11 兄は妹を心配する
本日は晴天。絶好のピクニック日和だ。
午後からラズリスを野外へ誘おうと目論んでいるガーネットは、朝早くから侍女のサラと共に、侯爵邸の厨房でせこせことマフィンを焼いていた。
すると、兄のセルジュが顔をのぞかせる。
「ここにいたのか、ガーネット。おっ、いい匂いがするじゃないか」
「えぇ、今はリンゴジャムマフィンを焼いておりますの。是非お兄様にも召し上がっていただきたいところですが……残念ながら、こちらは特別製ですのでご遠慮ください」
「特別製? 何かが違うのか?」
「えぇ、ラズリス殿下を対象とする呪いをかけました」
そう告げた途端、水を飲んでいたセルジュはゴホゴホとせき込み始める。
そっと懐から布巾を取り出し手渡すと、彼は慌てたように口元を拭い、強くガーネットの肩を掴んだ。
「痛いですわ、お兄様。もっと紳士的な振舞いを心がけてくださいませ」
「ネネネネティ!? お前まさか黒魔術に傾倒するほど追い込まれて――」
「お兄様、どちらかというとこちらは白魔術の領域なのでご安心ください」
「安心できるかぁ! うぅ、何も気づかなかったお兄ちゃんを許してくれ。お前がそんなオカルトにのめり込むほど傷ついていたなんて、俺は何も――」
「……傷つく? わたくしは何も傷ついてなどいませんが」
内情を知るはずの兄にさえそんな反応をされ、ガーネットは少しムッとしてしまった。
「哀れな女」「傷物になった令嬢」――そんなレッテルを貼られるのはもうたくさんだ。
状況的には悲惨だとしても、ガーネットはむしろナルシスの婚約者であった時よりも生き生きとしているのだから。
勝手に憐れまれる筋合いなどないのである。
そんなガーネットを見て、セルジュはきょとんと目を丸くしている。
「ネティ、お前はラズリス殿下に呪いをかけたんだよな?」
「えぇ、その通りです」
「……それは、どんな呪いなんだ?」
「ラズリス殿下が、わたくしにメロメロになる呪いです」
そう口にした途端、セルジュはその場でずっこけた。
「お兄様、埃が立つので厨房で派手な動きは控えてくださいませ」
「……うん、悪かった、ネティ」
よろよろと立ち上がったセルジュは、何故か安堵の表情でガーネットに問いかける。
「ちなみに、その呪いというのはどこで知ったんだ?」
「よくぞ聞いてくださいました。こちらをご覧ください」
ガーネットが指示したテーブルの上に、レシピ本と並んで一冊の本が開いている。
その本を手に取ったセルジュは、何気なく本のタイトルを口にした。
「なになに、『これであなたもモテモテ間違いなし! 恋が叶う魔法のおまじない100』……だと」
「えぇ、超カリスマ魔女と呼ばれる女性の協力を経て執筆された、本格的なまじない書です」
ガーネットは最近、ラズリスを篭絡するための努力を怠りがちだった。
これではいかんと再起し、サラと共に城下の書店を訪れ、手にしたのがこの本だったのである。
「満月の夜にまじないをかける相手と自分の名を呟きながら煮詰めたリンゴジャムには、愛の女神の力が宿る妙薬となるようです」
セルジュは黙って開きっぱなしだったページへと視線を落とした。
「男性を虜にする愛の妙薬の作り方♡」
「モテすぎて困っちゃうかも!?」
「月の光は、愛のメッセージ……」
などと、成人男性であるセルジュからすればこっ恥ずかしいような文言がずらずらと並んでいる。
至極真面目な表情であれこれと解説してくれる妹に、セルジュは生暖かい視線を向ける。
「そういえばこの前、お前が真夜中にぶつぶつと何かつぶやきながら鍋をかき回していたと、メイドたちが怖がっていたが……」
「えぇ、愛の妙薬を作成しておりました」
「……そうか」
どうやらガーネットは、この怪しいまじないを心から信じ切っているようだ。
そんな妹の幼子のような純真さに、セルジュは苦笑した。
ガーネットは幼い頃から、妃候補として様々な教育を受けてきた。
彼女の形の良い頭の中には、さぞや多くの難しい知識が詰まっていることだろう。
だがその一方で……偏った教育を受けたガーネットには、こういった大衆的な常識のようなものが欠けがちなのだ。
だが、これはある意味いい機会なのかもしれない。
ナルシスの婚約者候補となった時から、ガーネットには厳しい教育が施されるようになった。
いつしか泣くことも怒ることも心から笑うこともなくなり……愛らしい妹が人形のように表情をなくしていくのに兄として危機感を覚えたものだ。
セルジュとて、厳しい妃教育の何もかもが間違っていたとは思わない。
愛されない王妃が王宮の中枢で生きていくためには、自分の身を守るための処世術が必要だ。
だが、果たしてそれでガーネットは幸せなのだろうか。
そう迷い続けていた時にガーネットは婚約破棄され、新たに第二王子の婚約者となった。
そして小さな王子を支え、振り向かせようとするうちに……少しずつ、抜け落ちていた物を取り戻しつつあるように、セルジュからは見えていた。
「……なぁ、ネティ。ラズリス殿下はお前に優しくしてくださるか?」
こそりとそう問いかけると、ガーネットはセルジュに向かって微笑んで見せる。
彼女が身に着けた、社交界を生き抜くための穏やかな淑女の仮面のようで――少しだけ、抑えきれない喜色が混じった笑顔だった。
「えぇ、わたくしが少し薄着の時は気遣ってくださいますし、この間体調を崩した時は見舞いのお手紙と花束を頂きました。それに――」
矢継ぎ早にラズリスの優しいエピソードを話すガーネットに、セルジュは満足げに微笑んだ。
ガーネットはナルシスから玉座を奪うために、ある意味ラズリスを利用しようとしている。
彼女にとっては王妃となった時に隣にいるのが、ナルシスでもラズリスでもそう変わらないのかと思っていたが……この様子を見ると、どうやら大きな違いがありそうだ。
「……そうか、それはよかった。ラズリス殿下によろしくな。間違っても失敗してレンガみたいになった菓子を食べさせるんじゃないぞ」
うっかり味見役を引き受けたばかりに歯が欠けた苦い思い出を反芻しながら、セルジュがその場を後にした。
ガーネットはフレジエ家の為に、自身の意思とは関係なくナルシスの婚約者となった。
たとえ愛されなくとも、王妃となるのが妹にとって何よりの幸せだとセルジュは思っていた。いや、無理やり自分にそう言い聞かせていた。
だがやはり身内としては、夫となる人物には妹を大切にして欲しいと願わずにはいられないのだ。
「……頼みますよ、ラズリス殿下」
何をしに来たのかよくわからないまま去っていた兄の背中を見送り、ガーネットはふぅ、と息をつく。
「ふぅ、お兄様がこっそりつまみ食いするようなことがなくてよかったわ。うっかりおまじないが効いてしまって、お兄様がわたくしにメロメロになるなんて気持ち悪いもの」
「禁断の近親愛! ラズリス殿下も加わっての三角関係ですね! 素敵~」
兄の心妹知らず。
かなり失礼なことを口にしながら、ガーネットは何とかレンガになる前にいい感じにマフィンを焼き上げることに成功したのだった。




