3.天使様は変貌し過ぎです
マリエルはクーニッツ伯爵邸を訪ねた。アルバートが帰国してから二日後、彼から大切な話があるので会いに行っていいかと手紙が届いた。それならば私がお邪魔しますと返信し、今日が約束の日だった。気が急いて約束より早い時間についてしまった。これでは約束の意味がなかったなと反省しつつ、執事に声をかければアルバートは庭で鍛錬中だと教えられたのでそこへ向かう。
そこには上半身裸で汗を流しながら真剣な表情で、木刀を力強く振るうアルバートがいた。カッコイイ! でも、その分天使様の要素が皆無!
「アル様。こんにちは。早く来てしまいました。申し訳ありません。お嫌でなかったら見学してもいいですか?」
彼は木刀を下げると私を見た。
「ああ、マリエル嬢。ちょうど切り上げようと思っていたところだ」
見学はなしですか。残念です。
「まあ、私のことは昔と同じようにマリエルと呼んで下さい。それにしてもアル様は随分と鍛えていられるのですね?」
アルバートは難しい顔をしながら、もごもごとマリエル……と呟く。練習? そんなに呼びにくいかしら。
私は彼の体をまじまじと見てしまう。普通の深窓の令嬢なら頬を染めて目を逸らすのかもしれないが、マリエルは鍛えられた素晴らしい体を前にして外聞など些事だとまったく気にしない。これほど立派な筋肉を見ないのはもったいない。それに婚約者(仮)なので問題ないはずと心の中で言い訳をする。(眼福だわ……。特にあの二の腕、太い~。腹筋もしっかりと割れている。はしたないと分かっているけど触ってみたい)
「アルバート様は騎士様なのですか?」
「そうだ。鍛錬は少しでも怠ればその分鈍る。船の上では思うようにできなかったので、取り返さないと」
生真面目な言葉は彼の性格なのだろう。逞しい体はたゆまぬ努力を裏付けるようだ。
そのとき生垣から大きな影が勢いよく現れた。その影は唸り声を発しながらこちらに向かって走ってくる。大きなドーベルマンだった。アルバートは瞬時にマリエルを背に庇いドーベルマンに向かって構えた。
目の前に現れた彼の大きな背中に驚いたが、ひょいと顔を出しすぐにドーベルマンを見て命じた。
「待て!!」
ドーベルマンはその場で止まり伏せをした。
「えっ?」
頭上から呆気にとられた声がした。
「ふふふ。ケニーはとってもいい子なので大丈夫です。私とはとっても仲良しですから。でも庇って下さってありがとうございます」
ケニーは私が来ると大喜びで駆けてくる。
アルバートはケニーに近づくと伏せているケニーの背中をわしわしと撫でた。その姿に私は目を丸くした。ケニーは他人に警戒心が強く簡単に触れることを許さないのだがアルバートにはまったく抵抗しなかった。自分より強いと認めたのか、人間性を見抜いたのか、両方だったりするのかもしれない。
「ケニーというのか。いい犬だな」
「はい。もう5歳です。私の大切な友達です」
私はアルバートの近況が気になりクーニッツ伯爵邸にちょくちょく顔を出していたので、ケニーとは遊び友達だ。
「さて、私はシャワーを浴びてくるから中で待っていてほしい。なるべく急いでくる」
「いえ、私が早くきてしまったのですからごゆっくりどうぞ」
私はアルバートを待つ間、応接室で侍女に出してもらったクッキー食べている。
彼は今後の事を何というだろうか。私はどうしたいのだろうか。ここに来るまでにいろいろ考えたが、アルバートと話さなければ結論は出せないと気付いて思考を放棄した。行き当たりばったりということになる。
しばらくして部屋に入ってきたアルバートは、急いでシャワーを浴びて出てきたようで髪がまだしっとりと濡れている。それはそれで色気があってなんとも……などと不埒な感想を抱いてしまう。
「マリエル。先日は話が出来なくてすまなかった」
「アルバート様は長旅の直後でお疲れだったのですから、お気になさらないで下さい」
首を横に振り大丈夫だと伝えた。
「ああ、そう言ってもらえるとありがたい。それで、話があるのだが……」
「はい」
そうは言ったもののアルバートは難しい顔をして口を開いては閉じてと口に出すのを迷っている。私はとりあえず待つことにしたが、彼はなかなか話し出さない。それほど躊躇うような言いにくいことなのだろう。そろそろ沈黙が耳に痛い。このままだとモスキート音とか聞こえてきそうだ。しびれを切らして私から話そうとしたらとうとう彼が口を開いた。
「マリエル。十年も待たせておいて勝手なお願いだが、婚約は白紙にさせて欲しい。本当に申し訳ない」
アルバートは頭が膝につくかと思うほどペコリと頭を下げた。
つむじが見える。逞しい姿とは違ってつむじが可愛い。
彼の言葉は予想していたのでショックはないのだが、さてどうしようかしら?