後
翌朝、由奈が目を覚ましたとき、隣に湊の姿はなかった。
カーテンの隙間から差し込んだ朝の光が、まだ少し暗い寝室の床に細長く伸びている。しばらくぼんやり天井を見ていると、キッチンの方からフライパンを使う音が聞こえてきた。油のはぜる小さな音と、食器を置く音。いつもの朝だった。
由奈は布団の中で昨日のことを思い出した。
結局、話は途中で終わった。
湊が土曜日に美咲と会うのかどうかも、その場では決まらなかった。どちらが正しいのかという答えも出ていないし、そもそも答えがあるのかどうかさえ分からない。
それでも、何も言わずにいた頃よりは少しだけ楽だった。
嫌だったこと。不安だったこと。
自分は、湊とは少し違う考え方をしていること。
少なくとも、それは伝えられた。
それを聞いた上で、湊がどう考えるのかはまだ分からない。
「起きた?」
寝室の扉から湊が顔を出した。
由奈は少し間を置いてから「うん」と答える。
「目玉焼き焼いたけど食べる?」
「食べる」
それ以上、昨日の話には触れなかった。
由奈も湊も、少しだけ慎重になっていた。
喧嘩をしたわけではない。険悪になったわけでもない。ただ、今までなら何も考えずに交わしていた言葉の一つ一つに、ほんの少しだけ相手の様子を見る時間が挟まる。
けれど、それでも朝食はいつも通りだった。
由奈がテーブルにつくと、ご飯と味噌汁と目玉焼きが並んでいる。湊は向かいに座り、何事もなかったように箸を取った。
そのまま数分。
テレビから流れる朝のニュースを聞きながら食べていると、湊が不意に言った。
「美咲には連絡した」
由奈は箸を止めかけた。
けれど、そのままご飯を口に入れる。
「土曜?」
「うん。映画はまた今度にした」
「……私が言ったから?」
聞きたくなかったような、聞きたかったような質問だった。
湊は少しも誤魔化さなかった。
「それもある」
あっさり認められて、由奈の方が返事に困った。
「でも、相談の方は電話でするって」
「そう」
「だから、別に縁切ったとかじゃないからな」
「分かってるよ」
少し棘のある言い方になった。
自分でも気づいた。
湊もたぶん気づいている。
それでも、何も言わずに「うん」とだけ答えた。
また少し沈黙が落ちる。
由奈は味噌汁を口に運んだ。
昨日の夜よりは、ちゃんと味がした。
それから数日、美咲の名前は二人の会話に出なかった。
湊が気を遣って話題にしないようにしているのか、それとも単純にその後は連絡を取っていないのか、由奈には分からない。
聞こうとは思わなかった。
「最近、美咲さんとは連絡取ってるの?」
そんなことを自分から聞けば、気にしていることをわざわざ証明するようで嫌だった。
実際、気にしている。だからこそ聞きたくなかった。
そんな水曜日の夜だった。
夕飯を食べ終え、ソファに移ったところで、由奈のスマートフォンが鳴った。
母からだった。
『浩司おじさん、今週帰ってきてるって。日曜まで日本にいるらしいよ』
「あ」
思わず声が出る。
隣でテレビを見ていた湊が振り向いた。
「どうした?」
「おじさん帰ってきてるって」
「おじさん?」
「母の弟。海外に住んでる人」
「ああ、前に写真見せてもらった人?」
「そう」
浩司は由奈の母親の弟で、十年以上前からシンガポールで暮らしている。
昔は年に一度くらい日本へ戻ってきていたものの、ここ数年は仕事の都合もあって、会える機会が減っていた。
由奈が子どもの頃には、帰国するたびに海外のお菓子や、日本ではあまり見かけない奇妙なお土産を持ってきてくれた。話も面白く、親戚の中では昔からかなり好きな方だった。
母に返信すると、すぐにまた通知が来る。
『明後日の金曜なら空いてるみたい。由奈も仕事終わり会ったら?』
「金曜か」
由奈が呟くと、湊が横から言った。
「会えば?」
「うん。そうしようかな」
久しぶりに会えるのなら、断る理由はない。
由奈はその場で叔父に直接メッセージを送り、何度かやり取りをしたあと、金曜の仕事終わりに駅の近くで待ち合わせることになった。
スマートフォンを置いてから。
由奈はふと思った。
「ねえ」
「ん?」
「金曜、男の人と二人でご飯行ってくる」
湊がテレビから目を離した。
「うん?」
「男の人と」
少しだけ強調する。
湊は由奈の顔を見たあと、数秒も考えずに言った。
「……おじさんだろ?」
あっさり見抜かれて、由奈は思わず笑った。
「そうだけど」
「何だよ」
「いや、別に」
「何か試してる?」
「試してない」
答えながら、由奈は自分でも少しだけ嘘だと思った。まったく何も期待していなかったわけではない。
湊がどんな反応をするのかほんの少しだけ、見てみたかった。
けれど、本当に叔父のことを男友達だと偽るつもりはなかった。
そこまでして湊を試すことに意味があるとも思えない。
そもそも由奈は、付き合っている最中に男友達と二人きりで休日を使って遊びに行こうとは思わない。
仕事終わりに、たまたま都合が合って少しお茶をする。
仕事や共通の知人のことで、二人で話す。
それくらいなら特に何も思わない。
でも、わざわざ休日に予定を合わせて、映画を見て、そのあと食事をして、何時間も二人で過ごす。
自分が恋人にされたら嫌だと思うことを、自分だけ平然とやる気にはなれなかった。
「でもさ」
由奈は少し迷ってから聞いた。
「仮におじさんじゃなかったとしても、本当に平気なんだよね」
湊は少し考えるように視線を上げた。
「相手によるとは思うけど」
「前と話違わない?」
「いや、だって明らかに由奈を口説いてる男とかなら嫌だろ」
「じゃあ普通の男友達なら?」
「別に」
やっぱりだった。
「二人でご飯行っても?」
「うん」
「映画は?」
「行きたいなら」
「旅行は?」
「それはさすがに話変わってこない?」
「どこから変わるの?」
「難しいな、それ」
湊は困ったように笑った。由奈も少しだけ笑う。こうして話していると、不思議と深刻さが薄れる瞬間がある。
けれど、根本のところは何も変わっていない。
「まあ、普通に友達と飯とか映画くらいなら気にしないと思う」
「そう」
「だって、由奈がその人のこと好きじゃないんだろ?」
「うん」
「ならいいよ」
湊の答えには迷いがなかった。
由奈の中に、以前と同じ小さな寂しさが浮かんだ。
「俺、何か変なこと言った?」
「言ってない」
「じゃあ何その顔」
「普通」
「普通じゃないだろ」
湊が笑いながら顔を覗き込んでくる。
由奈は手でその顔を押し返した。
「鬱陶しい」
「ひど」
そのまま、笑い話にして終わった。
それでよかったのだと思う。
金曜日。
仕事を終えた由奈は、駅前の喫茶店で叔父と待ち合わせた。
店の外から中を覗くと、奥の席で手を上げる男が見える。
「由奈?」
「久しぶり」
席に着くなり、叔父は由奈の顔をしげしげと眺めた。
「大きくなったなあ」
「何年前の記憶?」
「二十歳くらい」
「そこからそんなに大きくなってないよ」
「雰囲気が変わったって意味だよ」
相変わらずだった。
適当なことを言っているようで、たまに妙にこちらをよく見ている。
そんな話をしながら、一時間ほど近況を話した。
シンガポールでの生活。最近の仕事。母のこと。祖父母のこと。由奈の仕事。
そして話題は自然と、今の暮らしに移っていった。
「彼氏いるんだって?」
「お母さんから聞いた?」
「聞いた聞いた。同棲してるんだろ」
「そう」
「写真ある?」
「なんで」
「見せろよ」
「嫌だよ」
「いいじゃん」
あまりにしつこいので、由奈は仕方なくスマートフォンを開いた。
二人で出かけたときに撮った写真を一枚見せる。
叔父は画面を眺め、妙に満足そうに何度か頷いた。
「いい男じゃん」
「写真だけで分かるの?」
「雰囲気だよ」
「適当」
そのあと、二人で近くの店に移り、夕飯を食べた。
叔父は来月にはまた海外へ戻り、しばらく日本には帰れないらしい。
「今度は湊くんも連れてこいよ」
「タイミング合えばね」
「ちゃんと紹介しろ」
「はいはい」
駅で別れ、由奈が家に着いたのは九時を少し過ぎた頃だった。
玄関を開ける。
「ただいま」
「おかえり」
リビングから湊の声が返ってくる。
覗くと、ソファに座ってゲームをしていた。
「おじさん元気だった?」
「元気だった。湊の写真見せろって言われた」
「なんて?」
「いい男だって」
「見る目あるな」
「写真だけだけどね」
「写真で分かるんだよ」
叔父とまったく同じことを言う。
由奈は笑って、上着を脱いだ。
「遅くなるから迎え行こうかと思ったけど」
「連絡してくれればよかったのに」
「おじさんと久しぶりに会ってるところ邪魔するのもなと思って」
湊は画面を見ながら、何でもないことのように言った。
それは、彼なりの気遣いだった。由奈は素直に嬉しかった。
湊はこういうところで、いつも由奈を大切にしてくれる。
迎えに行こうと思ってくれていたことも嬉しいし、久しぶりに会う親戚との時間を邪魔しないようにしてくれたことも嬉しかった。
嬉しかったのに……ふと、考えてしまう。
もし今日会っていたのが、本当に男友達だったとしても、湊は同じように「楽しかった?」と聞くのだろう。たぶん聞く。遅くなるなら迎えに行こうか、と言うかもしれない。
何も変わらない。
別に、変わってほしいわけではない。
今日は叔父に会っただけなのだから、嫉妬されても困る。
それなのに、あの日の話をしてからずっと、自分でも説明しきれない感情がどこかに残っている。
「由奈?」
「なに?」
「ぼーっとしてる」
「疲れた」
「風呂入って寝たら?」
「そうする」
由奈は小さく頷いた。
その日は、それ以上考えないことにした。
美咲が海外に行くことになったと聞いたのは、それから二週間ほど後だった。
プロポーズを受けることにしたらしい。
湊は夕飯の支度をしながら、「そうみたい」とだけ言った。
由奈も「そっか」と答えた。それで終わった。
その後、美咲とは一度だけ三人で会った。
由奈が会いたいと言ったわけではない。
美咲の方から、海外へ行く前に一度彼女に挨拶しておきたい、と言ってきたらしい。
最初に聞いたときは少し構えた。
けれど、実際に会ってみれば拍子抜けするほど普通の人だった。由奈より少し背が高く、よく笑う。
湊に対しては遠慮がなく、昔からの友達らしい雑な言葉の投げ合いをする。
そして、話しているうちに由奈は思った。
たぶん、この人は本当に湊を恋愛対象として見ていない。
婚約者の話をするときの美咲の表情が、それまでとは明らかに違ったからだ。
声の柔らかさも。少し照れたような目元も。
相手への不満を口にしながら、結局どこか嬉しそうなところも。
それを見れば、由奈にも分かった。
美咲と湊の間に、少なくとも今、恋愛感情はない。
だからといって、由奈の考え方そのものが変わったわけではなかった。
けれど、美咲という一人の女性に対して抱いていた引っかかりは、かなり薄れた。
問題は美咲ではない。
たぶん最初から、自分と湊の考え方が違う。
それだけなのだ。
そう思えるようになってから、しばらくは何事もなく過ぎた。
一か月ほど経った頃。
「来週の土曜、大学の連中と飲むんだけど、由奈も来る?」
夕飯を食べながら、湊が言った。
「私も?」
「彼女とか旦那とか連れてくる奴もいるから。別に来なくてもいいけど」
普段なら断っていたかもしれない。
湊の交友関係は広すぎる。
一つ一つの集まりに付き合っていたら、由奈の方が疲れてしまう。
けれど、その日は何となく。
「行ってみようかな」
そう答えた。
「ほんと?」
湊がぱっと嬉しそうな顔をした。
その反応を見て、由奈も少し気持ちが軽くなる。
「じゃあ言っとく」
「うん」
その顔を見ていると、行くと言ってよかったと思った。
当日。
店に着くと、すでに十人近くが集まっていた。男女は半々くらい。
湊は席に着くまでの間だけで、何人もの名前を由奈に紹介した。
大学時代のゼミが同じだった人。サークルが一緒だった人。講義で仲良くなった人。そこからさらに、その友人。
由奈は開始十五分ほどで、全員を覚えることを諦めた。
その中に、沙耶という女性がいた。
「湊の彼女さん?」
最初に声をかけてきたのは、向こうだった。
「そうです」
「へえー。湊、ちゃんと彼女できたんだ」
「何その言い方」
湊がすぐに口を挟む。
沙耶は楽しそうに笑った。
「だって学生時代、変なところ鈍かったじゃん」
「変なところって何だよ」
「そういうところ」
会話のテンポが速い。気安いんだ。
長い付き合いなのだろうとすぐに分かった。
けれど、由奈は特に嫌な感じを受けなかった。
沙耶は由奈にも何度か話を振ってくれたし、会話に入りづらそうにしていれば自然に話題を渡してくれる。
「由奈ちゃん、飲める?」
「少しなら」
「無理しなくていいよ。この辺みんな大学の頃のテンション引きずってるから」
「おい」
「事実じゃん」
そんな調子で、場に馴染めるよう気を遣ってくれているのが分かった。
明るくて、話しやすい。嫌な人ではない。
むしろ印象はよかった。
途中で席が入れ替わり、由奈は別の女性たちと話すことになった。
少し離れたところを見ると、湊は大学時代の話で盛り上がっている。
よく笑っている。
一人が何か話せば、湊が拾い、別の人がまた話に入る。
自然と人の輪の中心にいる。
こういうところを見ると、本当に自分とは違う人だと思う。
由奈は四、五人くらいの関係を維持するだけでも充分なのに、湊は何年会っていなかった相手とも、昨日まで一緒にいたように話せる。
人間関係を切らずに持ち続けることに、ほとんど労力を感じていないように見える。
少し羨ましくもあった。
飲み会が終わったのは、十時を過ぎた頃だった。
店を出ると、夜の空気が少し冷たい。
二次会へ行く人間と、このまま帰る人間に分かれ、店の前はしばらく騒がしかった。
由奈は今日知り合った女性の一人と、駅までの方向を確認していた。
「じゃあ今度また」
「はい」
軽く頭を下げて別れたあと、由奈は湊を探した。
すぐに見つかった。
少し離れた場所で、沙耶と二人で話している。
由奈は、すぐには何も思わなかった。周りにはまだ人が大勢いる。店の前だ。二人きりでどこかへ行ったわけでもない。ただ、何となく目に入っただけだった。
けれど。
沙耶が湊の袖を掴んだ。
ほんの一瞬。
湊が何か言う。沙耶は笑わなかった。
店の中で見ていた明るい表情とは違った。
少し真剣で、少し緊張したような顔。
由奈はそこで、何となく違和感を覚えた。
声は聞こえない。
何を話しているのかも分からない。ただ、湊の表情が変わった。一瞬、目を見開く。
驚いている。それから何かを言う。
沙耶が俯く。
数秒……長い時間ではなかった。最後に沙耶は少しだけ笑った。
その笑顔は、さっきまでのものとは少し違って見えた。
そして湊から離れ、こちらへ歩いてくる。
「またね、由奈ちゃん」
由奈のそばを通るときには、いつもの明るい顔に戻っていた。
「はい。また」
反射的に答える。
沙耶はそのまま駅の方へ歩いていった。
少し遅れて、湊が由奈のところへ戻ってくる。
「帰ろっか」
「うん」
二人で歩き始める。
湊は、いつもより少し静かだった。由奈は何も聞かなかった。
聞かなくても、なんとなく分かる気がした。
一分。
二分。
交差点を一つ越えたところで、湊の方から口を開いた。
「さっきさ」
「うん」
「沙耶に告白された」
やっぱり。
由奈は驚かなかった。驚けなかった。
「そう」
「もちろん断ったよ」
「うん」
「由奈いるし」
「うん」
「……それだけ?」
湊が横を見る。
「何が?」
「いや、もっと何かあるかと思って」
「例えば?」
「怒るとか」
由奈は少し眉を寄せた。
「なんで私が怒るの?」
「いや、分かんないけど」
「湊、何かしたの?」
「してない」
「じゃあ怒らないよ」
本当に怒っていなかった。自分でも不思議なくらいだった。もっと腹が立つと思っていた。
もしこんなことが起きれば、きっと「だから言ったでしょう」と言いたくなると思っていた。
けれど実際には、そうならなかった。
「沙耶が俺のことそういうふうに見てたの、全然気づかなかった」
「そうだろうね」
「何その言い方」
「湊、気づかなそうだから」
「……うん」
少し気まずそうに頷く。
由奈は前を向いたまま歩いた。怒ってはいない。腹も立っていない。
沙耶を責めたいとも思わなかった。
湊に恋人がいると知っていて告白したことを、良いことだとは思わない。
それでも、好きになる気持ちそのものは止められないのだろう。
そして湊は断った。何も悪いことはしていない。きちんと由奈を選んだ。
それなのに。胸の中に残ったのは、安心でも満足でもなかった。
「……由奈」
「なに?」
「前に言ってたことさ」
由奈は歩いたまま聞き返した。
「何?」
「相手が自分をどう思ってるかなんて分からないってやつ」
「ああ」
「ちょっと分かったかも」
その瞬間。
胸の奥に、何かが静かに落ちた。
あれだけ分かってほしかったはずなのに、少しも嬉しくなかった。
「沙耶、本当に普通に友達だと思ってた」
「うん」
「大学の頃からずっと」
「うん」
「二人で飯食ったこともあるし、相談乗ったこともあるけど、そういう感じだと思ったこと一回もなかった」
「そう」
「だから、由奈の言ってた――」
「ねえ」
由奈は途中で遮った。
湊が黙る。
「私、別に嬉しくないよ」
「……え?」
「ほらねって言いたいわけじゃない」
「うん」
「私の方が正しかったでしょ、とも思ってない」
自分でも驚くほど、声は平坦だった。
沙耶の告白を見た瞬間。
ほんの一瞬だけ。
だから言ったじゃん。
そう思った。
確かに思った。
でも、それだけだった。
そのあとに押し寄せてきたのは、達成感でも優越感でもない。
ただ、妙に空っぽな感覚だった。
「一人に告白されたからって、男女の友情が全部ないって証明されたわけじゃないし」
「それは……まあ」
「美咲さんと湊は本当に友達だったでしょ」
「うん」
「だったら、私が全部正しいわけでもない」
「……うん」
「でも、湊も間違ってた」
湊が黙る。
「自分がその気じゃなかったら何も起きないって、ずっと思ってたでしょ」
「そういうつもりでは」
「思ってたよ」
由奈は静かに言った。
責めるつもりで言ったわけではなかった。
でも、これはたぶん事実だった。
「だって私が男の人と二人で映画行っても平気なんでしょ」
「それは今も――」
「うん。分かってる」
由奈は小さく頷いた。
そこは、今も変わっていないのだろう。
湊は由奈を信じている。由奈が誰かに言い寄られたとしても、由奈自身が断ればそれでいい。そう考えている。それは筋が通っている。誠実ですらある。
だからこそ、簡単には否定できない。
「この前、おじさんと会ったときさ」
「うん」
「私、ちょっとだけ湊の反応見たんだよね」
「やっぱり?」
「ほんのちょっとだけ」
「何だよ」
「でも、おじさんを男友達だって嘘つく気にはならなかった」
「うん」
「私、できないんだと思う」
「何が?」
由奈は少しだけ歩く速度を落とした。
「自分が嫌だって思ってること」
湊は何も言わず、隣を歩いている。
「私が男友達と二人で映画行って、湊がどういう反応するのか見れば、もっと分かりやすかったのかもしれない。でも、それしたくなかった」
「……うん」
「だって私、恋人がいたらやらないから」
言葉にしながら、自分の中にあったものが少しずつ形になっていく。
「たまたま仕事終わりにお茶するとか、二人で話すとか、それくらいは全然あると思う。でも、休日に約束して二人で映画見て、ご飯食べてっていうのは、私はしない」
「うん」
「湊に禁止されてるからじゃなくて、自分がそうしたいから」
「……うん」
「それが私の中では、付き合うってことの一部なんだと思う」
今まで、自分でもよく分からなかった。
嫉妬してほしい。束縛してほしい。そういうことなのかと思ったこともある。
けれど、たぶん少し違う。
「私ね」
由奈は言った。
「自分が他の男の人と二人で遊びに行ったら、湊に嫌がってほしいって思ってた」
湊が少しだけ目を見開く。
「でも多分、それもちょっと違った」
「じゃあ、何?」
由奈はすぐには答えなかった。
夜の駅前を、何人もの人がすれ違っていく。
誰かの笑い声。車の音。遠くの信号機が切り替わる電子音。
その中で、自分の考えを探す。
「……同じようにしてほしかったんだと思う」
「同じように?」
「私が湊を特別にしてるのと、同じ形で」
湊は何も言わなかった。
由奈は続ける。
「私は恋人ができたら、他の男の人との距離を少し変える。それが普通だと思ってた」
「うん」
「でも湊は変えない」
「……うん」
「女友達も友達のまま。映画にも行くし、飲みにも行くし、相談にも乗る。その上に私がいる」
「俺の中では、その方が――」
そこで湊が口を開いた。
由奈は今度は遮らなかった。
「由奈は全然別なんだよ」
「うん」
「美咲も沙耶も、他の女友達も、由奈と同じところに並べてるわけじゃない」
「分かってるよ」
「本当に?」
「分かってる」
由奈は本当に分かっていた。湊は由奈を軽く扱っているわけではない。
むしろ逆だ。由奈のことをきちんと恋人として特別に見ている。
一緒に暮らしている。将来のことも考えている。由奈を信じている。
たぶん湊は、湊なりにかなり真剣に愛している。
だからこそ困る。
「湊は足すんだよね」
「足す?」
「友達は友達のまま。その上に恋人っていう関係を足す」
湊は少し考えてから頷いた。
「たぶん」
「私は引くんだと思う」
「引く?」
「恋人ができたら、他の異性との関係から少し引く。二人きりで会う回数とか、距離とか。そこを空けて、恋人を入れる」
自分で言っていて、由奈は少しだけ腑に落ちた。
それまで曖昧だった違いが、ようやく言葉になったような気がする。
「だから、私たちの特別って、形が違うんだよ」
湊はしばらく黙っていた。
夜の街は明るい。人通りもある。二人だけの世界ではない。
それなのに、今はやけに静かに感じた。
「……じゃあ俺、どうしたらいい?」
湊がようやく言った。
その質問に、由奈はすぐには答えられなかった。
以前なら、
美咲と二人で会わないで。女友達と二人で映画に行かないで。
そう言えたかもしれない。
けれど今は、それを言って終わりにしていいのか分からない。
「分かんない」
また、その答えになった。
湊が困った顔をする。
「ごめん」
「いや」
「本当に分かんない」
今さら湊が、
じゃあこれから女友達とは二人で会わない。
そう言ったとして、自分は喜べるのだろうか。たぶん少しは嬉しい。でも……
私が嫌だと言ったからでしょ。
本当は平気だと思ってるんでしょ。
そう考えてしまう自分も、簡単に想像できた。
それはあまりにも面倒だ。自分でもそう思う。
「なんかさ」
由奈は小さく笑った。
「沙耶さんに告白される前の方が、まだ簡単だったかも」
「なんで?」
「私が勝手に不安になってるだけって思えたから」
「由奈が勝手にってことは」
「そういう意味じゃないよ」
「うん」
「でも、実際に起きちゃったら、じゃあどうするのってなるじゃん」
湊は少し俯いた。
「俺、もう女友達と二人で会わない方がいい?」
由奈は横を見る。湊は真面目だった。本気で聞いている。
自分なりに、由奈が傷つかない方法を探そうとしている。
それが分かる。だからこそ。
「それ、私が決めるの?」
由奈は聞いた。
湊が言葉を詰まらせる。
「私が嫌だって言ったからやめるの?」
「それは……」
「私がいいよって言ったら、今まで通り?」
「……」
「ごめん。責めたいわけじゃない」
本当にそうだった。
湊に「こうしろ」と命令したいわけではない。
由奈が欲しいのは、たぶん規則ではない。
「湊がどうしたいかは、湊が考えてよ」
由奈は言った。
「私がどう思うかはもう言ったから」
「うん」
「湊は、自分がこれからどうするか、自分で決めて」
それ以上は言わなかった。
湊も何も言わなかった。二人でまた歩き始める。
手は繋がなかった。
喧嘩をしたわけではない。別れ話をしているわけでもない。好きではなくなったわけでもない。むしろ由奈は今も湊が好きだった。
たぶん湊も、自分を好きでいてくれている。
それなのに今までより、ほんの少しだけ遠くにいるような気がした。
沙耶に告白されたからではない。
湊が誰かに奪われそうだからでもない。
ただ自分と湊が同じだと思っていたところが、実は違っていた。
その違いを、今までよりはっきり知ってしまったからだ。
私は、あなたが嫌かもしれないことをしない。
あなたは、私なら大丈夫だと信じている。
どちらも、相手を大切にしているつもりなのだ。
どちらも、たぶん愛情なのだ。
なのに……こんなにも違う。
自分の方が正しいと言い切ることもできない。
湊が間違っていると言い切ることもできない。
分かり合えないのなら別れればいい、と簡単に決められるほど気持ちは軽くない。
好きだから、分かってほしい。
好きだから、無理に変わってほしくない。
好きだから、自分だけが我慢するのも嫌だった。
その全部が同時に胸の中にあって、どれか一つを選ぶことができない。
由奈には、その違いをどうすればいいのか、まだ分からなかった。
ただ一つ。
「ほら、私の言った通りだったでしょう」
そう言えたはずの夜に、少しも勝った気すらしなかった。
むしろ、自分たちの間にあった溝の形が、以前よりはっきり見えるようになってしまった。
それが好きな人との間にあるものだったからこそ、たまらなく虚しかった。




