下準備
お待たせ致しました。
「さて、令子をからかうのもこれくらいにして…」
そう言う雨子様の言葉に令子さんが膨れながら言う。
「雨子さん?」
「ああ、悪い悪い…」
そう言いながら軽く頭を下げるのだが、雨子様、それ全然悪いと思って居ないでしょう?
その証拠に雨子様は、悪戯っぽそうな目をきらきらとさせている。
「祐二、我は部屋に戻って暫し準備をすることにする。なるべく早めに電卓を持ってきて貰えると有り難いのじゃが…」
「うん、分かった直ぐに持って行くようにするよ」
僕の返事にうんうんと頷いていた雨子様は、今度は令子さんに問うた。
「実際に事を成すまで暫く時間が掛かるのじゃが、それまで令子はどうして居る?」
「私が側に付いていないと行けないのかしら?」
「いや、そんなことは無いぞ?用意が出来たら我の方から呼びに行ってやるが?」
「ならそれまで節子さんとお喋りをしていても良いかしら?」
「うむ、構わんぞ」
雨子様にその様に許可を貰った令子さんは実に嬉しそうに言う。
「私、ずっとあちこち彷徨っていたんだけれども、その間誰とも話すことが出来ないで居たの。だからなんだかお喋りに飢えていて…」
その台詞に雨子様は吹き出しながら言う。
「よいよい、ならば節子に存分にその飢えを癒やして貰うが良い」
そう言うと雨子様は、手に先程持ってきていたうさぎの人形を持ち、自分の部屋へと戻っていくのだった。
それを見送った僕は、急いで庭の隅に置いてある燃えないゴミの所に行って、捨てようとしていた電卓を探し求めた。
「有った有った!」
ちゃんと見つけることが出来て僕はほっとした。
元々は父さんが使っていた物で、色々な関数機能が付いている。余りに多くの関数機能が付いているので今一使い倦ねていたのだが、最近数字の表示がおかしくなってきてお役御免になっていたのだ。
袋の中には汚れるような物が入っていなかったので幸い綺麗なままだ。
が、それでもそのまま渡すのは気が引けるので、固く絞ったタオルで一通り拭うと、それを以て雨子様の部屋へと向かった。
部屋の扉を軽くノックすると誰何の声が上がる。
「誰じゃ?祐二かえ?」
「ええ、僕です」
「入るが良い」
元はと言えば勝手知ったる葉子ねえの部屋なのだけれども、今は雨子様の私室となっている。
「はい、これ」
そう言いながら僕は回収してきた電卓を手渡した。
受け取った雨子様は裏表を見聞した挙げ句、再び僕にそれを渡してくる。
「すまぬが祐二、ばらして中の基板とやらを取り出して貰えるかえ?」
「ん、分かった」
そう言うと僕は電卓を手に自室に戻る。そしてクローゼットの中に置いてあった道具箱から、時計用ドライバーを取り出すと机に向かい、電卓をばらし始めた。
ネジだけで留まっているのかと思いきや、爪でかみ合わせになっているらしく、そのままでは簡単にはばらけない。
仕方無く慎重に隙間にマイナスドライバーを差し込んで、ゆっくり丁寧にこじ開けていく。
パキンと言う音共に無事側を外すことに成功する。後はもうフィルム状の配線を引っこ抜いたり、液晶を取り外したりするだけで、あっという間に基板だけになってしまう。
余分な部品はまた燃えないゴミとして片付けるとして、僕はその基板を手に再び雨子様の元に向かった。
基板だけになった僕の手の中にある物を見ると、雨子様は嬉しそうに微笑んだ。
「すまぬの祐二、厄介事を頼んでしもうて」
机の前の椅子に座りながらそう言う雨子様は、膝の上に載せているうさぎの縫いぐるみを愛でるように撫で続けている。
「そちらは準備出来ているの?」
「うむ、もっとも出来ているとは言っても下準備程度で、祐二の持って居るその基板が無いことには、これ以上は何とも成らぬのじゃ」
「じゃあ、はい」
僕がそう言って基板を渡そうとすると、雨子様の目がきゅっと細くなる。
「祐二、その手はどうしたのじゃ?」
雨子様にそう言われてしげしげと手を見ると、僅かに血が滲んでいる。どうやら分解するときに何かに引っかけて切っていたのだろう。
「うっかり切ってしまったみたいだよ」
僕は苦笑しながらそう弁解した、後で下に降りて消毒しておくかな?そんなことを考えながら。
「もう…慌てものめ。ともあれ貸すが良い」
雨子様にそう言われたので僕は手に持った基板を引き渡そうとした。
すると雨子様は基板を受け取って尚僕の手を離そうとはしない。
「雨子様?」
僕がそう問うと、雨子様はそのまま手を引き寄せ、舌先でちろりと傷口を舐める。
「ふむ、深くは無いようじゃな、安心した…」
それでもう終わりかと思った僕は手を引き戻そうとするのだけれども、残念ながら雨子様は未だ解放してくれるつもりは無いらしい。
そのまま手に掴んで居たかと思うと、傷口にそっと唇を押し当てるのだった。
途端にその部位が微かに光り、何か熱い物がふわっと広がっていく。
「?」
僕が一体何事と驚いていると、雨子様が笑いながら今度こそ手を返してくれた。
「我の為に傷を負うたのじゃ、それ位は治してやらんとな?」
その言葉に僕は慌てて傷のあった場所を調べる。薄いピンクの跡がごく僅かに残っているだけで、それも見ている間に薄らいでいく。
後に残るのは雨子様の唾液で微かに濡れた、指が一本そこにあるだけ。
僕は目の前で一瞬にして傷口が無くなったことに驚きつつ、その指を感心しながら見つめ続けていた。
すると一体どうしたのか何やら雨子様の挙動がおかしい。
「も、もう良いであろう?ほれ、拭いてやる」
そう言うと顔を赤くしながら、取り出したハンカチでごしごしと指を擦って拭くのだった。
さて、そんなイレギュラなことがありはしたのだが、基板を手に入れた雨子様は早速机に向かい、うさぎに付加する為の呪を練り上げ始める。
沢山の光りで出来た文字が浮かび上がり、浮かび上がっては小さな同心円状の光る文様の中に吸い込まれていく。今までの経験上、それが呪を組み上げると言うことで有るとは知っているのだが、それ以上のことは何も分からない。
暫くの間それを繰り返し続けていた雨子様は、やがて
「出来た」
と一言言うと、その光る文様の中心部に、僕の持ってきた基板をそっと押し当てた。
すると基板は光りながら融けるようにしてその文様と同化していく。
そして基板の全てが溶け込むと、今度はその文様に指を押し当て、くるくると渦を作るように回していく。するとその文様は小さく小さく収束して一つの点のような光りとなる。
雨子様はその光りの点に人差し指の先を押し当てると、ゆっくりと導くように動かし、やがてうさぎの縫いぐるみの眉間部分にそっとそれを押し込むのだった。
「よし、完成じゃ。これに令子を定着させれば全ては終了じゃ。長らくあの状態で、身体を動かすという感覚を逸して居るじゃろうから、これに入れば追々思い出す助けになるじゃろう」
そう言うと満足げに笑みを浮かべ、ふんすと目前で手を握る雨子様だった。
「今日は随分早かったですね?」
僕が以前のことを思い起こしながらそう言うと、雨子様は笑いながら言った。
「それは祐二、この身体はただ動き、会話することだけに特化して居るのじゃから、さもありなむじゃ」
「そう言うことなんだ」
「うむ、じゃが次はこうはいかぬ。人の身体に近づけようとすればするほどに手間暇が掛かる。特に今の身体の造作を整えるときに見せた、令子のあの執念は知って居るじゃろう?」
「あ~~~、確かに」
幽霊である今の身体のとんでもない有り様を修正するときに、どれだけ令子さんが雨子様に時間を掛けさせたかを思うと、何となくこの先の苦労が容易に想像出来た。
「ご愁傷様です雨子さん」
僕が少し戯けてそう言うと、てっきり雨子様は怒ってくるかと思って居たのだが、げっそりとした表情で見つめてくる。
「うわっ、ごめんなさい雨子さん」
余りに情けなさそうな顔で見てくる物だから、それはもうからかうどころではなくなってしまったのだ。
「後でしっかりと我を慰めるのじゃぞ?」
雨子様はそう言うとなんとか気持ちを立て直し、そして僕に言う。
「ともあれまずは令子を呼んでくるが良い」
僕はそう言われて早速階下に令子さんを呼びに行くことにした。
しかし雨子様を慰めるって?一体どうすれば良いんだろう?
相変わらずの、ちょっとだけ非日常の日常回です




