第33話 夢の残響
第1部 過去への贖罪
その日の夜、夢を見た。
いや、夢というには、あまりにも感触が生々しかった。
地球ではないどこか。
俺のものなのかどうかさえ分からない、奇妙な記憶。
最初に意識へ触れたのは、空気の澄み方だった。
冷たいわけではない。
それなのに、どこまでも濁りがなく、触れれば指が切れそうなくらい透き通っている。
空は青く、高かった。
薄く流れる雲の向こうまで深く、ただ見上げているだけで吸い込まれそうになるような青だった。
周囲には、白を基調とした建物が並んでいた。
ただ白いだけじゃない。
石のようにも見え、金属のようにも見える。
表面は滑らかで、ところどころに淡い光の筋が走っている。
神殿のようでもあり、宮殿のようでもある。
けれど、人間の文明が築いたものとは、どこか根本から違って見えた。
天国、という言葉が一瞬浮かんだ。
でも、それより近いのは聖域だ。
そこでようやく、自分が誰かを見下ろしていることに気づく。
視線の先には、人の形をしているだけで、人間とは思えない存在がいた。
身体の表面には、魔力経路らしき紋様が無数に刻まれている。
線は細く緻密で、脈打つ血管みたいに全身へ広がっていた。
刻まれている、というより、生まれつきそこに備わっている構造そのもののように見える。
しかも、その存在には奇妙な気品があった。
ただ異形なだけじゃない。
もっと高位の、もっと高貴な何か。
俺はその人物との目線の高さが気になって、自分が相手をかなり見下ろせるくらいに背が高いことへ、そこで初めて気づいた。
ふと、自分の手を見る。
視界に映ったのは、人間のものではない腕だった。
青い。
ただ青いだけじゃない。
深い海の底みたいな、金属にも鱗にも見える不思議な光沢を帯びている。
関節の形も、人間のそれとは微妙に違っていた。
指先には爪とも鉤ともつかないものがあり、それが僅かに動くだけで、自分のものではない感覚が肌の奥をざらりと撫でた。
――これは、いったい誰の“記憶”だ?
思わず、そう考える。
喋っている内容は聞き取れない。
目の前の存在は確かに口を動かしていて、その向こうにも誰かがいる。
会話が交わされていることだけは分かるのに、肝心の言葉が耳へ入ってこない。
こういう時に読唇術でも覚えておけばよかった、なんて場違いなことを考えた。
周囲を見渡す。
人の背に翼があり、空を飛んでいる者がいた。
白い翼。あるいは、半透明に近い光の翼。
羽ばたいているというより、空そのものへ溶けていくみたいに滑っていく。
一方で、翼を持たず地上を歩いている者もいる。
けれど、それもまた人間とは少し違った。
角のような影が見えた気がした。
耳の形が違った気もした。
どれも一瞬で、見ようとすると輪郭が曖昧になる。
そこは、美しかった。
そして同時に、俺がいていい場所ではない気もした。
何もかもが静かで、整っていて、完成されている。
なのに、その静けさの奥に、得体の知れない緊張が一本だけ張りつめている。
その後もしばらく、気になって成り行きを見ていた。
けれど不意に、空気が揺れた。
そこで――午前五時三十分。
目覚まし時計が鳴って、俺は目を覚ました。
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朝八時。
俺は学院へ向かうために家を出た。
空はよく晴れていた。
昨日までの重たい空気が嘘みたいに青くて、街の輪郭はどこまでも明るい。
通学路にはいつも通り生徒の姿があり、車の音が流れ、コンビニの前では店員がのぼりを整えていた。
世界は、何も変わっていないように見える。
けれど、胸の奥だけが少し落ち着かなかった。
夢の残り香みたいなものが、まだ薄くこびりついている。
途中で蓮次と合流した。
「おはよ、蓮次」
「おはよう」
蓮次はいつもの調子だった。
でも、目の奥には薄く疲れがあった。
一昨日の調査を経て、蓮次も何も感じていないはずがない。
「なぁ瑛志」
「ん?」
「なんか、腑に落ちないんだよな。何がって言われると、上手く言葉にはできないんだけど」
「そうだよなぁ」
お互い、違和感みたいなものが胸の奥にずっと引っかかっている。
「見つけた場所は、不朽桜を入れると正確には六箇所。でも、あれで全部終わったとは思えない」
「だよなぁ。特に不朽桜のとこ」
蓮次が小さく息を吐く。
「あそこは、久遠会長らが玖番隊の力を借りて対処してくれたって聞いたけど、相当手間がかかったらしい」
「そうみたいだね」
心のどこかでは、完全には安心できない。
もしあの魔術痕がこの一連の事件に関係しているなら――そう考えるだけで、その先にある結果はぞっとするものだった。
そんな話をしながら校門まで来たところで、前を歩く有栖川の姿が目に入った。
「おーい、有栖川!」
「ちょ、蓮次!」
「ん? どうしたんだ?」
「いや……」
俺が思わず声を潜めると、有栖川はその声に気づいて振り向いた。
「おはよう、天宮君」
「おう! おはよ!」
蓮次はまるで気にした様子もなく手を上げる。
俺は少し距離を取ったまま立っていた。
すると有栖川は、ほんの一拍置いてからこっちを見た。
「それと、鐡君もおはよう」
「……え?」
間の抜けた声が出た。
「なによ?」
有栖川が少し眉をひそめる。
俺は立ち止まったまま、正直に言った。
「いや、だって……学院で普通に話しかけられるとは思ってなかったから」
有栖川はクラスでも優等生という立ち位置にいる人物だ。
成績も良く、今では人当たりも柔らかくて、男女問わず人気がある。
そんな人物が、クラスカースト底辺の俺に校門前で普通に話しかけてくる。
前までの俺なら、それだけで充分驚く。
有栖川は小さく息をついた。
「あのね。前にも少し言ったけど、私はもう魔力の有る無しだけで人を見るつもりはないの」
そう言って、こっちへ数歩近づいてくる。
「鐡君が周りからどう見られてきたかは分かってる。でも、それだけで決めつける方が間違ってたって、今は思ってる」
有栖川の声は、前よりもずっとまっすぐだった。
「私は、鐡君のことも友達だと思ってる。だから、誰かに何か言われるからって距離を取るつもりはないわ。私の交友関係は私が決めるもの」
蓮次が横で「おお……」と妙に感心した声を漏らしている。
俺は少しだけ言葉に詰まってから、やっと答えた。
「……ありがとう」
「別に、感謝されることでもないわ」
そう言いながらも、有栖川は少しだけ視線を逸らした。
「でも、どういたしまして」
胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなる。
前までなら、学院で俺と話しているところを見られること自体が、有栖川にとって不都合だと思っていた。
けれど今は、少なくとも有栖川本人はそう思っていない。
それだけで充分だった。
「そうだ」
俺は思い出したように言う。
「今日、講堂に集まる前に少しでも時間があったら、一昨日シールを貼った場所を見て回ろうかと思ってたんだけど、一緒に来る?」
有栖川は一瞬だけ考えてから、肩をすくめた。
「行ってあげたいのは山々だけど、今日は無理そうね。朝から先生も生徒も落ち着いてないし、きっと私もあちこちで捕まると思う」
「そっか」
「ごめん。でも、変だと思ったら一人で抱え込まないでよ」
「うん。分かった」
俺たちは玄関で靴を履き替え、校舎へ入る。
その道中、俺へ向けられる視線は相変わらず少し痛い。
けれど、今日は前ほど気にならなかった。
「じゃ、俺はAクラスだからここで」
「うん、また後で」
蓮次と別れ、有栖川と並んで少しだけ廊下を歩く。
それだけのことが、前よりずっと自然になっていた。
午前の授業が始まってからも、教室の空気はどこか浮ついていた。
最近続いている不審事件。
強制下校。
教師たちの慌ただしい動き。
そして今日、昼休み後に行われる全校集会。
表立って騒ぐ者は少なくなった。
だが、だからといって落ち着いたわけじゃない。
ざわめきが小声になっただけで、教室のあちこちにある視線や囁きは、全部同じ方向を向いていた。
「やっぱ最近の件だよな」
「講堂で何言われるんだろ」
「また制限増えんのかな」
「ていうか先生ら、朝から変じゃね?」
そんな断片を聞き流しながら、俺は何度か斜め前へ目を向けていた。
辰巳剛毅。
妙だった。
昨日も妙だったが、今日はそれとは別の意味でやけに機嫌がいい。
近くにいる取り巻き二人の方が、逆に落ち着いていない。
辰巳の顔色をうかがっては、小声で何かを言い合っている。
――嫌な予感がする。
ただの悪巧みじゃない。
もっと別の、取り返しのつかない何かを待っているように見えた。
四時限目の終わりが近づく頃、浦邊が教壇の前で教科書を閉じた。
「昨日も伝えた通り、今日は昼休み後に講堂で全校集会を行う。移動は教師の指示に従え。遅刻はするなよ」
それだけ言われても、教室の空気はむしろざわつきを強める。
「やっぱりか」
「何かあるんだろ」
「マジで嫌なんだけど」
小声が飛び交う中で、辰巳だけはやはり楽しそうだった。
その笑みが、妙に目に焼きついた。
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昼休み。
弁当を手早く済ませて廊下へ出ると、蓮次が壁にもたれながら待っていた。
少ししてシエラと八神が来て、さらに少し遅れて重護も合流する。
顔を合わせるなり、重護が低い声で言った。
「今日、昨日より奇妙な気配が強くないか?」
「うん。俺も感じてる」
俺もすぐに頷く。
ただの気のせいとは思えなかった。
朝からずっと、胸の奥に薄い棘みたいな引っかかりが残っている。
「私もそう思います」
シエラの表情も硬かった。
「昨日までより、学院全体の空気が重いです。何かが静かに動き続けているみたいで……落ち着きません」
「学院全体が慌ただしい」
八神が職員室の方へ視線を向ける。
「ただの説明会の準備にしては慎重すぎる。講堂前の配置まで変わっていた。学院側は、やはり心臓消失事件の被害者についても話すつもりなのかもしれない」
「なるべく警戒はするに越したことはないな」
蓮次が真剣な眼差しで言う。
別の列の向こうに水波の姿が見えた。
重護は会話の合間に一度だけそちらへ視線を向け、すぐに戻した。
位置を確かめるような、いつもの癖みたいな自然さだったが、それが妙に印象に残る。
ちょうどその時、校内放送の電子音が鳴った。
『生徒の皆さんに連絡します。昼休み後の全校集会について再度お知らせします。各学年、各クラスは教師の誘導に従い、速やかに講堂へ移動してください』
廊下の空気が一気に張る。
「いよいよか」
蓮次が小さく呟いた。
「行こう」
俺が言うと、全員が短く頷いた。
そのまま人の流れに乗って歩き出す。
昼休みの終わりを告げる放送が流れてから、校舎内の空気は目に見えて変わっていた。
廊下には学年ごとの列ができ、教師たちが各所に立って生徒を誘導している。
普段の移動ならもう少し雑然としているはずなのに、今日は妙に静かだ。
ひそひそと交わされる声。
重なる足音。
衣擦れの音。
ざわつきは確かにある。
けれど、その全部の上に、うまく言葉にできない張りつめた膜が一枚かかっている気がした。
前の方に八神とシエラ、その少し隣に蓮次。
俺はそのすぐ後ろを歩き、重護は少し後方にいる。
講堂へ近づくにつれて、胸の奥が少しずつざわついていく。
朝の夢の気味悪さとは違う。
もっと現実的で、もっと逃げ場のない嫌な感じだ。
人が集まっているから、じゃない。
大勢の気配の下に、別の何かがじっと潜んでいるような、そんな薄気味悪さだった。
「……あれ?」
不意に、シエラが足を僅かに緩めた。
「どうした?」
俺が声をかけると、シエラは講堂の方ではなく、校舎の中心――不朽桜のある方角へ視線を向けた。
さっきまでの“学院全体の嫌な感じ”とは違う、もっと一点へ絞られた鋭さがその横顔に出ていた。
「今、一瞬だけ……」
「何かあったのか?」
蓮次が問い返す。
シエラはすぐには答えず、ほんの短く息を呑んだ。
「不朽桜の方です。さっきより、気配が強くなりました」
その一言で、背筋が冷たくなる。
やはり、気のせいじゃない。
列の前方で教師が声を張った。
「止まらず中へ入ってください! 空いている席から順に座って!」
急かされるように、列が前へ流れる。
俺たちはそれ以上言葉を交わせないまま、そのまま講堂へ足を踏み入れた。
高い天井。
規則正しく並んだ座席。
すでに集まり始めている生徒たちのざわめき。
舞台上では教師たちが慌ただしく動き、マイクの確認や資料の受け渡しをしている。
本来なら、それはただの全校集会前の光景だ。
何度も見てきた、学院の日常の延長にある風景のはずだった。
なのに今日は、まるで違って見えた。
人が多いせいか。
教師たちの動きが硬いせいか。
それとも、俺たち自身がここ最近までのことで敏感になりすぎているのか。
理由は分からない。
ただひとつだけ、はっきりしていることがあった。
――たぶん、ここにいてはいけない。
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