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あなたの逃げ場は、悪役令嬢の私

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/07/03

 王宮の大広間は、白く飾られていた。


 白い花。


 白い燭台。


 白い絹の垂れ幕。


 神殿から運び込まれた聖なる香炉からは、甘く澄んだ煙が立ちのぼっている。今夜は王太子アクレシス・レーヴェルトと聖女イリス・ベルナージュの神聖なる親交を祝う夜会だと、王都中に知らされていた。


 だが、本当の目的を知らぬ者はいない。


 王太子が、公爵令嬢ヴィオレーヌ・グランヴェールとの婚約を破棄する。


 その瞬間を見届けるために、王侯貴族は白い礼服をまとい、神殿の聖歌隊は壁際に並び、近衛騎士は剣の柄に手を置いていた。


 白い夜会。


 白い断罪。


 その中央で、ヴィオレーヌだけが黒紫のドレスをまとっていた。


 夜に咲く菫のような色だった。光を受けても明るくならず、むしろ周囲の白を吸い込んで、彼女の輪郭だけを静かに濃くする。


 アクレシスは玉座の前に立っていた。


 王太子の正装。


 肩には金糸の飾緒。


 胸には王家の獅子章。


 隣には、白い法衣の聖女イリスがいる。


 アクレシスは美しい男だった。若く、気高く、正しい顔をしている。だがその顔は今、恋に浮かされた愚者のものではなかった。


 彼は王太子としてそこにいた。


 王国の正義を執行する者として。


「ヴィオレーヌ・グランヴェール」


 アクレシスの声が大広間に響いた。


「私は、そなたとの婚約を破棄する」


 ざわめきは起こらなかった。


 誰もが待っていた言葉だった。


 アクレシスは続ける。


「そなたは聖女イリス・ベルナージュに対し、幾度となく侮辱と妨害を行った。神殿が提出した証言、侍女たちの供述、王宮内で発見された呪具。すべて確認した」


 ヴィオレーヌは黙って聞いていた。


 否定もしない。


 怯えもしない。


 ただ、アクレシスの右手を見ていた。


 薬指に、赤い糸が絡んでいる。


 誰の目にも見えない糸だった。聖女イリスが「運命」と呼び、神殿が「祝福」と呼び、王宮が「奇跡」と呼んだもの。


 けれど、ヴィオレーヌにはわかる。


 それは恋人同士を結ぶ糸ではない。


 獲物を祭壇へ引きずるための、血の色をした綱だ。


 赤い糸はアクレシスの指から手首へ、袖の内へ、胸の奥へと潜り込んでいる。そのさらに向こう、彼の背後には、黒い影のような糸が垂れていた。


 この世の床には落ちていない。


 天井にも届いていない。


 あの世へ、彼の魂を引いている。


 ヴィオレーヌは、ゆっくりと微笑んだ。


「確認なさったのですね」


「無論だ」


「ご自分で?」


 アクレシスの眉がわずかに動いた。


「神殿の調査官、王宮法務官、近衛騎士団がそれぞれ調べた。そなたがいかにグランヴェール公爵家の令嬢であろうと、この場で覆せるものではない」


「まあ」


 ヴィオレーヌは、少女のように首を傾げた。


「では、よほど綺麗に整えられていたのでしょうね」


「何が言いたい」


「証拠ですわ。殿下がお利口に信じられるように、よく磨かれて、並べられて、香まで焚きしめられていたのでしょう」


 大広間の空気が尖った。


 近衛騎士の指が剣の柄を撫でる。


 イリスが悲しげに目を伏せた。


「ヴィオレーヌ様。どうか、これ以上罪を重ねないでください」


「罪?」


 ヴィオレーヌの視線が、初めてイリスへ向いた。


 それは冷たい視線ではなかった。


 むしろ甘い。


 蜜を含んだ毒のような目だった。


「聖女様。あなたは本当にお上手ですわね」


「私はただ、殿下をお守りしたいだけです」


「ええ。そう見えるように」


 イリスの白い睫毛が震えた。


 アクレシスが一歩前へ出る。


「ヴィオレーヌ。聖女を侮辱するな。そなたの相手は私だ」


「では、殿下」


 ヴィオレーヌは彼に向き直った。


「お遊びは楽しかったですか」


「遊びなどではない」


「神のお告げ、運命の糸、聖女様の涙。甘くて、白くて、綺麗なものを並べられて」


 彼女は静かに近づいた。


 衛兵が動こうとする。


 アクレシスが片手で制した。


 王太子としての矜持が、彼女から逃げることを許さなかった。


 ヴィオレーヌは彼の前で立ち止まる。


「簡単に騙されてしまわれたのですね」


 その声は、嘲笑ではなかった。


 責めてもいなかった。


 あまりに優しく、あまりに甘く、だからこそアクレシスの胸を深く刺した。


「お利口ですこと、アクレシス様」


「ヴィオレーヌ」


「怒らないでくださいませ。私は褒めておりますの。王太子として、聖女様の言葉を信じ、神殿の証拠を疑わず、王国のために正しく私を捨てる。とても立派ですわ」


「黙れ」


「ええ。今は黙りましょう」


 ヴィオレーヌは、白手袋の指先でアクレシスの胸元に触れた。


 ほんの一瞬だった。


 だがその瞬間、アクレシスの心臓が強く跳ねた。


 赤い糸が、彼女の指先を嫌がるように震えた。


 ヴィオレーヌの笑みが深くなる。


「殿下。今夜、あなたは死にます」


 大広間に悲鳴が走った。


 イリスが息を呑む。


 アクレシスの顔からも血の気が引いたが、彼は崩れなかった。


「それは脅迫か」


「忠告ですわ」


「私を呪うつもりなら、この場で捕らえる」


「呪う必要などございません。もう、よくできた糸があなたを引いておりますもの」


 アクレシスは彼女の手首を掴んだ。


 強い力だった。


「何を知っている」


「あなたが今夜、神殿へ運ばれること」


「私は運ばれない」


「倒れますわ」


「倒れない」


「では、どうぞお気をつけて」


 ヴィオレーヌは掴まれた手を引かなかった。


 そのまま、アクレシスだけに聞こえる声で囁いた。


「死にたくなければ、私のところへいらっしゃいませ」


「私が、そなたのところへ?」


「ええ」


 ヴィオレーヌは微笑む。


「今夜のあなたに、ほかの逃げ場はありませんから」


 アクレシスは彼女の手を放した。


 ヴィオレーヌは一礼した。


 断罪された令嬢とは思えない、完璧な礼だった。


「それでは、失礼いたします」


「待て。まだ沙汰は終わっていない」


「終わりましたわ。殿下は私を捨てた。聖女様はあなたを手に入れた。神殿は糸を結んだ。今夜、王国は贄を得る」


 彼女は顔を上げた。


「残るのは、あなたがどこへ逃げるかだけです」


 誰も止められなかった。


 ヴィオレーヌ・グランヴェールは、白い断罪の場から、黒紫の裾を揺らして出ていった。


 その夜、アクレシスは眠らなかった。


 自室に戻るとすぐ、彼は近衛騎士団長と宮廷医、法務官を呼び寄せた。


「今夜、私が倒れるとヴィオレーヌは言った」


 机上に神殿から提出された証拠を並べさせる。


 侍女の供述。


 呪具の記録。


 聖女イリスの護衛が見たという証言。


 すべて、あまりに整っていた。


 整いすぎていた。


 だが、証拠は証拠だ。王太子である彼が、感情で覆してよいものではない。


「グランヴェール公爵家の動きは」


「屋敷に戻った令嬢以外、大きな動きは確認されておりません」


「神殿は」


「聖女様が、殿下のため夜通し祈りを捧げると」


「祈りか」


 アクレシスは自分の右手を見た。


 何も見えない。


 だが、ヴィオレーヌが触れた胸元がまだ疼いている。


 宮廷医が脈を取った。


「少し熱がおありです」


「気のせいだ」


「ですが」


「私は倒れない。今夜は誰も部屋へ入れるな。聖女も神官もだ」


 近衛騎士団長が表情を変えた。


「聖女様も、でございますか」


「そう言った」


「神殿側は、殿下の身に異変があった場合、速やかに聖堂へ移すようにと」


「誰の命令だ」


 団長は一瞬、答えを遅らせた。


「王妃陛下の御名による保護命令です」


 アクレシスの目が細くなる。


 王は病床にある。


 ここ数年、王妃が王宮儀礼の多くを取り仕切っていた。第二王子ジュリアンの母である王妃が。


「私は王太子だ」


「もちろんでございます」


「ならば、私の身柄は私が決める」


「殿下がご健康であれば」


 団長の返答は丁寧だった。


 丁寧すぎた。


 アクレシスは立ち上がった。


 その瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走る。


「殿下!」


 床が傾いた。


 燭台の火が白く伸びる。


 遠くで、誰かが扉を開けた。


 甘い香が部屋へ入り込む。


 聖女イリスの声がした。


「殿下を神殿へ。今ならまだ、魂は救えます」


 アクレシスは剣に手を伸ばそうとした。


 だが指が動かなかった。


 胸が熱い。


 心臓を赤い針金で巻かれ、ゆっくり引き抜かれているようだった。


「私は……命じていない」


 声にならない声で、彼は言った。


 返事はなかった。


 意識が沈む直前、彼は一つだけ理解した。


 ヴィオレーヌの言葉は、呪いではなかった。


 予告だった。


 目を開けると、白い礼拝堂にいた。


 柱も、床も、天井も白い。


 音はない。


 香りもない。


 ただ、白すぎる世界の奥に聖女イリスが立っている。


「アクレシス様」


 彼女は手を伸ばした。


「こちらへ」


 アクレシスは足を動かそうとした。


 動けなかった。


 胸から赤い糸が伸びている。糸はイリスの手へではなく、彼女の背後にある祭壇へ続いていた。


「ここはどこだ」


「あなたが選ばれる場所です」


「私は死んだのか」


「いいえ。あなたは王国を守るのです」


 イリスの声は柔らかかった。


 柔らかく、無慈悲だった。


 王国を守る。


 生まれたときから聞かされてきた言葉だった。


 王家の血は民のためにある。


 王太子は国の柱である。


 王となる者は、誰よりも先に犠牲を受け入れなければならない。


 それは誇りだった。


 アクレシスが自分自身を保つための背骨だった。


 赤い糸が、胸の奥へさらに食い込む。


「イリス」


「はい」


「これは祝福か」


「ええ」


「なら、なぜ痛む」


 イリスは悲しげに微笑んだ。


「尊いものには、痛みが伴います」


「私が戻りたいと言ったら」


「あなたはもう、戻らなくてよいのです」


「生きたいと言ったら」


「あなたの魂は、永遠に王国と共にあります」


 その言葉に、アクレシスは初めて恐怖した。


 イリスは嘘をついていない。


 少なくとも、自分では嘘だと思っていない。


 彼女にとって、アクレシスが生き延びることと、アクレシスが救われることは同じではない。


「私は、君に愛されていたのではないのか」


 イリスは答えなかった。


 答える必要がないという顔だった。


 そのとき、礼拝堂の扉が開いた。


 白い世界に、黒紫が差し込む。


 ヴィオレーヌ・グランヴェールが、夜会のときと同じドレスで入ってきた。


 彼女は白い床の上を、汚れることなく歩いてくる。


「間に合いましたわね」


 イリスの顔が変わった。


「なぜここへ」


「扉がありましたので」


「ここは神の領域です」


「まあ。鍵もかけずに?」


 ヴィオレーヌはアクレシスの前に立った。


 彼女が近づくほど、赤い糸が震える。


 アクレシスは荒い息を吐いた。


「ヴィオレーヌ。これは何だ」


「贄の糸です」


「運命では」


「ありませんわ」


 ヴィオレーヌは糸を指先で摘まんだ。


 焼けるような音がした。


「王家の血を、神殿の結界へ縫いつけるためのもの。恋の糸に見せて、祝福と名づけて、聖女様の涙で飾った、ただの首輪です」


「違います!」


 イリスが叫んだ。


「殿下は選ばれたのです! 王国を救うために!」


「選んだのは神ではなく、あなた方でしょう」


 ヴィオレーヌは振り向かない。


 ただ、アクレシスの頬に触れた。


「ご覧になりましたか、アクレシス様。聖女様は、あなたが生き延びる未来を一度も望まなかった」


 アクレシスはイリスを見た。


 白い聖女。


 悲しげな瞳。


 祈るような手。


 だが、その奥に彼はいなかった。


 そこにあるのは、王家の血であり、神殿の結界であり、聖女の役目だった。


 アクレシスという一人の男ではなかった。


「私は、どこへ行けばいい」


 気づけば、彼はそう言っていた。


 ヴィオレーヌの目が優しく細められる。


「神殿ではありません」


 赤い糸が軋む。


「王宮でもありません」


 礼拝堂の壁にひびが入る。


「聖女様の腕の中でもありません」


 ヴィオレーヌは、彼に顔を近づけた。


「あの世にも、あなたの席はございませんわ」


「なら、私は」


「しょうがないでしょう?」


 彼女の唇が、彼の唇に触れた。


 それは恋の熱ではなかった。


 毒のように冷たく、契約のように正確だった。


 白い礼拝堂が砕ける。


 イリスの叫びが遠のく。


 赤い糸が断ち切れる寸前、ヴィオレーヌの声だけが耳に残った。


「逃げるなら、こちらへ」


 アクレシスが目を覚ましたとき、最初に見えたのは黒薔薇だった。


 夜の温室。


 硝子の天井の向こうに、月が浮かんでいる。


 甘い香りがした。


 花の香。


 薬の香。


 毒の香。


 寝台の傍らで、ヴィオレーヌが本を読んでいた。夜会のドレスではなく、淡い菫色の部屋着をまとっている。


「お目覚めですか、アクレシス様」


 アクレシスはすぐに起き上がった。


 胸が痛んだ。


 だが、倒れなかった。


「ここは」


「グランヴェール公爵家の温室です」


「私を連れ去ったのか」


「神殿へ運ばれる途中で、保護いたしました」


「言い換えるな。誘拐だ」


「では、誘拐で結構ですわ」


 ヴィオレーヌは本を閉じた。


 悪びれる様子はない。


 アクレシスは寝台から降りる。


「近衛は」


「外に」


「私を王宮へ戻せ」


「お望みなら」


 彼女は温室の扉を指した。


 扉は開いていた。


 鍵はない。


 見張りもいない。


 アクレシスは目を細める。


「罠か」


「逃げ道ですわ。殿下がお好きな」


「私は逃げない。戻るのだ」


「同じことではなくて?」


 アクレシスは彼女を睨んだ。


「私は王太子だ。神殿が腐っているなら、私が裁く。王妃派が関わっているなら、私が問う。ジュリアンが裏切ったなら、私がその罪を明らかにする。そなたの温室で震えている理由はない」


 ヴィオレーヌは、嬉しそうに微笑んだ。


「そうでなくては」


「何?」


「立派ですわ、アクレシス様。王太子らしくて、とても綺麗」


「馬鹿にしているのか」


「まさか」


 ヴィオレーヌは立ち上がった。


「では、お確かめくださいませ」


 アクレシスは扉へ向かった。


 温室の外には、グランヴェール公爵家の庭園が広がっている。その向こう、鉄柵の外には近衛騎士が並んでいた。自分の近衛だ。少年の頃から知る顔もある。


 アクレシスは扉を開け、外へ出た。


「団長を呼べ」


 近衛騎士たちが動揺する。


 やがて、昨夜の団長が前へ出た。


 アクレシスは命じた。


「馬車を用意しろ。王宮へ戻る」


 団長は片膝をついた。


「殿下。王妃陛下の御名により、殿下には神殿での静養が命じられております」


「私は王太子だ」


「殿下が健やかであらせられるなら」


「私が狂っているとでも?」


「神殿は、聖女様の祝福を拒まれた魂は混乱すると」


 アクレシスの口元が歪んだ。


「つまり、私が神殿を拒めば、その時点で私の判断は無効になるわけか」


 団長は答えなかった。


 アクレシスはさらに前へ出ようとした。


 近衛騎士たちが、いっせいに道を塞いだ。


 剣は抜いていない。


 だが、道は開けない。


 背後で、ヴィオレーヌが言った。


「王宮はあなたを守りません」


 アクレシスは振り返らなかった。


「黙っていろ」


「ええ」


 彼は近衛を見渡した。


「私の命令に従う者はいるか」


 誰も動かなかった。


 全員が苦しそうな顔をしていた。


 だが、誰も道を開けなかった。


 アクレシスは、温室へ戻った。


 扉が開いている理由を、少しだけ理解した。


 鍵など必要ない。


 外が檻なら、内側に鍵はいらない。


 温室の中で、ヴィオレーヌは小卓の上に数通の書簡を並べていた。


「神殿の儀式記録。王妃派の密書。第二王子ジュリアン殿下が署名した、王太子殿下の病による継承権移行の準備書面。すべて写しではなく原本です」


「なぜ持っている」


「集めましたの」


「いつから」


「あなたが聖女様に微笑むようになった頃から」


 アクレシスは書簡を手に取った。


 そこには、神聖婚の後、王太子が「王国守護のため神殿で長期静養に入る」予定が記されていた。


 長期静養。


 その言葉の下に、結界強化、王家の魂、聖者認定という語が並んでいる。


 別の書簡には、ジュリアンの筆跡があった。


 兄上が神に選ばれた後、王国の混乱を防ぐため、自分が王太子の責務を引き受ける。


 滑らかな文字だった。


 あまりに整っていた。


「ジュリアンは、知っていたのか」


「あなたが消えたあと、自分が立つことは」


「贄のことは」


「そこまで知っていたかはわかりません」


「わからない?」


「彼にとって都合のいい言葉で包まれていたでしょうから。献身、聖者、神の側近、病める兄を支える弟。綺麗な箱に入っていれば、人は案外、中身を確かめません」


 ヴィオレーヌは、静かに続けた。


「あなたがそうだったように」


 アクレシスは書簡を握り潰しそうになった。


 だが、破らなかった。


 王太子として、証拠を壊すことはできない。


「これを公表する」


「もう送ってありますわ」


「何?」


「三公爵家、東方辺境伯、王立法務院の長、王都新聞社の編集主幹。神殿が今夜この屋敷へ踏み込めば、夜明けには王都中が知ります」


「そなたは」


「準備しておりました」


 ヴィオレーヌは微笑む。


「あなたを奪うために」


 アクレシスは息を呑んだ。


 助けるため、ではない。


 救うため、でもない。


 奪うため。


 その言葉はあまりに正直で、恐ろしかった。


「グランヴェール公爵家は、王家に弓を引くつもりか」


「いいえ。王家の血を神殿に食わせようとした者たちに、少しばかり花を贈るだけです」


「花?」


 ヴィオレーヌは温室を見回した。


 黒薔薇が咲いている。


 夜の底のような花弁。


「この温室は、昔、グランヴェール家の旧礼拝堂でした。王家より古く、神殿より古い、土と死者のための祈り場です。黒薔薇は神殿術式を食います。ここでは、聖女様の糸も、神官の祈りも、まともには働きません」


「だから私をここへ」


「ええ」


 ヴィオレーヌは平然と答える。


「王宮へ戻れば、あなたは神殿へ渡されます。神殿へ行けば、魂を縫われます。聖女様のもとへ戻れば、もう一度きれいに騙されます。弟君を頼れば、あなたの椅子はすでに片づけられています」


 彼女は一歩近づく。


「ねえ、アクレシス様。どこへ逃げるおつもり?」


「私は逃げないと言った」


「では、どこで戦いますの」


 アクレシスは黙った。


 戦う場所。


 王宮は敵の手の中。


 神殿は檻。


 近衛は命令を待たない。


 弟は署名している。


 民は、王太子の尊い犠牲を美談として受け入れるだろう。


 王太子であることが、彼の武器ではなく、鎖になっている。


「君は、私を救っているのか」


 アクレシスは低く言った。


「ええ」


「それとも、閉じ込めているのか」


「同じことではなくて?」


 ヴィオレーヌは、心底不思議そうに言った。


 その顔を見て、アクレシスは悟った。


 彼女は冗談を言っていない。


 本当に、そう思っている。


 外に出れば死ぬ。


 ならば、外へ出さない。


 ほかに居場所がない。


 ならば、自分が居場所になる。


 それを愛と呼ぶことに、ヴィオレーヌは何の疑いも持っていない。


 夜明け前、温室の外が騒がしくなった。


 神殿騎士が到着した。


 白い外套。


 銀の剣。


 聖印を刻んだ盾。


 その中央に、聖女イリス・ベルナージュが立っていた。


 彼女は乱れていなかった。


 泣き腫らした顔でも、追い詰められた顔でもない。


 むしろ、夜会のときより落ち着いていた。


 その背後には、第二王子ジュリアンがいる。


 彼は豪奢な青い礼服をまとっていた。胸には、王太子代理の印である銀の獅子章が輝いている。


 勝者の服装だった。


 ただし、その顔にはわずかな不安が滲んでいた。


 アクレシスが生きて、温室の内側に立っているからだ。


「兄上」


 ジュリアンが言った。


「ご無事で何よりです」


 アクレシスはその声を聞き、ゆっくりと振り返った。


「そう思っている顔ではないな」


 ジュリアンは一瞬、口を閉ざした。


 すぐに作り直した笑みを浮かべる。


「兄上は神殿で静養なさるべきです。王国のためにも」


「私のためではなく?」


「もちろん、兄上のためでも」


「私が戻らなければ、お前が王太子になる」


「それは、王国を混乱させないために必要な備えです」


「備えが早いな」


 ジュリアンの頬が強張った。


 イリスが一歩前へ出る。


「アクレシス様。どうかお戻りください。神殿はあなたを責めません。迷いも恐れも、すべて神の御前で清められます」


「私が戻らなければ?」


「王国は別の道を選ばねばなりません」


 別の道。


 その言葉に、ジュリアンがわずかに視線を動かした。


 ヴィオレーヌは、それを見逃さなかった。


「聖女様は周到ですわね」


 彼女は温室の中央へ進み出た。


「アクレシス様を連れ戻せれば最上。無理ならば、第二王子殿下をここで“王国を救う聖者”に仕立てる。どちらに転んでも神殿は勝つ」


 イリスは微笑んだ。


「王国が救われるのです」


「愛ではありませんわね」


「愛より尊いものがあります」


「ええ。あなたにとっては」


 イリスの表情は崩れない。


 彼女は小物ではない。


 信じているのだ。


 王国のために王家の魂を使うことは正しい。


 聖女である自分がそれを導くのは正しい。


 そのために誰かが泣き、誰かが死に、誰かが居場所を失っても、神の物語の中では正しい。


「ヴィオレーヌ様」


 イリスは言った。


「あなたは殿下を愛していると言いながら、殿下を王国から切り離そうとしている」


「あなたは王国を愛していると言いながら、アクレシス様が生きる未来を一度も望まない」


「殿下は王家の方です」


「その前に、一人の男ですわ」


「一人の男である前に、王太子です」


 アクレシスは、二人の声を聞いていた。


 イリスの言葉は、彼がずっと自分に言い聞かせてきたものだった。


 一人の男である前に、王太子。


 個人である前に、王家。


 自分の命である前に、国。


 だから苦しい。


 だから、反論できない。


 ヴィオレーヌは、彼の沈黙を見て、少しだけ笑った。


「アクレシス様。まだ迷われますか」


「迷うに決まっている」


「そうでしょうね。あなたはお利口ですもの」


「その言い方をやめろ」


「嫌ですわ」


 ヴィオレーヌは楽しげに言った。


「私は、あなたのお利口なところが好きなのです」


 アクレシスは怒るべきだった。


 怒鳴るべきだった。


 だが、その言葉が胸の奥に沈んだ。


 王太子としての正しさを、イリスは祭壇へ運ぼうとした。


 ヴィオレーヌは笑いながら、それを愛でる。


 同じ鎖でも、彼女の鎖は温かい。


 いや、温かいと思わせる毒だった。


 ジュリアンが苛立ったように叫んだ。


「兄上! いつまでその女の言葉に惑わされているのです。あなたは王国のために選ばれた。私は、その後を支える覚悟を決めたのです」


「私の死後をか」


「死ではありません。聖者として永遠に」


「お前は、本当にそう信じていたのか」


 ジュリアンは答えなかった。


 その足首に、赤い糸が絡みついた。


 アクレシスの目には見えない。


 だが、ヴィオレーヌには見える。


 そして、イリスにも。


 イリスは、静かにジュリアンへ向き直った。


「第二王子殿下」


 その声は、夜会でアクレシスに向けたものと同じだった。


 柔らかく、白く、逃げ道を消す声。


「あなたこそ、王国を救うにふさわしい御方です」


 ジュリアンは笑おうとした。


 笑えなかった。


「何を言っている、イリス。私は兄上の後を」


「ええ。受け継がれるのです。王家の尊い役目を」


「違う。私は、王太子に」


「あなたは署名なさいました」


 イリスが懐から一枚の羊皮紙を取り出した。


 ジュリアンの顔が歪む。


「それは、兄上が聖者となられた後の」


「王国の結界が王家の血を必要とした場合、王家の継承者として身を捧げる覚悟がある、と」


「形式だと言っただろう!」


「神の前に形式はございません」


 赤い糸が、ジュリアンの膝まで這い上がる。


 彼は足を払おうとした。


 見えないものを払う姿は滑稽で、哀れだった。


「イリス、やめろ。私は王になる。そういう約束だった」


「王国を救う方は、王より尊いのです」


「ふざけるな!」


 ジュリアンが神殿騎士へ命じる。


「その女を捕らえろ! 兄上を神殿へ戻せ! 私は、私は違う!」


 神殿騎士は動かなかった。


 ジュリアンの命令ではなく、イリスの祈りを待っていた。


 ジュリアンは初めて理解した。


 自分は神殿に担がれていたのではない。


 運ばれていたのだ。


 兄の代わりに、祭壇へ。


「兄上!」


 ジュリアンが手を伸ばす。


「助けてくれ!」


 アクレシスは動いた。


 反射だった。


 弟がどれだけ愚かで、どれだけ自分の失脚を望んでいたとしても、幼い頃に同じ庭を走った弟だった。


 だが、ヴィオレーヌが彼の手を掴んだ。


「行ってどうなさいます」


「離せ」


「あなたが代わりに戻れば、助けられますわ」


「なら」


「本当に?」


 ヴィオレーヌの声が低くなった。


 甘さはある。


 だが、その奥に冷たい刃があった。


「あなたが神殿へ戻る。王国は喜ぶ。聖女様は祈る。ジュリアン殿下はまた王太子の椅子へ近づく。ノエル殿下は何も知らずに笑う。あなたは永遠に結界の中で、王国を守る尊い聖者になる」


 アクレシスの足が止まる。


「美しいですわね。あなたがずっと教えられてきた、王太子の正しさそのものです」


「ヴィオレーヌ」


「また、お利口に騙されてくださるの?」


 その一言で、アクレシスは動けなくなった。


 ジュリアンの叫びが聞こえる。


 イリスの祈りが始まる。


 赤い糸が、ジュリアンの胸へ届く。


 アクレシスは歯を食いしばった。


 王太子としてなら、行くべきだった。


 兄としてなら、救うべきだった。


 だが、行けば自分が贄になる。


 自分が贄になれば、神殿は勝つ。


 イリスは勝つ。


 ジュリアンは、怯えながらも、また生き残るかもしれない。


 ノエルは何も知らないまま、次の糸を待つかもしれない。


 アクレシスは初めて、王太子としてではなく、自分の意思で選ばなければならなかった。


 死んで国を守るのか。


 生きて、すべてを失うのか。


 ヴィオレーヌが彼の手を握る。


「契りましょう、アクレシス様」


「今、ここで?」


「ええ。神でも、王国でも、聖女でもなく、私と」


「それで私は生きるのか」


「生きますわ」


「代償は」


「あなたの魂の帰る場所を、私に変えます」


 アクレシスは彼女を見た。


「それは、救いか」


「もちろんですわ」


 ヴィオレーヌは、いつものように微笑んだ。


「あなたが私から逃げようとなさらない限りは」


 ジュリアンが泣き叫ぶ。


 イリスが祈る。


 神殿騎士が聖印を掲げる。


 温室の黒薔薇が、一斉に香りを強めた。


 アクレシスは、ヴィオレーヌの手を握り返した。


「私は、神殿の贄にはならない」


「ええ」


「王国の美談にもならない」


「ええ」


「私は生きる」


 その言葉は、王太子らしくなかった。


 だが、初めて彼自身のものだった。


 ヴィオレーヌの瞳が、甘く光る。


「よろしいですわ」


 彼女は背伸びをした。


 二度目のキスは、一度目より深かった。


 黒薔薇が咲き乱れる。


 硝子の天井が震え、床の下から古い礼拝堂の紋様が浮かび上がる。


 アクレシスの胸に残っていた赤い糸の欠片が引き抜かれた。


 代わりに、黒紫の蔓が彼の魂を包んでいく。


 痛みはなかった。


 ただ、空いていた場所に、誰かの名前が刻まれる感覚があった。


 ヴィオレーヌ。


 彼の帰る場所。


 彼の逃げ場。


 彼の檻。


 イリスが叫んだ。


「やめて! 殿下は王国のものです!」


 ヴィオレーヌは唇を離し、振り向いた。


「もう違いますわ」


 その瞬間、アクレシスから完全に切り離された赤い糸が、ジュリアンへ絡みついた。


「兄上! 兄上!」


 ジュリアンが手を伸ばす。


 アクレシスは動かなかった。


 動かないことを選んだ。


 その事実が、彼の胸を裂いた。


 ヴィオレーヌが囁く。


「見ない方がいいわ」


 アクレシスは目を閉じなかった。


 逃げなかった。


 ジュリアンが神殿騎士に押さえられ、イリスの祈りに包まれ、赤い糸に縫われていくのを、最後まで見た。


 弟は泣いていた。


 怒っていた。


 裏切られた顔をしていた。


 かつて兄を裏切ったことなど、忘れたような顔だった。


 夜明けの鐘が鳴る。


 それは新しい日を告げる鐘ではなかった。


 贄が決まったことを告げる鐘だった。


 数日後、王都には清らかな知らせが流れた。


 第二王子ジュリアン殿下は、王国を守るため神殿に入り、聖者となられた。


 王太子アクレシス殿下は重い病により継承権を返上し、グランヴェール公爵家で静養される。


 第三王子ノエル殿下が、新たな王太子として立てられる。


 民は泣いた。


 ジュリアンの尊い献身に。


 病に倒れた兄を思いながら立つ、幼いノエルの健気さに。


 聖女イリスの祈りに。


 神殿の奇跡に。


 誰も、本当のことを知らなかった。


 ジュリアンが兄の代用品として祭壇へ引きずられたこと。


 イリスが王国を愛し、アクレシス個人を愛してはいなかったこと。


 グランヴェール公爵家の温室で、黒薔薇が神殿の糸を食ったこと。


 アクレシスが救われたのではなく、奪われたこと。


 何も知らないノエルだけが、白い礼服を着せられ、王太子の椅子に座った。


 アクレシスは、遠くからその報せを聞いた。


 温室の扉は、今日も開いている。


 彼はその前に立っていた。


 外には庭園がある。


 その向こうには王都がある。


 さらに先には王宮があり、ノエルがいる。


 行こうと思えば、行ける。


 少なくとも、扉に鍵はない。


 見張りもいない。


 ヴィオレーヌは彼を縛っていない。


 アクレシスは一歩、外へ踏み出そうとした。


 その瞬間、胸の奥が冷えた。


 痛みではなかった。


 恐怖でもなかった。


 空っぽになる感覚。


 自分の魂が、外へ向かっていない。


 背後へ引かれている。


 黒薔薇の香り。


 菫色の衣擦れ。


 静かな足音。


「お出かけになりますの?」


 ヴィオレーヌがいた。


 朝の光の中で、彼女は夜より白く見えた。


 だが、その白は聖女の白ではない。


 毒を含んだ花の白だった。


「ノエルに会う」


 アクレシスは言った。


「ええ」


「すべてを話す」


「ええ」


「神殿を裁く」


「ええ」


 ヴィオレーヌは何も否定しない。


 止めもしない。


 ただ、微笑んでいる。


 アクレシスは扉の外を見た。


 足が動かない。


 動かそうとすればするほど、胸の奥に刻まれた名が疼く。


 ヴィオレーヌ。


 ヴィオレーヌ。


 ヴィオレーヌ。


 彼は唇を噛んだ。


「君は、私に何をした」


「契りました」


「私は、君の虜なのか」


「今さらですわね」


「君は私を愛しているのか」


「ええ」


 ヴィオレーヌは迷わず答えた。


「朽ちるまで」


「私は救われたのか」


「ええ」


「閉じ込められたのか」


「ええ」


 アクレシスは笑った。


 笑うしかなかった。


 ヴィオレーヌも笑った。


 少女のように。


 悪魔のように。


 彼女は近づき、彼の手を取る。


 冷たい指だった。


 だが、その冷たさだけが、今のアクレシスには確かなものだった。


「あなたは、あちらへ戻らなくてよろしいのです」


「私は王太子だった」


「でしたわね」


「兄だった」


「ええ」


「国を守るはずだった」


「その国は、あなたの死を望みました」


 アクレシスは黙った。


 ヴィオレーヌは彼の胸に手を当てた。


 そこにはもう、赤い糸はない。


 黒紫の蔓が、静かに彼の魂を包んでいる。


「王宮にも、神殿にも、聖女様の腕の中にも、あの世にも、あなたの席はございません」


 ヴィオレーヌは囁いた。


「あなたの居場所は私です、アクレシス」


 外の庭は美しかった。


 自由に見えた。


 だが、そこには何もなかった。


 彼の帰る場所は、背後の温室にしかない。


 黒薔薇と、菫の香りと、優しい声で逃げ道を塞ぐ悪役令嬢。


 アクレシスは、ゆっくりと扉から手を離した。


 ヴィオレーヌが満足そうに微笑む。


「いい子ですわ」


「その言い方は嫌いだ」


「知っております」


「それでも言うのか」


「好きですもの」


 アクレシスはもう一度笑った。


 今度の笑いは、少しだけ泣き声に似ていた。


 ヴィオレーヌは彼の手を引く。


 アクレシスは抵抗しなかった。


 温室の奥へ戻る。


 扉は開いたままだった。


 鍵など、最初から必要なかった。


「もう大丈夫ですわ」


 ヴィオレーヌは、甘く、優しく、残酷に微笑んだ。


「あなたの逃げ場は、悪役令嬢の私ですもの」

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― 新着の感想 ―
公爵家はもしかして王家より古い土地に根差した家なのかな。 新王太子ノエルは王妃の子でしょうか。もし違ったら王太子を生け贄にしようの会で彼女だけが目的達成出来なかった感じですね。 アクレシスはなんで…
贄と平和。 それを担うのが王族であるからこそ、表沙汰にならなかったのでしょう。そして恐らくこれからも。 理(絶対的な決まり事)のような何らかを感じるお話です。 聖女様って人間ですか?人間ならば神様と…
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