ワイ思う、ゆエックスに我あり
ノートを取っていた筈なのに、気付けば休み時間のチャイムが鳴り響いていた。
教師が教壇に立ち、五賢帝について講釈をたれていた筈なのに、今は休み時間。まるで時間を切り取られたような状況、これはミステリーではないだろうか。
ふと視線をノートに落とせば、ミミズが這ったような文字がダイイングメッセージのように浮かび上がっているではないか。
周囲を見渡せば、いつもの休み時間の喧騒に包まれ、何一つ異常というものが感じられない。すなわち、この異常に気付いているのは私ただ一人。
「どうやら私も非日常の世界に足を踏み入れてしまったようね。名王学院、ミサキ・バルカと呼ばれる私の力、見せてあげようじゃない。かかってきなさいスキピオ。ローマの犬如きが」
「久川さん、口元、よだれよだれ」
拳を握り力説する私に、前の席の広岡さんが優しく指摘してくれる。涎ではない、寝起きの天使がもたらす天の雫だ。
ごしごしと袖で雫を拭い、私は次の授業が何かを広岡さんに訊ねて確認する。数学。これを乗り切ればお昼だ。
教科書をごそごそと机の中から漁っていると、まるで飢えたハイエナのように私の机に集まってくる優子と里奈。
毎度毎度私の机まで歩いてくるなんてご苦労である。二人とも友達多いくせに、私に構ってるんだから、本当にモノ好きな奴らだ。べ、別に嬉しいとか思ったりしてないんだからねっ。
「勘違いしないでよねっ!別に私、アンタ達のことなんか何とも思ってないんだからっ!」
「うん、私達も何とも思ってないけど」
「……いや、思いなさいよ。私が思ってないのは良いけれど、他の人に何とも思ってないって言われるのは腹たつわ。
優子には少し友を思いやる心が足りない。汝の隣人を愛せよ、カレーのニンジンを愛せよという言葉を知らないのかしら」
「自分が思ってないのはいいんだ……」
呆れるような疲れたような視線を向けてくる里奈の瞳は、この前ペットショップで私の頭上より高い檻から見下してきたプードルの目に似ていた。
なんとなく気に食わなかったのでほっぺたをむにむにと弄くり回しつつ、私は優子に上から目線で懇願する。
「次の授業、私当てられてるのよ。優子、答えを教えて貰ってもよくってよ」
「視線の角度が足りないんじゃないですかねえ、美咲さん。人にものを頼む時は誠心誠意何を下げなきゃいけないんだっけ?」
「頭と成績、どちらを下げるかその二つを天秤にかけろというのね。
馬鹿にしないで頂戴、日本撫子たるもの、旦那様以外に軟弱な姿を晒すなど笑止千万。お願いします優子様写させて下さい」
机に額をこれでもかと擦りつけ、ぐりぐりと頭を回す私に満足したのか、優子はノートを私に貸してくれる。
ふん、人が下手に出ていれば調子に乗って。今は薪を枕にぐーすか眠りこけている私だけど、いつの日か目にものをみせてくれる。
学年400人中、380位の私だって、頑張れば20位の優子に勝てるんだ。大丈夫、真剣な学習漫画を読み耽って優子に勝利するイメージだけは常に脳裏に描いている。
いつの日かテスト結果を優子に突き出して『恋も勉強も短時間でグングン伸びちゃった!』って胸を張ってやろう。
優子のノートを理解する事もなく必死に途中式と答えを書き写し続ける。エックスがワイでインテグラルがうんにゃんかんにゃんで。
「いつも思うんだけど、人はどうしてエックスやワイばかり求めるのだろう。
求めてばかりの人生はつまらなくはないだろうか。たまには向こうから求められてこそ人の人生は輝くのではないだろうか」
「エックスもワイも人間じゃないから人生輝いても仕方ないからねえ」
「白馬に乗って颯爽と私の前に現れる王子エックス。私の手をとって、エックス様はこう呟くの……『お前が欲しい。今夜は離さない』」
「エックスと美咲の乗算か。二人の愛の逃避行の前に現れるはエックスの許嫁イコールワイ。引き離された美咲の運命は、貴族子女ワイの下働きに」
「ごめん、二人が何をいってるのかさっぱり分かんない……」
すぐに答えを求めようとする、それが里奈の悪い癖だ。
人にすぐさま教えて貰ったり、ましてや答えを訊ねたりする数学に一体何の意味があるだろう。
数式とは自分の力で悩み、導き、そして答えを導出してこそ喜びも価値も噛み締めることが出来るのだ。まだまだ人生経験が足りない里奈に肩を竦めつつ、私は写し終えたノートを優子へと返本する。
「エックスやワイのように美咲も求められる女にならなきゃね。貴女を求めてくれる友達は増えましたか?」
「フレンドという単語の綴りが何故エンドで終わっているのか理由が分かった気がした。
富を持つ者には持たぬ者の苦しみが分からぬ。警察だ、今すぐ携帯を私に差し出せ」
「別にいいけど、どうするの?」
「女学生の平均友達数のチェックを行う。ふふん、普段私のことを友達少ない少ないと馬鹿にしてるけど、実は貴女達も……」
優子の携帯の登録件数を確認し、私は即座に視線を背ける。おかしい、五百件をゆうに超えていた気がする。私の二百五十倍以上、なんだこれは。
長篠の戦い等比べものにならぬ大敗である。こちらが刀を翳してやあやあ我こそはと名乗っていたら、相手が全員ステルス戦闘機で襲ってきたくらいの差である。最早戦いと呼ぶことすらおこがましい。
里奈も三ケタの大台に乗っている。私は母を外せば登録数ニ件。別に私は邪気眼を発揮して孤高を気取っている訳でもなければ、ボッチート主人公を目指している訳でもない。
ただ普通の女子高生として日々を謳歌しているだけなのに、何故こんな惨状なのだ。
「才色兼備、眉目秀麗の私に友が出来ぬのは、きっと天狗の祟りに違いない。崇徳天皇、許すまじ。赤鼻を許すな、非暴力非服従の精神で抗議だ。
でも、サンタの奴酷いよね。赤い鼻を悩んでるトナカイに『暗い夜道照らせるからいいじゃん!お前マジすげーじゃん!』って励ましてたけど、それをハゲのおっさんに同じセリフ言えんの、って思うのよね」
「多分、そういうところが普通の女の子が逃げる理由じゃないのかしら。私は好きだからいいんだけど、面白いし」
「好きと申したか。女が女に向かって好きなどといけませんよ、非生産的な。ごきげんよう、お姉様」
「ごきげんよう、妹。靴下がよれよれになっていてよ。あえて時代を逆行してルーズソックスとは恐れ入る」
「靴下のゴムが切れたのよ。百円で三枚セットは駄目ね、まだ履けるから使い続けるけど」
「新しいの買おうよ……」
あまりにセレブリティな発言をする里奈に靴下が私に買われた時の気持ちを芥川の蜘蛛の糸に例えて話していると、休み時間終焉のチャイムが鳴る。
生徒達が席に戻り、私は昨日授業中に問題を当てられているので、黒板の前に立ち、答えを記述しなければならない。
教師がまだきていないので、自然と教壇の上は私一人の世界、着席した生徒達の視線が私に集まる。やだ、何この征服感。
まるで私に教えを乞うように瞳を向けるストレイシープ達の期待に、これは是非とも応えねばなるまい。私は黒板にアイハブアドリームと英語を書き出し、皆に向けて語るのだ。
「人生に必要なモノ、それはお上品な計算や打算で上辺を乗り切ることじゃない。人間が熱く強く生きる為に必要なモノ、それは」
「道徳の時間がしたいなら、昼休みに職員室でたっぷり話してやるぞ、久川」
「『世界は数理で出来ている』、実に良い言葉です。かの喜劇王が予見した機械に使われる現代の私達が生きる世界を端的に表しています。
いいですか、ザット構文の使い方を考える暇があるのなら、木から落ちるリンゴと睨めっこしなさい。いいですね」
誤魔化しは通用せず、数学教師から丸めた教科書で頭を叩かれた。数学を持ち上げてやったのに理不尽だ。
しぶしぶ黒板に優子から写させてもらった宿題の回答を記述して席に戻りながら、誰にも理解されない私は大きく息をついて前の席の広岡さんの肩を叩いてそっと呟くのだ。
「それでも地球は動く」
「久川さん、黒板に書いてる答え、問二じゃなくて問三の答えだよ」
法廷侮辱罪の罪に問われ、宗教裁判の法廷を逆走する私。どうやら優子から写させてもらった箇所を間違えていたらしい。
問二を自分で答えることなど出来る筈もなく。裁判長に死刑宣告を受けて席に戻る私。いつの時代も先駆者は異端とみなされるものである。