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「急に来て悪いな」
夜になってデニスがひとり住むバラノフ邸に酒瓶を一本持ってやってきたのは亡き妻の兄、サムイルだった。デニスは応接室へ彼を通し、使用人に酒杯を用意させる。
「いいえ。最近ゆっくり話す機会がなかったので嬉しいです」
幼い頃からよく知っている十年上の義兄は実の兄同然だ。突然の訪問でも歓迎する以外の選択肢はない。
「そうだな。お互い忙しい。しかしあいかわらずこの家は静かだな。うちは毎日赤ん坊が泣いて夜もおちおち寝ていられない」
そう肩をすくめるサムイルは言葉とは裏腹にふた月前に生まれた初孫の喜びが隠し切れていない。
「マーシャ嬢もお変わりなくですか?」
「変わりないよ。うちの跡取り娘は早く執務に復帰したいが、赤子も可愛いで毎日騒々しい。あれに付き合ってくれる婿殿は偉いよ。まあ、半月後から出仕して復帰の準備を始めるのは決まっている」
「それはまた、順調でなによりです。落ち着いたら、顔を見に伺います」
「近いうちに私の退官祝いの昼食会を開くからその時にでも会ってくれ。いい加減父上が隠居させてくれというから、来月には領地に戻る」
「どこか、お具合が悪いのでしょうか」
義父は腰を悪くしてからここ数年帝都にやってくることがなく心配になる。
「いや、腰以外は元気だよ。ただもう六十過ぎたからゆっくり過ごしたいそうだ。君も他人事じゃないぞ。バラノフ伯も五十になっただろう。あっというまに跡を継ぐことになる」
酒杯に酒を注ぐサムイルの燭台に照らされた顔の陰影は深い。黒髪にも白いものが混ざり始めている。
九年は長いようで短い。時の流れは十分に理解しているつもりでも、ふっと自分だけ置き去りになっている感覚がやってくる。
「そうですね。父もまだ元気ですがいずれ私も向こうへ行かなければなりませんね」
「その時はひとりでなんてわけにはいかないぞ。私達は領地を護り領民を餓えさせない義務がある。政情が安定しないときだからこそ、家をしっかりさせることが肝心だ」
酒杯を空けてサムイルがデニスを見据える。
「デニス、もう十分喪に服しただろう。父上達も私も、カリーナと赤子を失った悲しみを乗り越えた。だけれど、君がいつまでも再婚しないことだけが心残りなんだ。それだけ妹を大事にしてくれているのは嬉しい。ただあの子だって君の重石になることは望んでいないよ」
「……それは、私も分かっています」
デニスはそれだけ言って自分も酒をあおる。
何度も聞いた言葉だ。自分は亡妻に繋ぎ止められているつもりはない。
彼女との思い出を手放してしまうかもしれないと恐れているのは他でもない自分自身なのだから。
「君にはバラノフ家を護る義務と、君自身が幸せになる必要があるんだ。私は生まれたばかりの孫よりも君の先の方が心配だよ」
空になったデニスの酒杯にサムイルが酒を注ぐ。
じっとうつむいているとうっすら水面に映り込んだ陰鬱なくたびれた自分と目が合う。
それと同時に園遊会の時のリリアが思い浮かぶ。
結婚への期待と夢を語る彼女のような若々しい輝きはとうにない自分が、あの年頃の時と同じような夢を見続けるのは無理な話だ。
「できれば義兄上に再婚相手を選んでいただきたいのですが……」
ここが潮時かもしれないと思いつつも、人に決めてもらったほうが楽だという煮え切らないことしか言えなかった。
「それならもちろん引き受けるさ。退官でばたばたしてはいるが、何人かよさげなご令嬢は知っているんだ。君のように再婚相手を探している人もいる」
「再婚の方がよいでしょうね」
家の利益とお互いの相性の妥協点。リリアにそんなことを教えたことが脳裏にちらつく。
「そうか、ならば二、三人に絞れるな。よし、そうと決まったら私の方から声をかけてみるよ。年は一番下でも二十二だが三十までなら跡継ぎの心配はいらんだろう」
重苦しかった義兄の表情が明るくなり、デニスは勧められるままに酒を呑む。
「もう少し飲まれますか?」
近況やら再婚の話やらをとりとめなくしながら飲んでいる内に酒瓶が空になっていた。
「いや、もうこのあたりにしておくよ。退官前にふたりだけで話せてよかった。再婚したって君は僕の大事な弟で、両親にとっても可愛い息子であることには変わりないことは覚えていてくれ」
サムイルが帰ると家の中は使用人が動く音以外はしなくなる。この慣れた静けさが変わる日がくるのだろうか。
半歩だけ前に進んだとはいえまだ先は何も見えなかった。
***
よく晴れた空の下、王宮の庭園には色とりどりのドレスの花が六つ咲いている。
「結婚? わたくしが、デニス様と?」
中心に座するリリアは目を丸くしながら周りの令嬢達の好奇心に満ちた表情を見渡す。
今日は年の近い侯爵家の令嬢達と芝生に敷布を広げての茶会なのだが、ひとりの令嬢からそんな話題が出て混乱していた。
「バラノフ卿がご再婚される話は聞きましたけれど、お相手がリリア様なのはわたくしは聞いておりませんわ」
「あら、園遊会でリリア様が一番親しくしていた殿方がバラノフ卿だとお噂が」
「再婚相手はほら、一昨年結婚して半年で旦那様をなくされたあの……」
口々に知らない話がでてきてリリアは前のめりで出回っている噂話を聞き取っていく。
どうやら園遊会での出来事とデニスの再婚の話がまぜこぜになって、さらに尾ひれ背びれがくっついて本人の知らぬ所で何種類もの話が出来上がっているらしかった。
「少なくとも、わたくしがデニス様の再婚相手なのは間違いですわ。ご再婚の話は分かりませんけれど」
再婚するというのは本当なのだろうか。
その話を出したのはデニスの亡妻の生家と近しい関係だという家のふたりで信憑性が高そうだった。だけれどまだ信じ切れない気持ちもある。
(向こうのお家が一方的に勧めているだけかもしれませんわ)
デニスに再婚の話が持ち上がっているのは彼の立場を考えれば当然で、これまでもそんな話は幾度もあっても実際に成立はしていない。
なのに胸がざわついて仕方がない。
「リリア様、ご不快な噂でしたかしら……」
令嬢のひとりがリリアが表情を曇らせているのに気付いて申し訳なさそうに言う。
「いいえ。ただあちらの方にご迷惑がかかっていないかと思って」
そう苦笑するとまた令嬢達が噂ならすぐに消えるだろうと気づかう。
「園遊会のおふたり素敵でしたけれど、どうしてバラノフ卿とご一緒にいらしたのかしら?」
問いかけに、疲れていたところたまたま会って義姉が付き添いをデニスに頼んだのだとリリアは答える。
似合いに見えていることが嬉しくて顔に出してしまいそうなのはどうにか隠した。
「リリア様もご縁談がまだお決まりではありませんものね。当家の兄もご挨拶だけはしたと言っておりましたけれど、少々野暮ったいのでバラノフ卿を見習って欲しいですわ」
ため息をつく令嬢の兄の顔は知っているし挨拶もした気がするがあまりよく覚えていないリリアは、まだお若いのだしとざっくりした返事だけする。
そうすると一番大人しい令嬢が、自分はそれぐらいの方が落ち着くと言い出すとその場が色めき立つ。
いつもは楽しいはずの恋の話も今日はいまひとつ気乗りしない。
リリアは目の前で話が纏まっていくのを眺めていると、自分と同じく一歩引いている令嬢と目が合う。彼女は二月後、十四の誕生日を迎えると同時に結婚することが決まっている。
「……ご結婚の準備は進んでますの?」
リリアが声をかけると彼女は順調にと物憂げな返答をして、他の令嬢達の興味がそちらに移る。
話を聞いてみるといざ結婚が近づいて不安が大きくなっているらしかった。
「お顔はいいし、優しいのだけれど時々話が噛み合わないというかちょっと難しいことを言われると会話が続かなかったりして、この先大丈夫かしら……。代わりに出仕していただくのだからこれ以上の贅沢は言えないのだけれど……」
彼女は侯爵家の跡取りで十五になれば官吏としての出仕義務があるのだが、いささか能力に不安のあるため婿に代理で出仕してもらうことになっている。
そのための結婚であるものの、相手が決まった時はいいお相手と称していた覚えがある。
最初から全部上手く行くことなんてないんだからと慰める声が上がると、兄夫婦も最初は噛合っていなかったけれど今は仲がいいと具体的な話も出る。
そこから話題は結婚が中心になって賑やかになる。
つい二年ぐらい前は具体性の薄い楽しいやりとりが多かったが、誰もが迫り来る現実に一喜一憂といったところだ。
「自分が好きな人か、自分を好いてくれている人かどっちがいいのかしらね。もちろん両想いが一番なんだけれど……」
見合い中の令嬢が悩ましげに言うのに皆、難しいわとため息をつく。
「わたくしは、自分が好きな人がいいかしら……?」
令嬢達に意見を求められたリリアはそう答えながらも、迷いがあった。
振り向いてもらえるかわからない相手に気に入られるため頑張るよりも、自分が相手を好きになる努力の方がいいというのも分かるのだ。
たったひとりを想い続けるのは幼い内はとても単純なことだったけれど、今はどこかで区切りをつける時が間近に迫っている。
誰かに想われてその気持ちに寄り添うほうがきっと簡単ではある。
(でも、わたくしは選ばれるよりも選びたい)
自分の胸の内に問いかけて出た答えはそれだった。
リリアは令嬢達が自分達の結婚相手となる独身男性の噂話や容姿の好みの話題を聞きながら、気になる人を探してみるのだけれどそう簡単に新たな恋は始まりそうになかった。




