1ー1 城壁
ともすれば、震える手の木刀を握り直し、視線を上げる。
相手の呼吸も乱れている。
自分にとってそうであるように相手にとっても大事な立ち会いであった。
この場に集う来る年、12の年を迎える者たちにとって今日の立ち会いは、特別な意味を持つ。
中でも、とりわけリンドゥにとって、王国の嫡子であるリンドゥにとってその意味は大きい。
いつものように無気力な様子を見せるわけにはいかない。
必死でなければいけない。
相手の席次は、リンドゥのふたつ上。それほど実力がかけ離れているわけではない。どちらが勝ってもおかしくはない相手、しかし順当にいけば負ける相手というわけである。
全くいやらしい人選だ。
誰の仕業かは見当はついている。
今も、背後からあの厳しい目で見ているはずだ。
王子である自分の側近であり、その要望に応えるべき配属されているはずなのだが、尽くその意に反することを行う。
彼がいなければ、今日の立ち会いを前に結論が出ていたはずであった。
優秀な弟は帝都へと、そして愚鈍な兄は、という流れがほぼ成立していたというのに。
ーーー全く、忌々しい。
余計なことを考えていたため、反応が遅れた。反射的にその一撃を受け止めていた。
ーーーしまった。
今の一撃は、今日一番の打ち込みであった。決まってもおかしくない打ち込み。リンドゥが待っていたのは、そのような一撃であった。
咄嗟に受けてしまった。
しかし、悪くはない。
受けたリンドゥの剣はその勢いに流される。
流されるまま、身を引くか、そのままの勢いを次撃に繋げるべき場面であった。
しかし、リンドゥは、剣を握りしめその流れを押し止める。
その隙は致命的であった。
継いで放たれた一撃は、リンドゥの胴を打ち抜いていた。
雲が低い位置で脈打っていた。北部辺境に春が訪れるにはまだしばしの時が必要とされるが、今吹く風には湿気と微かなしかし確かな熱が含まれている。
見下ろせば、主に士族が暮らす屋敷街、そして富裕層と商家、その先には雑多な印象が強い庶民が暮らす町並みが扇状にひろがっている。
城壁からはさらに彼方へと延びる街道までを見渡すことが出来た。
リンドゥの立つ城壁、士族街とその他を分ける中壁、そして街の境界となる外壁。明らかにに戦を意識した造りとなっているが建国以来その役割を果たすこと無く数百年の時を積み重ねてきた。
城壁上には形骸化した見張りの姿もなく、ときおりその眺望を求める物好きがある位であるが、今はそれもない。
乱暴に、無秩序に衣を叩く風はその内側まで侵入し、全身をなぶる。
中天を過ぎたばかりだというのに街ははっきりと碧みを帯びて、さほど刻を置かず雲が破れることを予言するのに何の助けもいらない。
リンドゥはこの冬の終わり、春の訪れを告げる嵐の前の風に吹かれる。
春の訪れを喜ぶわけではない。
嵐が総てを壊し、総てを洗い流してくれるのではないか、とそう期待してしまうのである。
多くの者が凶兆を感じるであろうこの荒天。
身体の奥底から何かが溢れ、背をなぞり上がる。
くふっ。
知らず口から漏れでた笑いに自分が考えていたより浮かれていることに気付く。それも仕方ないのかも知れない。
今日の午前中の出来事を思い起こしながら考える。
今日のあれは、決定的だったはずだ。
頑固なマーカスもあれで諦めがついたろう。
例えマーカスだけが反対したところで、どうにもならない。決定権は彼にあるわけではないのだ。
そう、出来の悪い兄は国元で学び、珠玉の出来の弟は中央にて王国の名誉を大いに轟かせれば良い。
なあに、この太平の世、辺境の地を治めるに大した才覚は必要ない。いや、中途半端なそれはむしろ害悪かも知れない。むしろ、平々凡々な兄であれば臣下の教導によって大過なく治めることが出来る。
っと、こうあるべきだろう。
国衙の館で得られる範士資格は、王立でもなんの違いも無い。通例では、王位を継ぐ者の多くが帝立国衙の館出身が多いというだけで前例が無い訳ではない。
もっともそれは、健康上の不安があったり、五大陸に渡る広大な帝国において距離的な問題が関係することがほとんどである。
そしてもう一つ、本当の理由として最も多いのが、帝立の国衙の館での範士資格の取得が難しいと懸念される場合だ。帝立と王立、この二つに優劣はないとされている。学ぶ内容も同じ、その得られる資格、取得難易度も同等とされているのだが。
しかし、やはり、違いはある。
王立の国衙の館において王国の王子が範士資格の取得に失敗するなどあり得ないとされる程度には、忖度は存在した。
そう、出来の悪い兄王子は、大事な跡取りである。継承権第一位と二位の二人を揃って遥か彼方の帝都へ送り込む必要がどこにあろうか。
同じ大陸内とはいえ北部辺境に位置するハエルウム王国から帝都まで通常の行程を踏めば、順当にいっておよそ三月。危険も皆無ではない。充分に申し訳のたつ範囲とも言えなくもない。
王子の教育に携わる者たちの多くがそう結論していることを知っていた。一部のあくまでリンドゥを帝立国衙の館へと送り出そうと企む者も今日の結果を見て諦めたことだろう。
それともまだ、「やれば出来るはずだ」だの言うのだろうか。
リンドゥは、側仕えの顔を思いだしそうになり、あわてて首を左右に振る。例えそうであっても大丈夫だ。
リンドゥは、俯きかけた視線を戻した。
眼下に広がる眺望。
余裕をもった区画に庭園を備えた貴士階級の邸宅。その先に時折緑の混じる程度の兵士階級の館が続く。壁を隔ててその先にも続く屋根、その中に時折散見する邸宅は豪商のものであろうか。
さらにその先、外壁の先には、遥か帝都へも続く街道まで見渡すことが出来る。
そこまで意識したところで、リンドゥは、先ほどまで感じていた高揚が消え失せていることに気がつく。
何故。
それは、あまりに唐突で不可解なほどあっけなく跡形もなく消え去っていた。
周囲を見渡すが先ほどとなんら変わることはない。
呆然としたまましばし時が過ぎる。
さっきは、たしか、街道に視線を向けた時だったか。
街道には、もう間も無く訪れるであろう嵐に出立する者はなく、王都へと足早に駆け込もうとするが疎らにあるのみであった。
その集団にリンドゥは気付く。
普段、街道に多く見られるのは商人の組むキャラバンであったが、その差異は明らかだった。馬車を連ねその周囲を護衛の騎馬が数頭というのがよく見かける編成であるのだが、確認できる限りでは、馬車は一両のみで遠目にも荷馬車ではない。その周囲を駆ける騎馬の数も尋常ではない。
水分を多く含んだ大気は、曇天の下でも視界は明瞭だった。リンドゥはそこまでは見てとることが出来た。
しかし、流石に街を隔てては、先頭の騎馬が押し立てる旗の意匠までは確認できない。
何故背後を振り仰いだのだか、自身でも説明できなかった。
その視線の先には、見慣れた王国。その横には王国旗より申し訳程度高く掲げられた黒地に白の大剣、帝国旗が翻り、激しくたなびいていた。