「悪意」
それはもう何の言葉も出なくなるくらいに美味しいスイーツを、これでもかと頂いたのだからご機嫌で無いはずが無い。
申し訳ないながら、私の買い物で手が一杯になっている節子さんとは、さすがに手を繋ぐことが出来ず、せめても迷惑にならないようにと必死になって後を着いていった。
勿論節子さんもそのことが良く分かっていて、私が遅れたりすることの無い様、歩く速度を調節してくれていた。それでも都会の雑踏の中で、子供がそこそこの荷物を抱えて移動するのは、なかなかに大変なことなのだった。でも私が自分で持つと言ったのだから、頑張らなくてはね?
得てして少し遅れる私、それを立ち止まってきちんと見守ってくれる節子さん。
こう言う人に育てられたのなら祐二君も優しい男の子になる訳だ、私はそんなことを思いながら、出来るだけ寄り添うようにして街中を歩くのだった。
と、その時である。どこからか何とも言えない物凄く嫌な感じがした。
振り返ると少し離れた所に一人の男性の姿が見える。スーツを着た男性なのだが、何だろう?黒い靄のようなものが掛かっていて、その人自身がはっきり見えない、そんな感じになっていた。
ただ、本当に不思議で仕方無いのだけれど、その黒い靄に隠された中から、どこにその人の視線が向けられているのかだけは、何故か理解することが出来たのだった。
それがどう言う理屈かだなんて分からない、ただそう感じられたとしか言えないのだった。
彼は、もしくはそれは、節子さんの背中をじっと凝視している、様に見える。
折しも駅に向かう道は横断歩道の信号が赤になり、歩道で待機している私達の前を結構な勢いで車が行き過ぎていく。
背後からの嫌な感覚はますます強く、無視出来ないものになっていく。
どうにも看過出来ないと思った私は、そのことを節子さんに話そうとした、その時である。
その何者か分からない、得体の知れない存在はいきなり走り出し、私達の方へと突進してくるのだった。そして突き出された手は、明らかに節子さんの背中を押そうとしている。
私はもう何も考えずにとっさに男と節子さんの間に入り、なんとか少しでもその勢いを殺そうと試みるのだけれども、小さな女の子が一人、間に入ったからと言って何が出来る訳でも無い。
男の勢いのまま私達は車道に押し出されようとしていた。
そこへタイミングを合わせたかのように、大きなトラックが走ってくる。
このままでは絶対にトラックに轢かれてしまう。一度は死んで幽霊だった私はまだしも節子さんが!そう思った私は、思わず大きな声で叫んでしまった。
「だめぇっ!」
その途端に私の周りで真っ白な光りが溢れ、何もかもがその光りに包まれ、眩しくて見ることが出来なくなった、そんな風に見えたのだけれど、残念ながら私の意識はそこで途絶えてしまうのだった。
さてそれから一体どれだけの時間が流れたのかは分からない。
目が覚めた時というか、意識が戻ったと感じた時に目が見えなかった物だから、一瞬私はまた死んでしまったのかな等と思っていた。
そうしたら誰かが私の手を握っているのを感じて、思わずその手を握り返したのだった。
「よしよし、目が覚めたのじゃな?」
その声は誰紛うこと無く雨子さんの声だった。
「あの…私は一体どうなってしまったのですか?」
相変わらず視覚を取り戻せないまま、不安な思いでそう雨子さんに問う。
すると今一度きゅうっと手を握ったかと思うと、私の不安の素を取り除こうとしてくれるのだった。
「まあ待つがよい、今、目が見えるようにして遣わす」
そう言うと雨子さんがその手を私の目の上に宛がうのを感じた。初めはひんやり、だが時が経つうちにじんわりと暖かくなってくる。
やがてに手を取り払うと雨子さんが言う。
「もう見えるはずじゃぞ?」
そう言われた私は恐る恐る目を見開いた。
するとそこにはにっこりと笑みを浮かべた雨子さんの顔が見えるのだった。私はそんな表情の雨子さんを見た途端に、例えようも無く安堵している自分に気がついた。
「此所は?」
私が問うと静かな声で教えてくれた。
「此所は病院じゃ、そなたら二人は車に撥ねられかけたとのことじゃ。だが幸いにもぎりぎりのところで轢かれることは無かったそうなのじゃが、ショックで気を失った…と言うことに成って居る」
成っている?なんだか妙な言い回しをする雨子さんだなと思ったのだけれども、それよりもっともっと遥かに気に掛かっている言葉を口にした。
「節子さんは?」
今の雨子さんの言葉で無事そうであるとは理解したものの、はっきりとした言葉を聞くまで安心出来なかった。
「問題ない、一応隣の部屋で寝て居るが、我の知る限りでは元気にして居るぞ」
「良かった…」
私はそう言うとほっと胸を撫で下ろした。
私のそんな様を見て微笑んだ後、急に真面目な顔になった雨子さんが問うてきた。
「それで何があったと言うのじゃ?」
その声は極めて真剣で、静かな怒りに満ちた物だった。
勿論それは私に向けられた物では無い、その証拠に、私の頭を撫でてくれる雨子さんの手は限りなく優しかった。
そこで私は事故の直前に見掛けた黒い靄を纏った男性のこと、その男から感じたなんとも嫌な、何と言えば良いのだろう?気?そんな物をその男から感じていたことを説明した。
そしてその男が私達を歩道から車道へ突き飛ばそうとして来たこと、私が男と節子さんの間に入り、少しでも防ごうとしたこと、その時に目の前が真っ白になってしまい、目が覚めたら目が見えなくなっていたことなどを掻い摘まんで話したのだった。
「ふむ、なるほどの」
全てを話し終えた私のことを今一度しっかりと撫でると、雨子さんは言った。
「ともあれ令子よ、そなたは良くやったのじゃ、まずはそのことをしっかりと褒めてやらなくてはな?」
そうやって雨子さんに褒められはしたものの、実際何が何やら分からない私は、ただもう首を傾げるばかりだった。
しかし私にとってはそんなことを追求するよりも、まず節子さんの無事な姿を見たい、その思いで一杯なのだった。
そこで私はベッドの上で身体を起こすと、床に降りようとした。だがその思いを果たすことは出来なかった。何故か身体に全く力が入らないのだ。
「令子は一体何をしようとして居るのじゃ?」
へなへなと頽れている私のことを見ながら、雨子さんが不思議そうな顔をして問うてきた。
それに対して私はぐったりとしながら返答する。
「節子さんに会いに行くんです、この目でちゃんとお元気なところを見ないと…」
そう言いながら私はボロボロと涙を零した、だってなんとしても身体を上手く動かすことが出来ないのですもの。
「まあその様に慌てるでは無い」
「だって…」
果てが無いほど溢れようとする涙とは別に、私の口からはもう言葉を紡ぐことすら出来なかった。節子さんの所に行きたいと思う思いはそれほどに強く、一方身体は全く言う事を聞かず、焦りと苛立ちで言葉を紡ぐことが出来ない様になっていたのだった。
「やれやれ、しょうのないやつじゃの…」
そう言うと雨子さんは私のことを抱え上げてくれた。
「先ほども言うたであろ?節子は元気じゃと。我としてはそれよりもむしろ令子の方が心配なのじゃぞ?」
抱え上げてくれた雨子さんの胸元にしがみ付きながら、私はその顔を見上げ、目でその意味を問うた。
「一つ言うて置かねばならぬの。節子が無事じゃったのは令子、そなたのお陰なのじゃ、我はそう思うて居る」
一体何をして雨子さんはその様なことを言うのだろう?
「?」
私には何故雨子さんがその様に言うのか理解出来なかった。
「そなた、気を失う時に辺りが真っ白になったと言うて居ったであろ?」
私は言葉を発すること無くただ頷いて見せた。
「あれはの、そなたが自身の生命エネルギー、つまり精を身体から発して節子を救うために使うた証なのじゃ。だがお陰で危うくそなたは消えてしまうところだったのじゃぞ?」
「え?」
思わぬ言葉を雨子さんから聞いて、私の口から出たのはその一言だけだった。
「そなたはなんとしても節子とのことを守ろうとしたが故、生のままの精を周りに放出したのじゃ。それが令子にとって真っ白に見えたあの光の正体なのじゃ。またそれが内部から発散される時に余りにも強烈だったが故、そなた自身の目の回路を焼き切ってしもうたと見えるの」
そんな風に説明してくれる雨子さんのことを、私はただただじっと見つめるしか無かった。
「本来正しく使えば、あの万分の一もあれば事足りたのじゃが、その様な使い方を知らぬ故、令子は生のままの精を発し、必要な効果を求める為、危うく存在に必要な精まで失いかけたというのが事の真相なのじゃ」
とんでもない話を聞いた私は、いやな汗が背筋を走るのを止められなかった。
そんな私のことを雨子さんがぎゅうっと抱きしめながら言う。
「じゃがおそらくそのお陰で節子は救われた。感謝する令子」
そう言うと雨子さんは私の頬に頬ずりするのだった。なんだか普通に礼を言われるよりも嬉しいというか、てれ臭かった。
「ともあれそなたの望み通り、一端節子の部屋に向かうかの」
そう言うと雨子さんは私を抱えたまま、隣の部屋へと向かうのだった。
お待たせしました。
いよいよ新たな展開に入っていきそうな?感じになって来た?
(何で疑問形?(^^ゞ)




