あなたの逃げ場は、悪役令嬢の私
王宮の大広間は、白く飾られていた。
白い花。
白い燭台。
白い絹の垂れ幕。
神殿から運び込まれた聖なる香炉からは、甘く澄んだ煙が立ちのぼっている。今夜は王太子アクレシス・レーヴェルトと聖女イリス・ベルナージュの神聖なる親交を祝う夜会だと、王都中に知らされていた。
だが、本当の目的を知らぬ者はいない。
王太子が、公爵令嬢ヴィオレーヌ・グランヴェールとの婚約を破棄する。
その瞬間を見届けるために、王侯貴族は白い礼服をまとい、神殿の聖歌隊は壁際に並び、近衛騎士は剣の柄に手を置いていた。
白い夜会。
白い断罪。
その中央で、ヴィオレーヌだけが黒紫のドレスをまとっていた。
夜に咲く菫のような色だった。光を受けても明るくならず、むしろ周囲の白を吸い込んで、彼女の輪郭だけを静かに濃くする。
アクレシスは玉座の前に立っていた。
王太子の正装。
肩には金糸の飾緒。
胸には王家の獅子章。
隣には、白い法衣の聖女イリスがいる。
アクレシスは美しい男だった。若く、気高く、正しい顔をしている。だがその顔は今、恋に浮かされた愚者のものではなかった。
彼は王太子としてそこにいた。
王国の正義を執行する者として。
「ヴィオレーヌ・グランヴェール」
アクレシスの声が大広間に響いた。
「私は、そなたとの婚約を破棄する」
ざわめきは起こらなかった。
誰もが待っていた言葉だった。
アクレシスは続ける。
「そなたは聖女イリス・ベルナージュに対し、幾度となく侮辱と妨害を行った。神殿が提出した証言、侍女たちの供述、王宮内で発見された呪具。すべて確認した」
ヴィオレーヌは黙って聞いていた。
否定もしない。
怯えもしない。
ただ、アクレシスの右手を見ていた。
薬指に、赤い糸が絡んでいる。
誰の目にも見えない糸だった。聖女イリスが「運命」と呼び、神殿が「祝福」と呼び、王宮が「奇跡」と呼んだもの。
けれど、ヴィオレーヌにはわかる。
それは恋人同士を結ぶ糸ではない。
獲物を祭壇へ引きずるための、血の色をした綱だ。
赤い糸はアクレシスの指から手首へ、袖の内へ、胸の奥へと潜り込んでいる。そのさらに向こう、彼の背後には、黒い影のような糸が垂れていた。
この世の床には落ちていない。
天井にも届いていない。
あの世へ、彼の魂を引いている。
ヴィオレーヌは、ゆっくりと微笑んだ。
「確認なさったのですね」
「無論だ」
「ご自分で?」
アクレシスの眉がわずかに動いた。
「神殿の調査官、王宮法務官、近衛騎士団がそれぞれ調べた。そなたがいかにグランヴェール公爵家の令嬢であろうと、この場で覆せるものではない」
「まあ」
ヴィオレーヌは、少女のように首を傾げた。
「では、よほど綺麗に整えられていたのでしょうね」
「何が言いたい」
「証拠ですわ。殿下がお利口に信じられるように、よく磨かれて、並べられて、香まで焚きしめられていたのでしょう」
大広間の空気が尖った。
近衛騎士の指が剣の柄を撫でる。
イリスが悲しげに目を伏せた。
「ヴィオレーヌ様。どうか、これ以上罪を重ねないでください」
「罪?」
ヴィオレーヌの視線が、初めてイリスへ向いた。
それは冷たい視線ではなかった。
むしろ甘い。
蜜を含んだ毒のような目だった。
「聖女様。あなたは本当にお上手ですわね」
「私はただ、殿下をお守りしたいだけです」
「ええ。そう見えるように」
イリスの白い睫毛が震えた。
アクレシスが一歩前へ出る。
「ヴィオレーヌ。聖女を侮辱するな。そなたの相手は私だ」
「では、殿下」
ヴィオレーヌは彼に向き直った。
「お遊びは楽しかったですか」
「遊びなどではない」
「神のお告げ、運命の糸、聖女様の涙。甘くて、白くて、綺麗なものを並べられて」
彼女は静かに近づいた。
衛兵が動こうとする。
アクレシスが片手で制した。
王太子としての矜持が、彼女から逃げることを許さなかった。
ヴィオレーヌは彼の前で立ち止まる。
「簡単に騙されてしまわれたのですね」
その声は、嘲笑ではなかった。
責めてもいなかった。
あまりに優しく、あまりに甘く、だからこそアクレシスの胸を深く刺した。
「お利口ですこと、アクレシス様」
「ヴィオレーヌ」
「怒らないでくださいませ。私は褒めておりますの。王太子として、聖女様の言葉を信じ、神殿の証拠を疑わず、王国のために正しく私を捨てる。とても立派ですわ」
「黙れ」
「ええ。今は黙りましょう」
ヴィオレーヌは、白手袋の指先でアクレシスの胸元に触れた。
ほんの一瞬だった。
だがその瞬間、アクレシスの心臓が強く跳ねた。
赤い糸が、彼女の指先を嫌がるように震えた。
ヴィオレーヌの笑みが深くなる。
「殿下。今夜、あなたは死にます」
大広間に悲鳴が走った。
イリスが息を呑む。
アクレシスの顔からも血の気が引いたが、彼は崩れなかった。
「それは脅迫か」
「忠告ですわ」
「私を呪うつもりなら、この場で捕らえる」
「呪う必要などございません。もう、よくできた糸があなたを引いておりますもの」
アクレシスは彼女の手首を掴んだ。
強い力だった。
「何を知っている」
「あなたが今夜、神殿へ運ばれること」
「私は運ばれない」
「倒れますわ」
「倒れない」
「では、どうぞお気をつけて」
ヴィオレーヌは掴まれた手を引かなかった。
そのまま、アクレシスだけに聞こえる声で囁いた。
「死にたくなければ、私のところへいらっしゃいませ」
「私が、そなたのところへ?」
「ええ」
ヴィオレーヌは微笑む。
「今夜のあなたに、ほかの逃げ場はありませんから」
アクレシスは彼女の手を放した。
ヴィオレーヌは一礼した。
断罪された令嬢とは思えない、完璧な礼だった。
「それでは、失礼いたします」
「待て。まだ沙汰は終わっていない」
「終わりましたわ。殿下は私を捨てた。聖女様はあなたを手に入れた。神殿は糸を結んだ。今夜、王国は贄を得る」
彼女は顔を上げた。
「残るのは、あなたがどこへ逃げるかだけです」
誰も止められなかった。
ヴィオレーヌ・グランヴェールは、白い断罪の場から、黒紫の裾を揺らして出ていった。
その夜、アクレシスは眠らなかった。
自室に戻るとすぐ、彼は近衛騎士団長と宮廷医、法務官を呼び寄せた。
「今夜、私が倒れるとヴィオレーヌは言った」
机上に神殿から提出された証拠を並べさせる。
侍女の供述。
呪具の記録。
聖女イリスの護衛が見たという証言。
すべて、あまりに整っていた。
整いすぎていた。
だが、証拠は証拠だ。王太子である彼が、感情で覆してよいものではない。
「グランヴェール公爵家の動きは」
「屋敷に戻った令嬢以外、大きな動きは確認されておりません」
「神殿は」
「聖女様が、殿下のため夜通し祈りを捧げると」
「祈りか」
アクレシスは自分の右手を見た。
何も見えない。
だが、ヴィオレーヌが触れた胸元がまだ疼いている。
宮廷医が脈を取った。
「少し熱がおありです」
「気のせいだ」
「ですが」
「私は倒れない。今夜は誰も部屋へ入れるな。聖女も神官もだ」
近衛騎士団長が表情を変えた。
「聖女様も、でございますか」
「そう言った」
「神殿側は、殿下の身に異変があった場合、速やかに聖堂へ移すようにと」
「誰の命令だ」
団長は一瞬、答えを遅らせた。
「王妃陛下の御名による保護命令です」
アクレシスの目が細くなる。
王は病床にある。
ここ数年、王妃が王宮儀礼の多くを取り仕切っていた。第二王子ジュリアンの母である王妃が。
「私は王太子だ」
「もちろんでございます」
「ならば、私の身柄は私が決める」
「殿下がご健康であれば」
団長の返答は丁寧だった。
丁寧すぎた。
アクレシスは立ち上がった。
その瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走る。
「殿下!」
床が傾いた。
燭台の火が白く伸びる。
遠くで、誰かが扉を開けた。
甘い香が部屋へ入り込む。
聖女イリスの声がした。
「殿下を神殿へ。今ならまだ、魂は救えます」
アクレシスは剣に手を伸ばそうとした。
だが指が動かなかった。
胸が熱い。
心臓を赤い針金で巻かれ、ゆっくり引き抜かれているようだった。
「私は……命じていない」
声にならない声で、彼は言った。
返事はなかった。
意識が沈む直前、彼は一つだけ理解した。
ヴィオレーヌの言葉は、呪いではなかった。
予告だった。
目を開けると、白い礼拝堂にいた。
柱も、床も、天井も白い。
音はない。
香りもない。
ただ、白すぎる世界の奥に聖女イリスが立っている。
「アクレシス様」
彼女は手を伸ばした。
「こちらへ」
アクレシスは足を動かそうとした。
動けなかった。
胸から赤い糸が伸びている。糸はイリスの手へではなく、彼女の背後にある祭壇へ続いていた。
「ここはどこだ」
「あなたが選ばれる場所です」
「私は死んだのか」
「いいえ。あなたは王国を守るのです」
イリスの声は柔らかかった。
柔らかく、無慈悲だった。
王国を守る。
生まれたときから聞かされてきた言葉だった。
王家の血は民のためにある。
王太子は国の柱である。
王となる者は、誰よりも先に犠牲を受け入れなければならない。
それは誇りだった。
アクレシスが自分自身を保つための背骨だった。
赤い糸が、胸の奥へさらに食い込む。
「イリス」
「はい」
「これは祝福か」
「ええ」
「なら、なぜ痛む」
イリスは悲しげに微笑んだ。
「尊いものには、痛みが伴います」
「私が戻りたいと言ったら」
「あなたはもう、戻らなくてよいのです」
「生きたいと言ったら」
「あなたの魂は、永遠に王国と共にあります」
その言葉に、アクレシスは初めて恐怖した。
イリスは嘘をついていない。
少なくとも、自分では嘘だと思っていない。
彼女にとって、アクレシスが生き延びることと、アクレシスが救われることは同じではない。
「私は、君に愛されていたのではないのか」
イリスは答えなかった。
答える必要がないという顔だった。
そのとき、礼拝堂の扉が開いた。
白い世界に、黒紫が差し込む。
ヴィオレーヌ・グランヴェールが、夜会のときと同じドレスで入ってきた。
彼女は白い床の上を、汚れることなく歩いてくる。
「間に合いましたわね」
イリスの顔が変わった。
「なぜここへ」
「扉がありましたので」
「ここは神の領域です」
「まあ。鍵もかけずに?」
ヴィオレーヌはアクレシスの前に立った。
彼女が近づくほど、赤い糸が震える。
アクレシスは荒い息を吐いた。
「ヴィオレーヌ。これは何だ」
「贄の糸です」
「運命では」
「ありませんわ」
ヴィオレーヌは糸を指先で摘まんだ。
焼けるような音がした。
「王家の血を、神殿の結界へ縫いつけるためのもの。恋の糸に見せて、祝福と名づけて、聖女様の涙で飾った、ただの首輪です」
「違います!」
イリスが叫んだ。
「殿下は選ばれたのです! 王国を救うために!」
「選んだのは神ではなく、あなた方でしょう」
ヴィオレーヌは振り向かない。
ただ、アクレシスの頬に触れた。
「ご覧になりましたか、アクレシス様。聖女様は、あなたが生き延びる未来を一度も望まなかった」
アクレシスはイリスを見た。
白い聖女。
悲しげな瞳。
祈るような手。
だが、その奥に彼はいなかった。
そこにあるのは、王家の血であり、神殿の結界であり、聖女の役目だった。
アクレシスという一人の男ではなかった。
「私は、どこへ行けばいい」
気づけば、彼はそう言っていた。
ヴィオレーヌの目が優しく細められる。
「神殿ではありません」
赤い糸が軋む。
「王宮でもありません」
礼拝堂の壁にひびが入る。
「聖女様の腕の中でもありません」
ヴィオレーヌは、彼に顔を近づけた。
「あの世にも、あなたの席はございませんわ」
「なら、私は」
「しょうがないでしょう?」
彼女の唇が、彼の唇に触れた。
それは恋の熱ではなかった。
毒のように冷たく、契約のように正確だった。
白い礼拝堂が砕ける。
イリスの叫びが遠のく。
赤い糸が断ち切れる寸前、ヴィオレーヌの声だけが耳に残った。
「逃げるなら、こちらへ」
アクレシスが目を覚ましたとき、最初に見えたのは黒薔薇だった。
夜の温室。
硝子の天井の向こうに、月が浮かんでいる。
甘い香りがした。
花の香。
薬の香。
毒の香。
寝台の傍らで、ヴィオレーヌが本を読んでいた。夜会のドレスではなく、淡い菫色の部屋着をまとっている。
「お目覚めですか、アクレシス様」
アクレシスはすぐに起き上がった。
胸が痛んだ。
だが、倒れなかった。
「ここは」
「グランヴェール公爵家の温室です」
「私を連れ去ったのか」
「神殿へ運ばれる途中で、保護いたしました」
「言い換えるな。誘拐だ」
「では、誘拐で結構ですわ」
ヴィオレーヌは本を閉じた。
悪びれる様子はない。
アクレシスは寝台から降りる。
「近衛は」
「外に」
「私を王宮へ戻せ」
「お望みなら」
彼女は温室の扉を指した。
扉は開いていた。
鍵はない。
見張りもいない。
アクレシスは目を細める。
「罠か」
「逃げ道ですわ。殿下がお好きな」
「私は逃げない。戻るのだ」
「同じことではなくて?」
アクレシスは彼女を睨んだ。
「私は王太子だ。神殿が腐っているなら、私が裁く。王妃派が関わっているなら、私が問う。ジュリアンが裏切ったなら、私がその罪を明らかにする。そなたの温室で震えている理由はない」
ヴィオレーヌは、嬉しそうに微笑んだ。
「そうでなくては」
「何?」
「立派ですわ、アクレシス様。王太子らしくて、とても綺麗」
「馬鹿にしているのか」
「まさか」
ヴィオレーヌは立ち上がった。
「では、お確かめくださいませ」
アクレシスは扉へ向かった。
温室の外には、グランヴェール公爵家の庭園が広がっている。その向こう、鉄柵の外には近衛騎士が並んでいた。自分の近衛だ。少年の頃から知る顔もある。
アクレシスは扉を開け、外へ出た。
「団長を呼べ」
近衛騎士たちが動揺する。
やがて、昨夜の団長が前へ出た。
アクレシスは命じた。
「馬車を用意しろ。王宮へ戻る」
団長は片膝をついた。
「殿下。王妃陛下の御名により、殿下には神殿での静養が命じられております」
「私は王太子だ」
「殿下が健やかであらせられるなら」
「私が狂っているとでも?」
「神殿は、聖女様の祝福を拒まれた魂は混乱すると」
アクレシスの口元が歪んだ。
「つまり、私が神殿を拒めば、その時点で私の判断は無効になるわけか」
団長は答えなかった。
アクレシスはさらに前へ出ようとした。
近衛騎士たちが、いっせいに道を塞いだ。
剣は抜いていない。
だが、道は開けない。
背後で、ヴィオレーヌが言った。
「王宮はあなたを守りません」
アクレシスは振り返らなかった。
「黙っていろ」
「ええ」
彼は近衛を見渡した。
「私の命令に従う者はいるか」
誰も動かなかった。
全員が苦しそうな顔をしていた。
だが、誰も道を開けなかった。
アクレシスは、温室へ戻った。
扉が開いている理由を、少しだけ理解した。
鍵など必要ない。
外が檻なら、内側に鍵はいらない。
温室の中で、ヴィオレーヌは小卓の上に数通の書簡を並べていた。
「神殿の儀式記録。王妃派の密書。第二王子ジュリアン殿下が署名した、王太子殿下の病による継承権移行の準備書面。すべて写しではなく原本です」
「なぜ持っている」
「集めましたの」
「いつから」
「あなたが聖女様に微笑むようになった頃から」
アクレシスは書簡を手に取った。
そこには、神聖婚の後、王太子が「王国守護のため神殿で長期静養に入る」予定が記されていた。
長期静養。
その言葉の下に、結界強化、王家の魂、聖者認定という語が並んでいる。
別の書簡には、ジュリアンの筆跡があった。
兄上が神に選ばれた後、王国の混乱を防ぐため、自分が王太子の責務を引き受ける。
滑らかな文字だった。
あまりに整っていた。
「ジュリアンは、知っていたのか」
「あなたが消えたあと、自分が立つことは」
「贄のことは」
「そこまで知っていたかはわかりません」
「わからない?」
「彼にとって都合のいい言葉で包まれていたでしょうから。献身、聖者、神の側近、病める兄を支える弟。綺麗な箱に入っていれば、人は案外、中身を確かめません」
ヴィオレーヌは、静かに続けた。
「あなたがそうだったように」
アクレシスは書簡を握り潰しそうになった。
だが、破らなかった。
王太子として、証拠を壊すことはできない。
「これを公表する」
「もう送ってありますわ」
「何?」
「三公爵家、東方辺境伯、王立法務院の長、王都新聞社の編集主幹。神殿が今夜この屋敷へ踏み込めば、夜明けには王都中が知ります」
「そなたは」
「準備しておりました」
ヴィオレーヌは微笑む。
「あなたを奪うために」
アクレシスは息を呑んだ。
助けるため、ではない。
救うため、でもない。
奪うため。
その言葉はあまりに正直で、恐ろしかった。
「グランヴェール公爵家は、王家に弓を引くつもりか」
「いいえ。王家の血を神殿に食わせようとした者たちに、少しばかり花を贈るだけです」
「花?」
ヴィオレーヌは温室を見回した。
黒薔薇が咲いている。
夜の底のような花弁。
「この温室は、昔、グランヴェール家の旧礼拝堂でした。王家より古く、神殿より古い、土と死者のための祈り場です。黒薔薇は神殿術式を食います。ここでは、聖女様の糸も、神官の祈りも、まともには働きません」
「だから私をここへ」
「ええ」
ヴィオレーヌは平然と答える。
「王宮へ戻れば、あなたは神殿へ渡されます。神殿へ行けば、魂を縫われます。聖女様のもとへ戻れば、もう一度きれいに騙されます。弟君を頼れば、あなたの椅子はすでに片づけられています」
彼女は一歩近づく。
「ねえ、アクレシス様。どこへ逃げるおつもり?」
「私は逃げないと言った」
「では、どこで戦いますの」
アクレシスは黙った。
戦う場所。
王宮は敵の手の中。
神殿は檻。
近衛は命令を待たない。
弟は署名している。
民は、王太子の尊い犠牲を美談として受け入れるだろう。
王太子であることが、彼の武器ではなく、鎖になっている。
「君は、私を救っているのか」
アクレシスは低く言った。
「ええ」
「それとも、閉じ込めているのか」
「同じことではなくて?」
ヴィオレーヌは、心底不思議そうに言った。
その顔を見て、アクレシスは悟った。
彼女は冗談を言っていない。
本当に、そう思っている。
外に出れば死ぬ。
ならば、外へ出さない。
ほかに居場所がない。
ならば、自分が居場所になる。
それを愛と呼ぶことに、ヴィオレーヌは何の疑いも持っていない。
夜明け前、温室の外が騒がしくなった。
神殿騎士が到着した。
白い外套。
銀の剣。
聖印を刻んだ盾。
その中央に、聖女イリス・ベルナージュが立っていた。
彼女は乱れていなかった。
泣き腫らした顔でも、追い詰められた顔でもない。
むしろ、夜会のときより落ち着いていた。
その背後には、第二王子ジュリアンがいる。
彼は豪奢な青い礼服をまとっていた。胸には、王太子代理の印である銀の獅子章が輝いている。
勝者の服装だった。
ただし、その顔にはわずかな不安が滲んでいた。
アクレシスが生きて、温室の内側に立っているからだ。
「兄上」
ジュリアンが言った。
「ご無事で何よりです」
アクレシスはその声を聞き、ゆっくりと振り返った。
「そう思っている顔ではないな」
ジュリアンは一瞬、口を閉ざした。
すぐに作り直した笑みを浮かべる。
「兄上は神殿で静養なさるべきです。王国のためにも」
「私のためではなく?」
「もちろん、兄上のためでも」
「私が戻らなければ、お前が王太子になる」
「それは、王国を混乱させないために必要な備えです」
「備えが早いな」
ジュリアンの頬が強張った。
イリスが一歩前へ出る。
「アクレシス様。どうかお戻りください。神殿はあなたを責めません。迷いも恐れも、すべて神の御前で清められます」
「私が戻らなければ?」
「王国は別の道を選ばねばなりません」
別の道。
その言葉に、ジュリアンがわずかに視線を動かした。
ヴィオレーヌは、それを見逃さなかった。
「聖女様は周到ですわね」
彼女は温室の中央へ進み出た。
「アクレシス様を連れ戻せれば最上。無理ならば、第二王子殿下をここで“王国を救う聖者”に仕立てる。どちらに転んでも神殿は勝つ」
イリスは微笑んだ。
「王国が救われるのです」
「愛ではありませんわね」
「愛より尊いものがあります」
「ええ。あなたにとっては」
イリスの表情は崩れない。
彼女は小物ではない。
信じているのだ。
王国のために王家の魂を使うことは正しい。
聖女である自分がそれを導くのは正しい。
そのために誰かが泣き、誰かが死に、誰かが居場所を失っても、神の物語の中では正しい。
「ヴィオレーヌ様」
イリスは言った。
「あなたは殿下を愛していると言いながら、殿下を王国から切り離そうとしている」
「あなたは王国を愛していると言いながら、アクレシス様が生きる未来を一度も望まない」
「殿下は王家の方です」
「その前に、一人の男ですわ」
「一人の男である前に、王太子です」
アクレシスは、二人の声を聞いていた。
イリスの言葉は、彼がずっと自分に言い聞かせてきたものだった。
一人の男である前に、王太子。
個人である前に、王家。
自分の命である前に、国。
だから苦しい。
だから、反論できない。
ヴィオレーヌは、彼の沈黙を見て、少しだけ笑った。
「アクレシス様。まだ迷われますか」
「迷うに決まっている」
「そうでしょうね。あなたはお利口ですもの」
「その言い方をやめろ」
「嫌ですわ」
ヴィオレーヌは楽しげに言った。
「私は、あなたのお利口なところが好きなのです」
アクレシスは怒るべきだった。
怒鳴るべきだった。
だが、その言葉が胸の奥に沈んだ。
王太子としての正しさを、イリスは祭壇へ運ぼうとした。
ヴィオレーヌは笑いながら、それを愛でる。
同じ鎖でも、彼女の鎖は温かい。
いや、温かいと思わせる毒だった。
ジュリアンが苛立ったように叫んだ。
「兄上! いつまでその女の言葉に惑わされているのです。あなたは王国のために選ばれた。私は、その後を支える覚悟を決めたのです」
「私の死後をか」
「死ではありません。聖者として永遠に」
「お前は、本当にそう信じていたのか」
ジュリアンは答えなかった。
その足首に、赤い糸が絡みついた。
アクレシスの目には見えない。
だが、ヴィオレーヌには見える。
そして、イリスにも。
イリスは、静かにジュリアンへ向き直った。
「第二王子殿下」
その声は、夜会でアクレシスに向けたものと同じだった。
柔らかく、白く、逃げ道を消す声。
「あなたこそ、王国を救うにふさわしい御方です」
ジュリアンは笑おうとした。
笑えなかった。
「何を言っている、イリス。私は兄上の後を」
「ええ。受け継がれるのです。王家の尊い役目を」
「違う。私は、王太子に」
「あなたは署名なさいました」
イリスが懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
ジュリアンの顔が歪む。
「それは、兄上が聖者となられた後の」
「王国の結界が王家の血を必要とした場合、王家の継承者として身を捧げる覚悟がある、と」
「形式だと言っただろう!」
「神の前に形式はございません」
赤い糸が、ジュリアンの膝まで這い上がる。
彼は足を払おうとした。
見えないものを払う姿は滑稽で、哀れだった。
「イリス、やめろ。私は王になる。そういう約束だった」
「王国を救う方は、王より尊いのです」
「ふざけるな!」
ジュリアンが神殿騎士へ命じる。
「その女を捕らえろ! 兄上を神殿へ戻せ! 私は、私は違う!」
神殿騎士は動かなかった。
ジュリアンの命令ではなく、イリスの祈りを待っていた。
ジュリアンは初めて理解した。
自分は神殿に担がれていたのではない。
運ばれていたのだ。
兄の代わりに、祭壇へ。
「兄上!」
ジュリアンが手を伸ばす。
「助けてくれ!」
アクレシスは動いた。
反射だった。
弟がどれだけ愚かで、どれだけ自分の失脚を望んでいたとしても、幼い頃に同じ庭を走った弟だった。
だが、ヴィオレーヌが彼の手を掴んだ。
「行ってどうなさいます」
「離せ」
「あなたが代わりに戻れば、助けられますわ」
「なら」
「本当に?」
ヴィオレーヌの声が低くなった。
甘さはある。
だが、その奥に冷たい刃があった。
「あなたが神殿へ戻る。王国は喜ぶ。聖女様は祈る。ジュリアン殿下はまた王太子の椅子へ近づく。ノエル殿下は何も知らずに笑う。あなたは永遠に結界の中で、王国を守る尊い聖者になる」
アクレシスの足が止まる。
「美しいですわね。あなたがずっと教えられてきた、王太子の正しさそのものです」
「ヴィオレーヌ」
「また、お利口に騙されてくださるの?」
その一言で、アクレシスは動けなくなった。
ジュリアンの叫びが聞こえる。
イリスの祈りが始まる。
赤い糸が、ジュリアンの胸へ届く。
アクレシスは歯を食いしばった。
王太子としてなら、行くべきだった。
兄としてなら、救うべきだった。
だが、行けば自分が贄になる。
自分が贄になれば、神殿は勝つ。
イリスは勝つ。
ジュリアンは、怯えながらも、また生き残るかもしれない。
ノエルは何も知らないまま、次の糸を待つかもしれない。
アクレシスは初めて、王太子としてではなく、自分の意思で選ばなければならなかった。
死んで国を守るのか。
生きて、すべてを失うのか。
ヴィオレーヌが彼の手を握る。
「契りましょう、アクレシス様」
「今、ここで?」
「ええ。神でも、王国でも、聖女でもなく、私と」
「それで私は生きるのか」
「生きますわ」
「代償は」
「あなたの魂の帰る場所を、私に変えます」
アクレシスは彼女を見た。
「それは、救いか」
「もちろんですわ」
ヴィオレーヌは、いつものように微笑んだ。
「あなたが私から逃げようとなさらない限りは」
ジュリアンが泣き叫ぶ。
イリスが祈る。
神殿騎士が聖印を掲げる。
温室の黒薔薇が、一斉に香りを強めた。
アクレシスは、ヴィオレーヌの手を握り返した。
「私は、神殿の贄にはならない」
「ええ」
「王国の美談にもならない」
「ええ」
「私は生きる」
その言葉は、王太子らしくなかった。
だが、初めて彼自身のものだった。
ヴィオレーヌの瞳が、甘く光る。
「よろしいですわ」
彼女は背伸びをした。
二度目のキスは、一度目より深かった。
黒薔薇が咲き乱れる。
硝子の天井が震え、床の下から古い礼拝堂の紋様が浮かび上がる。
アクレシスの胸に残っていた赤い糸の欠片が引き抜かれた。
代わりに、黒紫の蔓が彼の魂を包んでいく。
痛みはなかった。
ただ、空いていた場所に、誰かの名前が刻まれる感覚があった。
ヴィオレーヌ。
彼の帰る場所。
彼の逃げ場。
彼の檻。
イリスが叫んだ。
「やめて! 殿下は王国のものです!」
ヴィオレーヌは唇を離し、振り向いた。
「もう違いますわ」
その瞬間、アクレシスから完全に切り離された赤い糸が、ジュリアンへ絡みついた。
「兄上! 兄上!」
ジュリアンが手を伸ばす。
アクレシスは動かなかった。
動かないことを選んだ。
その事実が、彼の胸を裂いた。
ヴィオレーヌが囁く。
「見ない方がいいわ」
アクレシスは目を閉じなかった。
逃げなかった。
ジュリアンが神殿騎士に押さえられ、イリスの祈りに包まれ、赤い糸に縫われていくのを、最後まで見た。
弟は泣いていた。
怒っていた。
裏切られた顔をしていた。
かつて兄を裏切ったことなど、忘れたような顔だった。
夜明けの鐘が鳴る。
それは新しい日を告げる鐘ではなかった。
贄が決まったことを告げる鐘だった。
数日後、王都には清らかな知らせが流れた。
第二王子ジュリアン殿下は、王国を守るため神殿に入り、聖者となられた。
王太子アクレシス殿下は重い病により継承権を返上し、グランヴェール公爵家で静養される。
第三王子ノエル殿下が、新たな王太子として立てられる。
民は泣いた。
ジュリアンの尊い献身に。
病に倒れた兄を思いながら立つ、幼いノエルの健気さに。
聖女イリスの祈りに。
神殿の奇跡に。
誰も、本当のことを知らなかった。
ジュリアンが兄の代用品として祭壇へ引きずられたこと。
イリスが王国を愛し、アクレシス個人を愛してはいなかったこと。
グランヴェール公爵家の温室で、黒薔薇が神殿の糸を食ったこと。
アクレシスが救われたのではなく、奪われたこと。
何も知らないノエルだけが、白い礼服を着せられ、王太子の椅子に座った。
アクレシスは、遠くからその報せを聞いた。
温室の扉は、今日も開いている。
彼はその前に立っていた。
外には庭園がある。
その向こうには王都がある。
さらに先には王宮があり、ノエルがいる。
行こうと思えば、行ける。
少なくとも、扉に鍵はない。
見張りもいない。
ヴィオレーヌは彼を縛っていない。
アクレシスは一歩、外へ踏み出そうとした。
その瞬間、胸の奥が冷えた。
痛みではなかった。
恐怖でもなかった。
空っぽになる感覚。
自分の魂が、外へ向かっていない。
背後へ引かれている。
黒薔薇の香り。
菫色の衣擦れ。
静かな足音。
「お出かけになりますの?」
ヴィオレーヌがいた。
朝の光の中で、彼女は夜より白く見えた。
だが、その白は聖女の白ではない。
毒を含んだ花の白だった。
「ノエルに会う」
アクレシスは言った。
「ええ」
「すべてを話す」
「ええ」
「神殿を裁く」
「ええ」
ヴィオレーヌは何も否定しない。
止めもしない。
ただ、微笑んでいる。
アクレシスは扉の外を見た。
足が動かない。
動かそうとすればするほど、胸の奥に刻まれた名が疼く。
ヴィオレーヌ。
ヴィオレーヌ。
ヴィオレーヌ。
彼は唇を噛んだ。
「君は、私に何をした」
「契りました」
「私は、君の虜なのか」
「今さらですわね」
「君は私を愛しているのか」
「ええ」
ヴィオレーヌは迷わず答えた。
「朽ちるまで」
「私は救われたのか」
「ええ」
「閉じ込められたのか」
「ええ」
アクレシスは笑った。
笑うしかなかった。
ヴィオレーヌも笑った。
少女のように。
悪魔のように。
彼女は近づき、彼の手を取る。
冷たい指だった。
だが、その冷たさだけが、今のアクレシスには確かなものだった。
「あなたは、あちらへ戻らなくてよろしいのです」
「私は王太子だった」
「でしたわね」
「兄だった」
「ええ」
「国を守るはずだった」
「その国は、あなたの死を望みました」
アクレシスは黙った。
ヴィオレーヌは彼の胸に手を当てた。
そこにはもう、赤い糸はない。
黒紫の蔓が、静かに彼の魂を包んでいる。
「王宮にも、神殿にも、聖女様の腕の中にも、あの世にも、あなたの席はございません」
ヴィオレーヌは囁いた。
「あなたの居場所は私です、アクレシス」
外の庭は美しかった。
自由に見えた。
だが、そこには何もなかった。
彼の帰る場所は、背後の温室にしかない。
黒薔薇と、菫の香りと、優しい声で逃げ道を塞ぐ悪役令嬢。
アクレシスは、ゆっくりと扉から手を離した。
ヴィオレーヌが満足そうに微笑む。
「いい子ですわ」
「その言い方は嫌いだ」
「知っております」
「それでも言うのか」
「好きですもの」
アクレシスはもう一度笑った。
今度の笑いは、少しだけ泣き声に似ていた。
ヴィオレーヌは彼の手を引く。
アクレシスは抵抗しなかった。
温室の奥へ戻る。
扉は開いたままだった。
鍵など、最初から必要なかった。
「もう大丈夫ですわ」
ヴィオレーヌは、甘く、優しく、残酷に微笑んだ。
「あなたの逃げ場は、悪役令嬢の私ですもの」




