5.推しは誰にも渡さない
エリザベートを乗せた馬車が、王立交響楽団の宿舎の前に停まった。
馬車を降りると、夕暮れの鐘が聞こえた。空は茜色から藍色に変わっていた。
宿舎を見上げると、いくつかの窓に灯火がともっていた。ジャンは部屋にいるだろうか?
暗い廊下を進み、案内された部屋の扉を静かに叩いた。
返事はなかった。でも、人の気配を感じた。ジャンは中にいる。
エリザベートは力を込めて扉を開けた。
「ジャン、いるのでしょう?」
薄暗い部屋を見回すと、ジャンはベッドの端に座り込んだまま、虚ろな目で窓の外を見つめていた。灯りをつけず、街灯の光が部屋を薄っすらと照らしていた。
その部屋は、ジャンの状態を映したようだった。
「ジャン!」
名を呼ばれたジャンは、虚ろな表情をエリザベートに向けた。
「エリザベート様……どうしてここに?」
「あなたのことが心配だったから」
エリザベートはベッドに歩み寄り、ジャンの顔を覗き込んだ。頬はやつれ、目の下には濃い隈があった。歌を奪われたジャンは抜け殻のようだった。
「歌えないのは、こんなにも辛いことなのですね。自分が何のために生きているのか、分からなくなりました」
ジャンは引きつった笑みを浮かべた。
これほどまでジャンが打ちひしがれている原因は、チャールズの身勝手な嘘だった。怒りで体が震えた。
チャールズを許せなかった。復讐したかった。でも今は、ジャンを取り戻すことが先だ。エリザベートは息を吐き出した。
「立って、ジャン」
エリザベートはジャンの手を取ると、部屋から連れ出した。
「どこへ行くのですか?」
「アウレリア劇場よ」
**
馬車の中のジャンは無言だった。エリザベートも何も話さなかった。ジャンに必要なのは言葉ではない。歌だ。エリザベートは分っていた。
窓からアウレリア劇場の建物が見えると、ジャンの瞳に光が戻ったような気がした。
エリザベートはジャンを伴い、劇場の中へと入った。休館日の無人の劇場は静かだった。エリザベートが機材を操作すると、舞台に明かりが灯った。
「上がりなさい、ジャン」
エリザベートに言われるまま、ジャンは舞台の中央に立った。久しぶりに立つ舞台に、ジャンの足は震えていた。
エリザベートは客席の最前列に腰を下ろした。
「この舞台で最初に歌った曲を覚えている? 演劇の間に五分だけ歌った曲よ」
ジャンは無言のまま頷いた。
「あの曲を歌ってほしいの。私のために」
エリザベートが声を弾ませると、ジャンの目に光が戻った。
ジャンは深呼吸した後、静かに口を開いた。そして、客席のエリザベートを真っ直ぐに見つめて、歌い始めた。
それは、大切な人と別れた男の物語。失った後の深い後悔、取り戻せない時間への哀しみ。そして、再び巡り合えた喜び。
エリザベートは片時も視線を逸らさず、ジャンの歌を聴いた。ジャンの歌に込められた男の心情は、エリザベートの胸の内を代弁しているかのようだった。
歌い終えたジャンの目には、溢れそうなほどの涙が溜まっていた。
エリザベートはゆっくりと立ち上がり、舞台の上に足を進めた。階段を上り、ジャンのそばに歩み寄った。
「今日も素晴らしかったわ」
エリザベートが発したのは、いつもと同じ一言だった。
ジャンの目から大粒の涙がこぼれ落ちると、嗚咽が漏れた。
「どうしたの?」
エリザベートが尋ねると、ジャンは何度も首を振った。
「アウレリア劇場に戻りたいです」
震える声で、ジャンはそう訴えた。
「王立交響楽団なんて、どうでもいいんです。僕は……あなたのいる場所で歌いたい」
エリザベートは静かにジャンを見つめた。
「王立交響楽団を辞めたら、あなたは国で一番の歌い手ではなくなるわ。本当にいいの?」
「構いません」
ジャンは少しの迷いもなく答えた。そして、ジャンは頬を赤らめながら、続けた。
「僕は、国で一番の歌い手になりたかったわけではありません。ただ、エリザベート様に喜んでもらいたかった。それだけだったんです」
エリザベートは、これまで抱いてきた感情の正体が明らかになるのを感じた。
ジャンの歌声に惹かれ、その才能を世に送り出すことに情熱を注いだ。けれど、その根底にあったのは、ジャンを誰にも渡したくないという、抑えきれない独占欲だった。
エリザベートはジャンの涙に濡れた頬に、そっと手を添えた。
「いいわよ。ジャンは私のもの。誰にも渡さない」
エリザベートの頬がゆるむと、ジャンの瞳から涙が溢れ出た。それは先ほどまでの苦しみの涙ではなく、安堵と喜びに満ちた涙だった。
「エリザベート様……これからもずっと、あなたのそばで歌っていいですか?」
「もちろんよ」
エリザベートの口元が、自然にほころんだ。
「ただし、王立交響楽団を辞めることについては、然るべき手続きが必要だわ。ケリーから届いた手紙の内容も、きちんと公にしなければならない。あなたの名誉のためにも」
「エリザベート様にお任せします」
涙を拭いながら、ジャンは深く頷いた。
王立交響楽団を辞めるには、大義名分がいる。
それに、ジャンの活動を妨害されないために、スミス男爵の誤解を解かなければいけない。これは、ケリーに手伝ってもらおう。
そして、チャールズへの復讐だ。ジャンを苦しめたチャールズは、絶対に許さない。
後は……ジャンがアウレリア劇場に移籍した最初の公演をどうしようか?
やることは山のようにある。でも、やりがいはある。推しのためだから。
「これから忙しくなりそうね」
エリザベートは声を弾ませた。
―了―
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