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さて突然ではあるけれど、僕、高比奈・吾郎は今、ちょっとした命の危機の真っ最中だ。
「おぉぉぅぃ、どぉこぉいったぁぁぁ? にげまわらずに、でておいでぇぇっ」
木陰に身を隠した僕に気付かず、おどろおどろしい声を発する何かは、のしのしと森を歩き回ってる。
身長は、二メートル五十センチか、或いは三メートル程もあるだろうか?
けれどもその巨体の半分以上は大きな大きな顔が占めており、身体や手足は太く短い。
見事に二頭身と言う奴だった。
一見人間に近いパーツが組み合わさった姿をしているが、当然ながら人間ではない。
少なくとも人間は、出会い頭に僕を取って食おうとなんてしないだろうし。
アレが何であるのかは、正しい所は僕にはわからないが、あの歪で恐ろしい割にどこか愛嬌を感じさせる姿から察するに、多分妖怪の類だろう。
そして妖怪であるならば、外見とその強さはそのままイコールではないケースが多かった。
僕は口元に笑みを浮かべながら、抱えていた学校指定の鞄の蓋を開ける。
中に入っているのは、文房具入れと今日の授業を纏めたノートが数冊。
教科書の類は重たいから学校の机に入れっ放し。
他の持ち物と言えば、ポケットの中の財布に定期入れ、スマートフォンに婆ちゃん謹製の守り袋だ。
ついでにハンカチとティッシュ。
勿論妖怪退治の道具なんて鞄の中には入っちゃいなかった。
だって僕がこの場所に招かれた、神隠しに遭ったのは、放課後、学校からの帰り道だったから。
僕はいたって普通の学生なので、あまり物騒な物を持ち歩くと教師に没収されるし、叱られる。
場合によっては警察のお世話になる事だってあるだろう。
とは言え市販の文房具も、これはこれでそう馬鹿にした物でもない。
僕は隠れ潜んだままに、ボールペンとカッターナイフ、ついでに鋏を取り出して工作を行う。
或いは、僕が危険を冒して妖怪と戦う必要はないのかも知れない。
このまま上手く逃げ隠れしていたら、恐らく然程の時を置かずに僕は元の場所へと帰れる筈だ。
でも但しその場合は、多分他の、全く見知らぬ誰かがあの妖怪の犠牲になる可能性は、決して低くなかった。
制作に掛った時間は二、三分。
僕は改造したボールペンを手に、隠れ潜んでいた木陰を出る。
姿を隠す事をやめたのだから、わざとらしく葉擦れの大きな音を鳴らして。
「いぃぃたぁぁあっ! いぃたぁだぁきぃまぁぁすっ!」
その効果は覿面だった。
少し離れた場所で僕を探していたのだろう妖怪は、ぐるりとこちらを振り向くとその大きな顔一杯に喜悦の笑みを浮かべ、どたどたと短い脚を動かしてこちらに向かって駆けて来る。
この妖怪が本気で僕を食べようとしているのか、それとも驚かし、怯えさせてその感情を愉しもうとしているのかはわからないが、十分に害意はあると判断しても良いだろう。
つまりは、そう、こちらからの反撃に一切の遠慮は必要が無いという事だ。
僕はドタドタと駆け寄って来る巨体に対して驚かず、それから怯えずに、手の中の改造ボールペンのスイッチをカチッと押す。
すると短く切って軽くしたボールペンの芯が、まるで矢の様に妖怪目掛けて発射された。
これはボールペン銃と呼ばれる玩具で、爪楊枝やボールペンの芯を飛ばして遊ぶ物なのだが、幾つかの文房具さえあれば物の数分で作れるし、作り方もインターネットで調べればすぐに見つかる筈だ。
射出の動力は単なるボールペンのバネなので、発射される爪楊枝や芯には大して威力が備わらないが、それでも人に向けて撃った場合は、仮に目などに当たれば大きな怪我を負わせてしまう。
だから決して他人に向けて撃ってはいけない玩具なのだけれど、逆に言えばそれは、うまく相手の目に命中させさえすれば、こんな玩具であってもそれなりの効果が期待出来るという事である。
何しろ今、僕の目の前にいる妖怪の顔は大きく、そこに付いた二つの目も、狙う的としては十分に大きいのだから。
余程に厳しい訓練を積んで自分の反射行動を制御しているか、或いは闘争本能の塊の様な化け物でなければ、普通は目に向かって物が飛んで来るのが見えれば、例えそれが小さくとも避けんとするし、驚き怯む。
僕の前に現れた妖怪も例外ではなかった様で、目に向かって飛んできてボールペンの芯に、
「うわぁっ!?」
と大きな声を上げ、大袈裟に手を振り回して仰け反って怯んだ。
要するに今、あの妖怪の戦う為の心構えは大きく崩れた。
故に僕は、この好機を逃さず前に出る。
振り回された、短いが太い腕を掻い潜り、ポケットから鋏を取り出して思い切り突き刺す。
勿論、鋏の小さな刃では巨体の妖怪を殺し切れる筈がない。
否、そもそも元々が刺す為に作られた訳ではない鋏では、妖怪の肉体に刺さるかどうかも怪しいだろう。
だからこそ僕が狙うのは、妖怪の大きく開いた口の中、乱杭歯の隙間から覗く、柔らかい歯肉、歯茎。
いかにも固そうな顔や腕なら兎も角、柔らかい歯肉にならば鋏も刺さると考えた僕の目論見通りに事は運んだ。
そして僕は思い切り突き刺した鋏をぐるりと捻って傷口を更に広げてから、手を放して後ろに飛ぶ。
次の瞬間、上がった悲鳴は非常に大きな物だった。
鋏が突き刺さって出来た傷は、そりゃあ痛いだろうが命に係わる物じゃない。
なので本来ならばこの妖怪が取るべき行動は、僕に対して恐れず、されど侮らず、痛みを堪えて戦う事だ。
なのに見た目だけは恐ろし気なこの妖怪は、攻撃を受けた痛みに我を忘れて地を転がって泣き喚き、短く太い手で何とか歯茎に刺さった鋏を抜こうと四苦八苦している。
その心は、もう完全に挫けているだろう。
こうなってしまうともう、弱い者虐めをしている気分になって来る。
だけどそれでも、油断はしちゃいけない。
大切なのはここからの仕上げだ。
相手の心は挫けてた。
けれども万が一、妖怪が本気で僕を殺す事に躍起になったら、成す術もなく殺されてしまう可能性は決して皆無ではないのだから。
カチカチとカッターナイフの刃を出しながら、僕はそれを暴れる妖怪の目に向かって突き付ける。
「五月蠅い、黙って」
要求は短く、簡潔に。
混乱した相手の頭でもわかる様に。
断ったら刃を目にを突き立てるとの意思を明確に表示しながら。
妖怪のカッターナイフと僕を見る目は恐怖の色に染まってた。
何度か繰り返しているけれど、こんな小さな刃で妖怪を殺す事なんて到底できない。
せいぜい痛みを与えるだけだ。
でもそれを悟られない様に、僕は自分が相手に対して強者である風に振る舞う。
「これ以上痛い目に、遭いたくないよね?」
妖怪は頷けない。
頷こうと首を動かせば、目の前のカッターナイフがそのまま目に突き刺さりそうになるから。
怯えで声も出ていないが、僕の問い掛けを表情と震えが肯定していた。
「そっか、刺されたくないんだね。だったらもう、人を襲わないと約束出来る? ……出来ないなら、この目はもう要らないよね」
僕はそう言って、カッターナイフの切っ先をほんの少し、1、2mm程度だが妖怪の目に近付ける。
しかしそんな僅かな距離でも、妖怪が感じてる恐怖を煽るのには十分だったらしい。
「わ、わがった!!! もうしない! お、おどかそうとしただけなんだ! もうゆるしてぐれぇぇぇぇぇ!!」
そして妖怪は、僕に完全に屈服した。
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