45. もう少しだけ時間を
部屋に静寂が満ちる。暖房の機械的な音だけが響き、白雪の舞い降りる音はただしんしんとしている。風の音もなく、厚いガラス窓が揺れることもない。深々と積もっていく雪と比べて、ずいぶん穏やかな気風だった。
好きな人と、恋人と二人だけの空間で。いつの日かぶりに互いの内心を吐露した。既に何度かしていることでも、日々過ごしていく中で積もるものがある。それこそ、今の銀山温泉に降り注ぐ雪のように音もなく静々と。
なんとなく、今日はそんな話をするかなと予感はあった。二人っきりで、初めてのお泊まり旅行。一歩ずつ牛歩の歩みで進めてきた関係がまた一つ動く日だと、そんな風に思っていたから。
知り合って、友達になって、友達以上になって、恋愛ごっこをして、本当の恋人になって、そして婚約者になった。話をして、ご飯を食べて、遊びに行って、デートをして。階段を上るように、歩みを合わせるように、距離を縮めるように重ねてきた時間。今日もまた、その積み重ねる時間の一つだった。
大事な話の発端となったのがえっちなことがどうとかこうとかという部分だけは納得できないけど、実際そういった話をしてこなかったことも事実なので仕方がないとは思う。
微妙に納得いかない気持ちを抑えて、肩を並べ体重を預け合った恋人に声をかける。
「ねー郁弥さーん」
「なに?」
「結局さー、なんで今日になってえっちな話しようと思ったの?」
空気は弛緩し、重苦しさはなくなった。
完全に忘れ去っていたカメラもいったん止め、座椅子を持ってきて窓際に並べて座った。話に夢中で何も思わなかったけれど、落ち着けば座布団での長話は疲れることに気づいた。身体の力を抜くと体勢が崩れてしまうので、背もたれは絶対にあった方がいい。
触れ合った肩から腕にかけてが温かく、服越しでも"好きな人と一緒"という事実だけで心が満たされる。
問いかけたのは、さっきあれだけ顔を突き合わせて話したことの核心部分について。
色々聞いたしちょっぴりうるうるしてドキドキしてたから感じ入っちゃったけど、"あたしが好きだから話した"は理由にならない。いえ、嬉しいは嬉しいのよ。ぎゅーって感極まって抱きしめちゃったりしたし。でも、郁弥さんがあたしのこと好きなのっていっつもだし。彼自身自分で言ってたし。大枠としての理由はそれでも、具体的に何?って話。気持ちもぽやぽやしてるから、普通に聞いちゃった。
「えーっと、そうだね。単純に好きの気持ちがあふれたのと、あと婚約から数か月経って二人きりの旅行でしょ?普通のカップルなら……旅館の迷惑もあるから時と場合によるとは思うけど、そういうことする人も多いと思うんだよね。結婚とかも考えたら、二十歳過ぎた大人二人がえっちな話一つしないのはいくらなんでもおかしいかなーと」
郁弥さんも郁弥さんでふわふわぽやぽやしてるみたいで、嘘みたいに軽く話してくれた。というか、ものすっごく理性的な理由だった。それ以上に。
「え?ん?結婚?」
そう、そんな不思議な単語が耳に入ってきた。ごく当たり前に言ってくれたけど、いきなりすぎて頭が追いつかない。
結婚って、結婚よね。婚約したし結婚する予定だとは思ってたけど、そんな素振り微塵も見せも感じもさせなかったじゃない。ここで言われるなんて想像もしてなかった。
「うん、結婚。いつしようか?」
「え、ええ!?そ、そんな大事なこと今聞く!?」
ざざっと勢いよく距離を取って向かい合う。いたって普通な表情を見て気が抜けそうになった。ついでに突然寄りかかる相手がいなくなって床に倒れ伏す姿を見て笑いがこぼれた。ちょっと今のは面白い。全然意図してなかったけど面白い。ごめんなさいね。恨めし気に見てきても面白いものは面白いの。
「うふふ、郁弥さんは面白いなぁ」
「僕は面白くないです」
「んふ、ごめんね?それよりなに?結婚ってどういうこと?」
いちいち構っていても仕方ないので話を進める。もうちょっとだけふてくされてた恋人と遊んでいたかったのは内緒。
薄暗い世界にも慣れて、今はもうはっきりと目の前の人の表情も認識できる。窓際だから外の光に照らされてというのもあるかもしれないけれど、とりあえず目が慣れてよく見えるようになったのはいいことだから良い。それよりなにより、今は別のことの方が大事。
「文字通りだよ。恋人になって一年は経ったし――あ」
「ん?なに?」
途中で何かに気づいたかのように声をあげる。なんとも難しそうに眉をひそめて口がちょっぴりへの字に突き出される。
キスしてほしいのサイン?違うわよね。知ってる。冷静にいきましょ、あたし。
「いや、結婚の前に同棲した方がいいなぁと思って」
「同棲……っ!」
「生活を共にするとお互いの生活習慣とか見えて、結婚前と後のギャップがなくなるとか言うからね。より深く相手を知るには一緒に暮らすのが一番良いって聞くし。日結花ちゃんはどう?同棲とかし」
「したい!」
つい叫んでしまった。
人の話を遮るのはよくないとか聞くけれど、それはお互いの関係性が浅いからそうなるの。別にあたしは郁弥さんに話遮られたって嫌じゃないし、郁弥さんだって嫌だなんて思ってないわ。たぶん。
「……ねえ郁弥さん。あたしに話遮られるの嫌?」
「え?別に?日結花ちゃんとはお喋りしてるだけで楽しいからなんとも思わないけど」
"どうして?"と尋ねてくる恋人に満面の笑みでハグをプレゼントした。照れ気味なあたしの彼氏さんが可愛い。
少し気になって聞いたけど、やっぱり大丈夫だったわね。郁弥さんは郁弥さんだった。安心したすっきりした。
なんでもないとだけ返して、同棲のお話に戻る。
「同棲はしたいのだけど、その前にあたしたちってそんなにお互いのこと知らないかしら?」
「……うん?」
一瞬空白が生まれる。あたしが何を言ったのかわからなかったのかぽやんとした顔で見つめてくる。可愛い。好き。
数秒間そのまま見つめ合って、それから得心がいったように首を縦に振った。
「確かにねぇ。一緒に住んでない割には整理整頓の仕方とか家事のやり方とか、歯磨きのやり方からトイレの仕方まで。色々知ってるもんね」
「よく家を行ったり来たりしてるもの」
その辺のカップルとは比較にならないくらい知り尽くしているとは思う。
歯磨きはともかく、トイレの仕方はあれよ。男の人って立ってするって言うじゃない?そうするとお掃除大変だとかなんとか。郁弥さんは普通に座ってする派だったからいいんだけど、たぶんこういう部分を同棲するとわかってくるんだと思うのよ。……同棲、しなくちゃ!
「そうだね。割と日結花ちゃんの家に行ってる――いや、僕の家にも来てる?」
「そうね。わかんないけど同じくらいはあなたのお家にも行ってると思うわ」
回数なんてわかるはずがない。一つ覚えてるのは、あたしのお仕事終わりに迎えに来てくれてすっごいときめいたときのこと。あのときは嬉しさ余ってそのまま家に連れ帰っちゃったくらい。もちろんママとパパには連絡済みだったから平気。二人とももう慣れたものよ。
「家に日結花ちゃん用の物が色々あるだけでわかるってものかー」
「ふふ、それもそうね」
ぽんぽんと隣を指で叩く恋人さんに笑いかけながら体勢を元に戻す。
暗い部屋に明かりは外のガス灯だけ。薄ぼんやりと見える好きな人の横顔がロマンティックで、今さらとってもいい雰囲気だということに気づいた。障子開けてるから寒いけど。
視線に気づいたのか小首をかしげて"うん?"と見てくる相手の腕に指を這わせて手を繋いだ。じんわりと伝わる体温が心地いい。
「日結花ちゃん」
「なぁに?」
肩に頭を預けて寄りかかりながら返事をする。名前一つ呼ばれるだけでも嬉しくなれるのは、きっとそれだけあたしがこの人のことを好きだっていう証拠。
「さっき、同棲が恋人同士の嫌な部分を知るためのもので、それを知ってなお相手が好きだから結婚に繋がるって話したでしょ?」
「え?んー、うん。そんな話だったかも?」
ちょっと違うような気がしなくもないけど、まあいいわ。気にするほどのことじゃないし。
「そうそう。そんな話だったの。で、じゃあ僕らの場合はどうかなって話に繋がるのさ」
「ふーん?」
あんまり何を言いたいのかよくわからなかったので続きを促した。フリフリと髪を揺らすとくすぐったそうに声があがる。可愛い。あたしの恋人がとんでもなく可愛い。
「つまりね。僕らも自分の"これは受け入れられないだろうなぁ"と思う点を挙げていったら良いと思うんだよ。それで何を直せばいい――ううん、僕の場合は何を直したいかだね。それがわかってくるから」
「……ふむむ」
彼の"何を直したいか"という部分は、たぶんあたしのこと大好きだからあたしのために~って感じよね。そこはいつも通りだからいいわ。それよりも、この人はあたしに自分のだめなところ、嫌なところを列挙しろと、そう言っているのね。精神面は――。
「あ、もちろんメンタル面はさっき話したから抜きでね」
聞く前に答えられた。あたしの心でも読んでいるのか、ふっと横を見たらぱちりとウインクされた。惚れちゃった。好き!
いったん落ち着いて深呼吸を……。
「……すぅぅ……ふぅぅ……」
おっけー大丈夫。郁弥さんのメロメロ攻撃からはなんとか抜け出せたわ。あぶなかった。あのままだと気づいたらちゅーしてたとかそんな展開になるところだった。あぶないあぶない。
しかし、自分のだめなところを伝えるって……また恋愛ステップ上げるようなことを言ってくれる。結構知っているつもりでも、本人から申告されるのだとまた変わってくるから確かに有効なのかも。
「あれね。要は"どこまで恋人許容できるか選手権ね"」
「え……。う、うん。ネーミングはなんでもいいけどそういうこと、かな」
戸惑った顔もまたキュート。と、その前に。
「その楽しそうなお話するのはいいのだけど、郁弥さん。今時間どんな感じ?」
「あ、ええと」
ダーリンが薄闇の中を動いて鞄の下に向かうのを見ながら、肌寒くなった左半身をさすり外を眺める。
すっかり景色は黒に染まり、間近に設置されているガス灯と、もう一つ遠くにある灯に照らされた範囲だけが鮮明に色を見せている。といっても、あるのは雪の白ばかり。積もった雪と、降り注ぐ雪と。純白の雪だけが輝いていた。もちろん少し身を乗り出して視線をずらせば他の旅館から漏れる光もあるけれど、なんとなく、今はガス灯の穏やかな明かりだけを見ていたかった。
色々お喋りしてイチャつく前が二十時半で、ガス灯が消えるのは二十一時。もうすぐこの明かりも消えてしまうと思うと、ちょっぴりの寂寥感がある。
まだ二十一時か、もう二十一時か。楽しくて嬉しくて面白くて幸せいっぱいな一日だったから、過ごした時間をやり直したいとかは思わない。でも、それでも。
「日結花ちゃん、あと五分で二十一時だよ。結構経ってたねー。気づいてくれてありがと、っとと……日結花ちゃん?」
「ん…………ぎゅってして」
なんにも考えていない顔で、今日ずーっと見てきたあたしの大好きな柔らかな表情で、のんびり歩いてきた恋人に抱きついた。
ただ一言伝えただけなのに、何も言わずにすっと背中に手を回して抱きしめてくれる。温かくて、愛おしい、あたしだけの郁弥さん。
「少し、このままでいようか」
ぽつりと呟いた彼の言葉に返事はせず、ただ腕の力を強めた。返ってくる強い抱擁に自然と頬が緩む。
さっきまであった寂しさは、もうどこかへ消えていなくなっていた。




