることなのだろう。
「ねえね、ねえね…」
そんな片言を何度も繰り返しながら、まるで母が子を撫でるかのように、優しく令子の頭を撫で続ける美代なのだった。
お待たせしました
本日文は短いです。
それにしても我が文に登場する者達は良く泣きます。
うん、現実界でそんなに簡単に泣くことが出来ない、そんな人達の分良く泣きます・・・




