婚約披露の場で、王太子が見ていたのは婚約者ではなく私でした
王太子の婚約披露の式文を、私が書く。
相手は私ではない。
それなのに殿下は、困るといつも私を見る。
今日くらい、見ないでほしかった。
王宮文書局の窓辺で、私は白羊皮紙の端を揃えながら、廊下の向こうを行き交う女官たちの声を聞いていた。
冬の終わりの光が石の中庭を薄く照らしている。
今日、公爵令嬢セラフィナ・アルヴェルが、正式に王太子セヴラン・エルメディア殿下の婚約者として王宮へ迎えられる。
祝うべき話だ。
家格も、教養も、美しさも、何ひとつ不足がない。東方貴族との結びつきは強まり、王位継承をめぐる火種もひとつ消える。
反対する理由など、王国のどこにもない。
だから私は反対しない。
できるはずもない。
ただ、机の上の紙束から目を離せなかった。
昨日、殿下が確認のために目を通し、最後に仮署した一枚。整った署名の最後の跳ねだけが、ほんのわずかに乱れている。
紙の端には、指でこすった浅い跡まで残っていた。
癖が出ている。
王太子セヴラン殿下は、緊張すると左の親指で右手の爪の脇をこする。
それを知っているのは、もうたぶん、私だけだった。
誰にも知られていない小さな癖を知っている。
それだけのことで、どうしてこんなに苦しいのだろう。
馬鹿みたいだ、と自分でも思う。
文字の温度差。署名の揺れ。文面の嘘。
誰に教わったわけでもないのに、そういうものだけは昔から妙に指先に馴染んでいた。
夜更けまで書類を捌いていると、ごく稀に、見たこともない白い灯りの下で、誰かの書いた文へ赤い印を入れて差し戻していた気がすることがある。
夢にしては生々しい、知らない手つきの記憶。
けれど今は、そんなことはどうでもよかった。
私が書くのは、好きな男が別の女へ誓うための文だ。
それだけで充分に、朝は最悪だった。
◇◆◇
私――イリゼ・ヴァルディンが、初めてその癖を見たのは十二年前のことだ。
まだ殿下が「殿下」と呼ばれることに慣れていなかった頃。母は王妃教育係の補佐をしていて、私はよく学習室の隅で写本の端切れを束ねたり、使い終わった羽根ペンを洗ったりしていた。
紙とインクと蝋の匂いは、昔から私を落ち着かせた。人の顔色より、乾ききる前の墨の艶のほうが信じられる気がしていた。
その日、幼いセヴラン様は諸侯の前で短い朗読をするはずだった。
けれど本番の直前になって声が詰まり、読み上げる紙を持つ手が震えてしまった。
皆が散ったあと、私は書庫の奥でしゃがみこんでいる彼を見つけた。
王族らしくない泣き方だった。大声では泣かないくせに、息だけが浅くなって、左の親指でずっと右の爪の脇をこすっていた。皮が少し剥けて、赤くなっていたのを覚えている。
「そこ、血が出ます」
私が言うと、彼は顔を上げた。睫毛が濡れていた。
「見たのか」
「はい」
「忘れろ」
「無理です。今、目の前でやっていますもの」
私が差し出した布を、彼はしばらく見ていた。やがて受け取って、指を包んだ。
「お前、慰め方が下手だな」
「慰めていません」
「なお悪い」
それが、私たちの最初の会話だった。
そのあと彼は、私の前でだけ時々その癖を見せた。難しい歴史書を読む時。
初めて舞踏会で挨拶する前。父王に叱責された夜。
加減を覚えたのか、成長するにつれて目立たなくなったけれど、完全には消えなかった。
私はそれを見るたび、なぜか少しだけ安心した。
この人は、完璧な王太子になる前に、一度だけちゃんと子どもだったのだと。私が知っているのは、その小さな証拠なのだと。
そして、そう思えることそのものが、少しずつ私をだめにした。
最初は憐れみだったのかもしれない。
次は親しさだった。
その次は、もう認めたくなかった。
好きになってしまえば、終わると思っていた。
だってこの人は王太子で、私は文書局の娘で、何より私は、彼に近すぎるくせに、選ばれる場所にはいない人間だったから。
だから私は、好きだと認めないまま長くいた。
認めなくても、好きなものは好きだった。
それだけのことに、ずいぶん長く気づかないふりをしていた。
◇◆◇
「イリゼ」
低い声に顔を上げると、本人がいた。
いつの間にか文書局の扉のところに、殿下が立っていた。
侍従も連れず、一人で。
銀味を帯びた金髪。
整いすぎていて、近くで見ると逆に腹が立つ顔立ち。
けれど左の親指は今まさに右手の爪の脇へ触れかけていて、そのせいで彼はまだ絵姿の王太子になりきれていなかった。
「式文、できているか」
「清書前の草稿は。ですが、殿下ご自身でお読みになってからでなければ」
「君が書くものを、僕は疑わない」
「そう言っていただけるのは光栄ですが、今日は疑ってください。婚約披露の文です」
殿下はふっと笑った。
「君はこういう時だけ、やけに冷たいな」
「こういう時だからです」
思ったよりきつい声が出た。
殿下は机へ近づき、仮署の乱れを見つけて、少しだけ眉を寄せる。
「……また出ていたか」
「出ておりました」
「君は本当に嫌なところばかり見つける」
「殿下が見つけてほしくないところばかり残されるからです」
言ってしまってから、少しだけ後悔した。けれど殿下は怒らなかった。
ただ、昔みたいに少し困った顔をしただけだった。
「君は、僕が王になる頃には、そういうものを見ないふりくらい覚えていると思っていた」
「残念ながら」
「残念だ」
口ではそう言いながら、その声音がわずかに安堵しているのを、私は聞いてしまった。
だから困る。
そういうところが、どうしようもなく困るのだ。
彼は草稿を二枚ほどめくってから、私の顔を見た。
「君は今日の相手を嫌っているのか」
唐突だった。
「嫌ってはおりません」
「好きでもない」
「好き嫌いを差し挟む立場ではありませんので」
「そういう答え方をする時は、たいてい好きではない」
私は返事をしなかった。殿下も追及しなかった。ただ紙の上に視線を落とし、その整えられた文の行間を読むように黙っていた。
しばらくして彼は言った。
「君は昔から、必要なことだけ残すな」
「不要なものが多いのです」
「僕にとっては違うこともある」
言い終える前に、左の親指がまた右手の爪の脇へ触れた。あまりにも古い仕草で、私は反射的に言ってしまった。
「血が出ます」
殿下の手が止まった。次いで、彼はふっと笑った。ひどく静かな、子どもの頃を思わせる笑い方だった。
「覚えていたか」
「忘れません」
「そうだろうね」
彼はそれ以上何も言わずに出ていった。
扉が閉まったあと、文書局には紙をめくる音すら残らなかった。
私は草稿の余白を見つめたまま、呼吸を整えた。
人の感情が揺れるたび、私はどうしても文面を整えたくなる。削って、揃えて、差し戻して、なかったことにしてしまいたくなる。
それはきっと、傷つく前に自分で終わらせる癖だ。
私は昔から、好きなものを好きだと言うより先に、きちんと畳んで棚へ戻してしまう。
今日だってそうだ。
好きな男の婚約文を、自分で整えている。
◇◆◇
セラフィナ・アルヴェルは、噂通りの人だった。
美しかった。いや、美しいというより、整っていた。
ひとつも余分のない薔薇のような人だと思った。長い睫毛の影まで計算されているように見えるのに、本人に作為がないのがさらに腹立たしい。
そして賢かった。
王宮へ入って三日も経たないうちに、主要な家臣の名と派閥、夜会の席順、王妃教育の進度まで頭に入れていた。誰に対しても笑みを崩さず、それでいて決して媚びない。正しさに、ちゃんと体温のある人だった。
私は文書局の控えの間で、彼女に茶会用の招待状束を渡した。
「ありがとうございます、イリゼ様」
声まで美しい。反則だ。
「殿下のお好みで、確認しておいた方がよいものはありますか」
ただの事務連絡だ。分かっている。
「殿下は香りの強い香辛料をあまり……」
「ええ、伺いました。けれど、嫌いというより、体調の悪い時だけ匂いに敏感になるのですよね」
私は一瞬、言葉を失った。
殿下が幼い頃、高熱のあとだけ肉桂の匂いを嫌がったことを知っているのは、ごく限られた人間のはずだった。
たぶん、殿下ご自身が話したのだ。
それが、ひどく腹立たしかった。
「そこまでご存じなのですね」
つい、声が硬くなった。
けれどセラフィナは気づかないふりをした。ただ微笑んで、こう言った。
「ええ。ですが、昔から知っていたわけではありませんから。ご存じのことがあれば、また教えてくださいませ」
その“昔から”の一言だけで、胸の内側を撫でられたような気がした。
私は頭を下げた。
「必要なことでしたら」
「必要なこと、ですか」
彼女は小さく繰り返し、少しだけ首を傾げた。
「あなたは、殿下のことを、よくご存じなのですね」
それは穏やかな声だった。棘も悪意もなかった。
それなのに、私はたまらず答えてしまった。
「ご存じ、ではありません」
自分でも驚くほど低い声だった。
「私は、見てきました」
セラフィナは、ほんの一瞬だけ黙った。けれどすぐに表情を戻し、静かに言った。
「そうでしたか。でしたら、なおさら――これから先を知るのは、私の役目ですわね」
綺麗な返しだった。完璧なくらいに。
私はその場では頭を下げるだけで済ませた。けれど内側では、何かが薄く裂けていた。
見てきた。
その言葉を口にした瞬間、自分の持っていたものが急に安っぽくなった気がした。
長くいたことは、名目のない親しさにすぎない。
親しさは、肩書きにならない。
肩書きにならないものは、たいてい誰かの都合のいい場所でしかない。
彼女の指には婚約の印章が光っていた。
私の指には、いつものように薄いインクの汚れだけがついていた。
比べるまでもないのに、比べてしまう自分が、たまらなく嫌だった。
◇◆◇
その日の夕方、私はひとつだけ、くだらないことをした。
翌日の私的な茶会に出す菓子の相談に来た料理長へ、殿下の好みとして、蜂蜜漬けの柑橘を焼き込んだ小さなタルトを勧めたのだ。
子どもの頃、熱を出したあとだけ殿下が食べたがったものだった。
今の彼が好物として口にすることはほとんどない。覚えているかも怪しい。けれど、もし覚えていたなら。
ただ、それだけだった。
ただ、それだけのことをしたかった。
茶会の席で、その皿が運ばれてきた時、殿下はほんの一瞬だけ目を見開いた。次いで、あの頃の、王太子らしくない笑い方をした。少しだけ口元の片側が先にほどける、幼い日の名残みたいな笑い方。
「懐かしいな」
と、彼は言った。
その一言だけで、私はひどく満たされた。
ああ、まだ私が先だ、と。
その夜、私は自分の浅ましさに吐き気がした。
けれど本当は、吐くほど嫌でもなかった。むしろ、あの笑い方を取り戻した時間を、胸の内側で何度もなぞっていた。
最低だった。
最低であることまで含めて、あれはほとんど快感だった。
恋なんかではない、と思ってきた。
でも、違った。
これはちゃんと恋で、そのうえ、とてもたちの悪い恋だった。
◇◆◇
「わざとでしょう」
数日後、王宮の書庫で、セラフィナは背表紙をなぞるように言った。
誰もいない午後だった。高い窓から落ちる光の中で、彼女の金糸の刺繍だけが静かに光っている。
「何のことでしょう」
「焼き菓子のことです」
やはり、気づいていた。
私は黙った。
「叱るつもりはありません」と、彼女は言った。
「むしろ当然かもしれません。長く見てきた方なら、ああいうことも、したくなるでしょうから」
言い方は穏やかなのに、逃げ場がなかった。
「殿下の昔をご存じなのは、あなたの財産なのでしょうね」
彼女は一冊の古い史書を棚へ戻した。
「けれど、財産は使い方を誤ると、人を貧しくします」
「説教ですか」
「いいえ。確認です」
彼女はそこで初めて、私をまっすぐ見た。
「私は殿下の未来を受け取りに参りましたのであって、どなたかの過去の続きを名乗るためではありません」
それは静かな言葉だったのに、ひどくよく切れた。
私の喉が熱くなる。
「あなたは殿下を愛しているのですか」と彼女は続けた。「それとも、あなたしか知らない殿下を愛しているのですか」
息が詰まった。
そんな問い、今まで自分に向けたこともなかった。
「……違いがありますか」
「あります」
彼女はためらわなかった。
「人は変わりますもの。昔のままでいてほしい相手を愛するのは、たいてい、その人ではなく自分の記憶です」
痛かった。
それでも私は負けたくなくて、くだらないことを口にした。
「では、あなたは殿下の未来を愛しているのですか」
「いいえ」
即答だった。
「私は、殿下が未来へ変わっていく時に、自分の知らない顔を持つことを受け入れるつもりでおります。それが結婚だと思っております」
綺麗すぎて、嫌になる答えだった。
私は笑った。笑うしかなかった。
「立派ですね」
「立派でなければ、この立場には立てません」
彼女は少しだけ表情を和らげた。
「ですが、立派であることと、痛くないことは別ですわ」
その言葉だけは、妙に本音に聞こえた。
私は何も言えなかった。
帰り際、彼女は扉の前で一度だけ振り向いた。
「あなたは殿下を見ていたのではなく、殿下がまだ誰のものでもなかった時間を見ていたのでしょう」
書庫の中で、どこかの棚の木が小さく鳴った。
それだけの音で、言い返せないことがはっきりした。
◇◆◇
婚約披露の式文は、三度書き直した。
一度目は、公務として正しすぎた。
二度目は、あまりに温度がなかった。
三度目は、私が書いているくせに、私が聞きたくない言葉ばかり並んだ。
――王国の未来を、あなたと共に。
――民のために、この手を取る。
――互いの名誉と責務を、終生尊ぶ。
美しい。完璧だ。
だから、ひどくつまらなかった。
深夜、最後の紙を乾かしていると、扉が叩かれた。
「入っても?」
殿下だった。
私は慌てて立ち上がろうとしたが、彼は手で制した。
「そのままでいい。今日は王太子としてではなく、式文の被害者として来た」
「被害者とは失礼な」
「君の文章はいつも正しい。だから困る」
彼は机の向かいに立ち、三枚の草稿へ目を落とした。しばらく黙って読んで、それから静かに息をつく。
「……どれも美しいな」
「ありがとうございます」
「でも、どれも僕が言うにはきれいすぎる」
私は思わず彼を見た。
殿下は苦笑する。
「こういう場で求められるのが、僕自身の言葉ではないことはわかっている。わかってはいるけれど、君が僕のために書くと、時々、僕は君の文の中で一番うまく死ぬ」
胸が痛んだ。
「王太子として必要な文です」
「そうだろうね」
彼は一枚を持ち上げる。末尾、私が整えた彼の署名欄へ視線を落とした。
「君はいつも、僕の言葉の余分を削る」
「余分ではなく、不要です」
「僕にとっては違う。必要だ」
その瞬間、左の親指がまた右手の爪の脇へ触れた。そしてまた、私は反射的に言ってしまった。
「血が出ます。何度言えば――」
殿下の手が止まった。
次いで、彼はふっと笑う。ひどく静かな、子どもの頃を思わせる笑い方だった。
「血は出る」
彼は少し黙ってから、低く言った。
「イリゼ。君は、僕が王になる頃には、そういうことを見ないふりができるようになると思っていた」
「……殿下」
「でも、君はいまだに見る。昔と同じところを」
言葉が続かなかった。
殿下は紙を置いた。
「君にだけは、知られていたかった」
その一言で、私の中の何かがひどく浅ましく跳ねた。
けれど次の瞬間、私は気づいた。それが愛ではなく、選ばれた証拠のように感じられてしまったことに。
最低だ。
私は唇を噛んだ。
「でしたら、なおさら、式文は完璧でなければなりません」
「君は本当に容赦がない」
「あると思いましたか」
「少しは」
彼はそう言って、私の横を通り過ぎた。扉の手前で一度だけ振り返る。
「もし僕が、明日あの場で間違えたら」
「間違えません」
「君はそう言うと思った」
ほんの少しだけ肩をすくめて、殿下は出ていった。
扉が閉まったあと、私は長い間、動けなかった。
彼が言った知られていたかったは、私を慰める言葉ではない。慰めではなく、もっと質の悪いものだ。
人は時々、愛しているからではなく、愛さなくて済む相手にだけ、弱いところを見せる。
そういう関係の卑怯さを、私は知っている。知っているのに、なおそこに残りたがる自分の方が、ずっとひどい。
好きだ。
ずっと好きだった。
なのに私は、その気持ちを口にしないことで、自分だけは傷つかずに済むと思っていた。
最低なのは、たぶん彼だけじゃなかった。
◇◆◇
翌日、婚約披露の広間は、息苦しいほど美しかった。
白い石の床、青金の幕、王家の紋章。高位貴族と諸侯の視線が壇上へ集まっている。私は文書局の末席で、式文の最終控えを抱えていた。
セラフィナは完璧だった。
薄青のドレスは季節の光みたいで、彼女が一歩進むたび、場の空気が整っていくようだった。
殿下もまた、完璧に見えた。
見えた、だけだった。
指先を見なければ。
式次第は滞りなく進む。
父王の宣言、神官の祝詞、婚約証書の読み上げ。
最後に、王太子自らが誓文を述べ、署名するだけ。
殿下が一歩前へ出る。
私は息を止めた。
左の親指が、右手の爪の脇を一度、二度、こすった。
ここまで強く出るのは、幼い頃の朗読会以来かもしれなかった。
誰も気づいていない。
そう思った、その時。
「お待ちくださいませ」
澄んだ声が広間を裂いた。
言ったのは、セラフィナだった。
場がざわめく。神官が目を見開き、父王の眉が動く。
彼女は静かに壇の中央へ進み出た。その顔には、いつもの整った微笑みがなかった。
「この誓文は、殿下のお言葉ではありません」
空気が凍った。
私の心臓が落ちる。
殿下は彼女を見た。驚いていたが、怒ってはいなかった。
「セラフィナ」
「お許しを。けれど、私、これを受け取れません」
彼女ははっきり言った。
「整いすぎているからではありません。美しいからでもありません。ただ――殿下がいちばん見ている方が、私ではないとわかってしまったからです」
広間がざわついた。
私は指先から血の気が引くのを感じた。
父王が声を荒げかけたが、セラフィナは続けた。
「私は、誰かの代わりに選ばれるつもりはありません。責務でも、体裁でもなく、きちんと望まれて受け取られたいのです」
その視線が、ほんの一瞬だけ私をかすめた。
「そして私は、殿下の過去に勝つためにここへ来たのでもありません」
殿下はしばらく黙っていた。やがて、ゆっくりと式文を閉じる。
「……すまない」
王族の声ではなかった。
一人の男の、低くて、まっすぐな声だった。
「君を侮ったわけではない。だが、僕はたぶん、最初から君に渡せるものを持っていなかった」
セラフィナは小さく息をつき、少しだけ笑った。
「ええ。ですから、お返しいたします」
彼女は婚約の印章を外し、神官へ返した。
きっぱりとしていて、ひどく美しかった。
「私は、完璧な王妃である前に、私でいたいのです」
それで終わりだった。
彼女は泣きもせず、責めもせず、ただ正しい手つきで婚約を終わらせた。
そして去り際、誰にも聞こえないほどの声で、私にだけ言った。
「次は、逃がさないでくださいませ」
私は返事ができなかった。
◇◆◇
広間がざわめきに満ちる中、殿下は父王の制止も聞かずに壇を下りた。
まっすぐ、私の方へ。
逃げる暇もなかった。
「イリゼ」
名を呼ばれた瞬間、十二年前の書庫と同じ息苦しさが喉に戻った。
「来い」
「殿下、今は――」
「今だからだ」
広間の隅の小扉、その向こうの回廊まで引かれて、私はようやく息を吐いた。
殿下は私の前で立ち止まる。さっきまで数百の視線を受けていた人の顔ではない。子どもの頃、失敗を隠して書庫に逃げ込んだ時と、同じ目をしていた。
「君が書いた誓文を、僕は読めなかった」
「……はい」
「正しかったのに」
「はい」
「でも、君もわかっていたんだろう」
私は答えられなかった。
わかっていた。あの文が正しすぎて、彼を消すことを。わかっていたのに、書いた。
彼が王になるために必要だと思ったから。
――違う。
半分は、そうしておけば自分の方が傷つかずに済むと思ったからだ。
黙る私を見て、殿下は苦く笑った。
「君を選ばなかったんじゃない」
低い声だった。
「君は、選ばずに済む場所にいた」
その一言は、思ったよりずっと深く刺さった。
息が止まる。
痛みより先に、理解が来た。
そうだ。彼は私を遠ざけたのではない。近すぎるからこそ、選ぶという行為そのものから外していた。呼べば来る場所。頼めば書く場所。失っても、失ったと呼ばなくて済む場所。
笑ってしまった。
笑えてしまったことが、ひどく惨めだった。
「ひどい方」
「知っている」
「今さら、そんなふうに言うんですか」
「今しか言えない」
「遅すぎます」
思ったより強い声が出た。
殿下は黙ったまま私を見ている。
「私はずっと、あなたのために書きました」
止まらなかった。
「あなたが欲しい言葉を整えて、言えないことを飲み込んで、見て見ぬふりをして、平気な顔で隣に立ってきたんです」
喉が焼けるみたいに熱かった。
「なのにあなたは、私を選ばないままそばに置いた」
涙が滲む。
「優しいふりで、安全なふりで、私が逃げられない場所へ置いた」
「イリゼ――」
「聞いてください」
初めて遮った。
殿下の目がわずかに揺れる。
「私は王太子妃になりたかったわけじゃありません」
声が震えた。
「私は、あなたに好きになってほしかったんです」
もう、言ってしまった。
「特別だと思われたかった。呼べば来る女じゃなくて、いないと困る女になりたかった。誰かの代わりじゃなくて、最初に欲しいと思われたかった」
涙が頬を伝う。
「ずっと好きでした」
もう止まらなかった。
「最初から好きでした。あなたが泣いて、格好悪くて、血が出るまで爪をこすっていた時から。大人になっても、綺麗に笑って、上手に誤魔化して、それでも私の前では少しだけ隠さないあなたが、ずっと好きでした」
息がうまく吸えない。
「だから苦しかったんです。婚約文を書くたびに。別の人を選ぶたびに。平気な顔をするたびに」
とうとう、声が崩れた。
「私だって女なんです」
その一言を、私はほとんど吐き出すように言った。
「見てほしかった。触れてほしかった。選んでほしかった」
沈黙。
長く、痛い沈黙だった。
殿下はしばらく何も言わなかった。
ただ、まっすぐに私を見ていた。
やがて、掠れた声で言った。
「……それを聞いたら、もう戻れない」
「戻る気なんてありません」
私が泣きながら言うと、殿下は一度だけ目を閉じた。
「僕はずっと、君をそばに置いていたかった」
低い声だった。
「でも、欲しいと言ったら壊れる気がした。君を巻き込んだら、君まで傷つくと思った。だから一番安全で、一番近くにいられる場所へ置いた」
「それはやさしさなんかじゃありません」
「わかってる」
「卑怯です」
「わかってる」
「最低です」
「知ってる」
そこで、彼はゆっくり私へ近づいた。
「でも、もうやめる」
心臓が痛いくらいに跳ねる。
「イリゼ。僕は君を手放したくない」
まっすぐだった。
飾りも、逃げ道もなかった。
「昔を知っている君が欲しいんじゃない。今の僕に腹を立てる君が、泣いて、怒って、好きだと言ってしまう君が」
あと一歩で触れる距離まで来て、彼は止まる。
「欲しい」
その一言で、胸の奥がひっくり返った。
「都合のいい場所に置いたままにしたくない。隠れたまま好きでいさせたくない。誰が見ても、僕が選んだのは君だとわかる場所へ連れていきたい」
私はうまく息ができなかった。
「イリゼ・ヴァルディン」
低く、熱のある声だった。
「僕の隣に来てくれ」
そこで一度、彼は言葉を切った。
「肩書きより先に、まず、僕が愛する女として」
もう駄目だった。
こんなの、ずるいに決まっている。
「……セラフィナに、顔向けできません」
「彼女には僕が詫びる」
「王国が許しません」
「許させる」
「無責任です」
「君のことだけは、もう曖昧にしたくない」
私は泣きながら笑ってしまった。
「返事をくれ」
急かさないくせに、待つ気もない声だった。
「好きです」
私が言うと、殿下の目が揺れた。
「昔から、ずっと」
「うん」
「だから、今さら逃げられても困ります」
そこで、やっと彼は笑った。子どもの頃の名残を残した、あの片側からほどける笑い方で。
「逃げない」
「……本当ですか」
「君が呆れるくらい、愛す」
その言葉は、甘すぎて、まっすぐすぎて、ほとんど暴力だった。
私は顔をぐしゃぐしゃにしたまま笑った。
「じゃあ、証明してください」
殿下の目が細くなる。
「どうやって?」
「二度と私を、都合のいい場所へ戻さないでください」
「戻さない」
「隠さないでください」
「隠さない」
「呼びつけないでください」
「じゃあ迎えに行く」
「……そういうところです」
言いながら泣いている私を見て、殿下はたまらないものを見るみたいに息を吐いた。
「次に泣く時は」
彼の声が近い。
「僕のいないところで泣くな」
その一言で、また涙が溢れた。
「僕のせいで泣くなら、僕が抱きしめる」
もう限界だった。
頷いた途端、彼の腕が私を強く包み込んだ。
王太子の抱擁なんて、もっと上品なものかと思っていた。全然違った。ただ好きな女をやっと捕まえた男の腕だった。
「遅すぎます」
「本当にそうだ」
「ずっと好きだったのに」
「……うん」
「ずっと、言えなかったのに」
「ごめん」
その謝り方があまりに真っ直ぐで、余計に泣けた。
私は彼の服を掴んだ。
「もう、私をあの場所に置かないでください」
「置かない」
「本当に」
「誓う」
「綺麗な誓文じゃなくて?」
「君相手には、もう綺麗にできない」
思わず笑ってしまうと、彼は腕の力を少し緩めて私の顔をのぞきこんだ。
「イリゼ」
「はい」
「好きだ」
たったそれだけなのに、世界が揺れた。
「君が好きだ。昔から。僕が情けない時ほど、最初に君の顔が浮かんだ。隠せない顔を見せるのはいつも君だった。たぶん、ずっと前から、君だけだった」
「そんな大事なこと、どうして今まで言わなかったんですか」
「言ったら、本当に欲しくなると思った」
「今さらです」
「うん。今さらだ」
彼はそう言って、私の額に唇を寄せた。
触れるだけのキスだったのに、膝が抜けそうなくらい甘かった。
◇◆◇
婚約披露の破談は王宮を揺らした。
当然だ。
けれどセラフィナ・アルヴェルは一度も私を責めなかった。それどころか三週間後、東方との新たな通商使節として王都を発つ前、文書局へ一通の短い手紙を寄越した。
封を切ると、たった二行だけ。
――昔を知っていることは、罪ではありません。
――ただし、それを未来へ連れていく覚悟があるのなら。
私はその紙を、しばらく机の引き出しにしまっておいた。
その頃の王宮は大混乱だった。父王は激怒し、重臣たちは新たな縁談候補を持ち込み、新聞は連日、王太子の軽挙だの文書局の女だのと好き勝手に書き立てた。
私は差し戻しと釈明文書の山に埋もれた。
こういう火消しの文面だけは、なぜだか初めてではない気がする、と私は時々思った。
誰かの体面を守りながら、核心だけは通す言い回し。
責任の位置を曖昧にせず、それでいて敵を増やしすぎない文章の温度。
誰に習ったのか、私は知らない。
ただこの世界の私より、少しだけ古い私が、そういう手つきを覚えている気がした。
けれど、たぶん、もうどうでもよかった。
いま大事なのは、前に何者だったかではなく、いま誰といるかだったからだ。
セヴランは逃げなかった。
父王の前でも、評議会でも、正式に婚約破談の責任を引き受け、セラフィナに詫び、東方との友好を別の形で結び直した。
そのうえで、文書局補佐官イリゼ・ヴァルディンを王太子執務付きとして登用すると宣言した。
王宮はひっくり返った。
私は三回差し戻した。
二回は語句の問題で、一回は、そんな大事な任命書をどうして私が先に知らないのですか、という問題で。
「だから先に言ってくださいと申し上げたでしょう」
「言う前に差し戻されるかと思って」
「内容によります」
「今、差し戻してる」
「書式が甘いんです」
「そこだけ?」
「そこだけではありません」
そう言うと、セヴランは机越しに笑った。
「よかった。君がいつも通りで」
悔しいけれど、私も少しだけ笑ってしまった。
その日の帰り際、誰もいない廊下で彼は当然みたいに私の手を取った。
「な、何を」
「何って」
「人が見ます」
「見せるために繋いでる」
あまりに平然と言うので、私は言葉を失った。
「君を隠さないと約束した」
「だからって、いきなり……!」
「いきなりじゃない。遅すぎたくらいだ」
そう言って彼は、私の指へ自分の指を深く絡めた。
逃がさないとでも言うみたいに。
「明日からは、もっと堂々とする」
「堂々と、って……」
「廊下でも、庭でも、夜会でも」
さらりと言う。
「君を僕の隣に立たせる」
心臓が跳ねた。
「そんなの、反対する方がたくさんいます」
「させておけばいい」
「簡単に仰いますね」
「簡単じゃない」
彼はそこで少しだけ真面目な顔になった。
「だからこそ、やるんだ」
その声は低くて、強かった。
「長い間、君を曖昧な場所に置いた。その埋め合わせを、誰にも見えないところだけで済ませるつもりはない」
私は息を呑んだ。
「君を選んだことを、僕はちゃんと人の目の前へ出す」
欲しかったのは、たぶん、こういう言葉だった。
◇◆◇
春の終わり、簡素な誓約式が執り行われた。
以前のような華美な婚約披露ではなく、ごく限られた列席だけの、小さなものだった。
ざわめきが完全に消えたわけではない。それでも紙の上に落ちる午後の光だけは、妙に静かだった。
署名の瞬間、私はやっぱり彼の指先を見た。
セヴランは紙に向かう前に、ほんのわずか左の親指を右手へ寄せ、それから止めた。
気づいたのか、彼は横目で私を見る。
「出ているか」
「少しだけ」
「血は?」
「まだです」
「なら大丈夫だな」
「そうやって油断するから出るんです」
小声で言うと、彼は声を殺して笑った。
その笑い方は、昔の片側だけほどけるものではなくなっていた。けれど完全に別の笑い方でもなかった。古いものが消えたのではなく、形を変えて残っているのだとわかる。
署名は、今までで一番まっすぐだった。
整っていて、それでいて、最後の跳ねにだけ、かすかな揺れが残っていた。王になる男の名でありながら、まだ人の手で書かれたとわかる程度の揺れ。
私はその名を見ていた。
昔より少し遠く、前より深く。
◇◆◇
誓約式のあと、回廊へ出ると、遅い午後の光が床に長く伸びていた。
セヴランが隣で言う。
「イリゼ」
「はい」
「一つ、聞いてもいいか」
「どうぞ」
「君は今も、僕のいちばん古い癖を覚えている?」
私は彼の左手を見た。昔より傷の少ない指。けれど、緊張すると今も少しだけ寄る親指。
「ええ。忘れません」
「よかった」
「そんな確認、今さら必要ですか」
「必要だ」
彼は歩きながら、ほんの少しだけ声を落とした。
「僕はこれからもっと、王らしい顔を覚えるだろう。たぶん君が腹を立てるくらいに。言えないことも、隠すことも増える」
私は足を止めた。
「それでも、君だけは見抜いてほしい」
まっすぐだった。
「取り繕っても、誤魔化しても、無理をしても、君だけは僕を見つけて」
そんなことを言われたら、もうだめだ。
「……そんなことを言われたら、私は一生、あなたの指先ばかり見てしまいます」
「それでいい」
即答だった。
「一生見ていて」
そう言って、彼は私の腰を引き寄せた。
「……せ、誓約式の直後です」
「だから?」
「人が」
「もう夫婦だ」
さらりと言われて、私は一瞬言葉を失う。
その隙をついて、彼は耳元へ口を寄せた。
「呼べば来る女じゃない。今日からは、僕が迎えに行く妻だ」
心臓が止まるかと思った。
私はもう顔を上げられない。
「ずるい人」
「知ってる」
「今それを言いますか」
「今だから言う」
低く笑って、彼は私の左手を取った。
親指はもう爪の脇ではなく、私の指の節をゆっくりなぞった。
こする代わりに、離したくないと確かめるみたいに。
「イリゼ」
「……はい」
「好きだ」
また言う。
この人は、本当にもう隠さない。
「何度でも言う。君が恥ずかしがっても、赤くなっても、逃げたくなっても言う」
私は観念して彼を見上げた。
「そんなに言わなくても、聞こえています」
「聞こえていても言う」
「……どうしてです」
「君が長いあいだ、一人で抱えていたぶん」
息が止まった。
「これからは、僕が毎日言う」
「朝も、夜も?」
「足りないなら昼も」
「欲張りですね」
「君のことに関してだけは、そうする」
もう勝てないと思った。
私は小さく息を吸って、彼の胸元に額を寄せた。
「好きです」
「うん」
「昔から、ずっと」
「うん」
「たぶん、これからもっと好きになります」
その瞬間、彼がどうしようもなく嬉しそうに笑ったのがわかった。
「それ、今のうちに覚悟しておくべき?」
「もう遅いです」
「よかった」
「何がですか」
「君が僕に溺れる未来が、ちゃんと決まったこと」
真顔で言うから、顔が熱くなる。
「……最低です」
「知ってる」
次のキスは、額ではなかった。
ちゃんと、私が拒まないことを確かめてからの、甘くて、少しだけ長い口づけだった。
息が上手くできなくて、離れたあとも私は彼の服を掴んだままだった。
「……これは反則です」
「反則でもいい」
「王太子としてどうなんですか」
「夫としては、かなり本気だ」
そんなことを真顔で言うから困る。
私は顔を隠すみたいに彼の肩へ額を押しつけた。
ひどく恥ずかしい。
けれど、嫌ではない。少しも嫌ではない。
笑う気配がして、また耳元へ熱が落ちる。
「今夜は眠らせないから、先に言っておく」
私は真っ赤になったまま、彼の服をぎゅっと掴み直した。
「……知りません」
「知って」
「知りたくありません」
「じゃあ、今夜、教える」
低い笑い声がすぐ近くで響く。
悔しいのに、逃げたくない。
「イリゼ」
「……はい」
「今夜も好きだって言わせるから、覚悟して」
返事なんてできなかった。
できないまま、私はまた彼の服を掴み直した。
それだけで、たぶん全部伝わってしまった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
本作には、別の未来があります。
どちらも私の中では大切でしたが、今回はこの結末を正史として選びました。
同じ始まりから分かれた、もう一つの行き先も見届けていただけたら嬉しいです。
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