第19話 戦力評価測定の余波
第1部 過去への贖罪
戦力評価測定が終わっても、演習場の空気はすぐには元に戻らなかった。
解散の声で、張りつめていた時間はいったん途切れたはずだった。
それなのに、白い空間にはまだ何かが残っている気がする。
誰も急いで動こうとはしない。
誰も真っ先に喋り出さない。
トレーニングスーツの留め具を外す音。
魔力流動観測帯を外す小さな金属音。
布が擦れる音。
そんなものだけが、ぽつり、ぽつりと静かに響いていた。
さっきまでの緊張とは、少し違う。
あれは測定の最中の張りつめ方だった。
今ここにあるのは、その結果が出たあとの沈黙だ。
俺は手首の観測帯に指をかけながら、背中へ刺さる視線を感じていた。
前とは違う。
入学初日に向けられたのは、もっと単純な目だった。
魔力がない落ちこぼれを見る目。
そこで評価を終わらせて、あとは興味を失うだけの目だ。
でも、今は違う。
距離を取りながら、それでも目を離せない。
どう扱えばいいのか分からないものを見る目だった。
正体が分からない。
そんなふうに言われている気がした。
観測帯を外す。
手首には、締めつけられていた感覚だけがまだ薄く残っていた。
けれど、さっきから気になっているのはそこじゃない。
じん、と鈍く熱を持っているのは、目の奥だった。
視界の芯が、まだわずかに焼けついている。
こめかみの裏では、細い痛みがかすかに脈を打っていた。
解析起動の反動――そう考えれば、一応は説明がつく。
使いすぎた時に、こうして視界に負荷が残ることはある。
今に始まったことじゃない。
けれど、今日の感覚は少しだけ違っていた。
識別空間測定の終盤。
複合空間識別が一気に重なった、あの瞬間。
視界の端に、細く黒い線が走った気がした。
それは、罠でも標的でもなかった。
もっと奥――構築された空間を成り立たせている継ぎ目みたいなものが、一瞬だけ剥き出しになったように見えた。
解析のノイズ。
そう片づけようとしてみる。
でも、それだけじゃない気がした。
壁の継ぎ目が、妙にはっきり見えた。
術式の補助線が、薄く重なって見えた。
本物の刺激が来る前に、先に場所が分かった。
見えた、というのも少し違う。
理屈で読んだわけでもない。
触れた、という方が近かった。
形になる前の流れに、ほんの一瞬だけ感覚が引っかかった。
そんな、説明のつかない感覚だった。
あれが何なのか、今の俺にはまだ分からない。
ただ、解析起動の延長だけではないことだけは、妙にはっきりしていた。
あれは何だったんだろう。
自分でも説明できないことが、今日一日で増えすぎていた。
「……おい」
声が飛んできた。
振り向く前に、誰の声か分かった。
本多だ。
顔を上げると、本多哲也が少し離れた場所に立っていた。
観測帯をすでに外した手首を軽く握り込み、眉間に皺を寄せたまま、真っ直ぐこっちを見ている。
怒鳴る気配はない。
けれど、感情が消えているわけでもない。
言いたいことをいくつも抱えたまま、その中から一番ましな言葉を選ぼうとしている。
そんな顔だった。
「……今日は」
本多は一度、奥歯を噛んだ。
「俺の負けだ」
短く、はっきりと言い切った。
その瞬間、周囲の空気がわずかに静まる。
聞こえていた。
そんな気配だけが、白い演習場にじわりと広がった。
それでも、誰も口は挟まない。
「……え?」
俺はすぐには答えられなかった。
何を返せばいいのか、少し迷ったからだ。
「納得はしてねえ」
本多は続ける。
声は低い。
悔しさを押し込めているのが分かった。
「お前が何をやったのか、俺にはまだ分からない。見えてたのか、感じてたのか、それとも別のものなのか。全部、理解できてるわけじゃない」
一拍。
「でも、あの場で見たもんまで嘘にはできねえ」
その言葉は、思っていたよりずっと重かった。
本多は悔しいんだろう。
肩の硬さで分かる。
腹も立っているんだろう。
眉間の皺は、その全部をまだ抱えたままだ。
それでも、あの場で起きたこと自体は否定しない。
その一点が、妙に胸に残った。
「……そっか」
口から出たのは、それだけだった。
本多は鼻で笑わない。
軽く流しもしない。
代わりに、一歩だけ近づいてくる。
「隠してたのか?」
「……何を、かな」
「とぼけるなよ」
本多の目は逸れない。
「前からあんなだったのかって聞いてる」
俺は少しだけ黙った。
前からだったのか。
違うとも言い切れない。
そうだったとも言えない。
本多と向き合っている今も、目の奥の熱はまだ引いていなかった。
それだけじゃない。
識別空間の中で触れかけた“何か”が、まだ感覚の底でかすかに揺れている。
解析起動の延長だけじゃない。
そう思うたび、意識がもっと別のところへ引かれそうになる。
目で見たんじゃない。
頭で解いたんでもない。
なのに、先に分かってしまったあの感覚。
そこまで考えかけて、俺は無意識に思考を止めた。
踏み込めば、別の景色まで浮かんできそうだった。
やわらかな陽射し。
ぬるい空気。
静かで、やさしくて、それなのに妙に輪郭の曖昧な場所。
今はまだ、そこに触れたくなかった。
「……分からないんだ」
ようやく、そう言った。
「ごめん。ほんとに、俺もまだちゃんと分かってなくて」
本多の眉がわずかに寄る。
「誤魔化してるようには見えねえな」
「うん。誤魔化せるほど、整理できてなくて」
本多は数秒、俺の顔を見つめたまま動かなかった。
やがて短く息を吐く。
「……だろうな」
その一言で、少しだけ力が抜けた。
「けど、それでいい」
「いいのか?」
「分からないなら、次で確かめりゃいい」
本多は自分の手の中の観測帯を軽く持ち上げた。
「この負けは今日の負けだ。そこは認める。でも、それで終わりにする気はねえ」
その目が、正面から俺を捉える。
「次は叩き潰す。今度は絶対に負けない。分からないままで勝たれてたまるか」
宣言だった。
負け惜しみじゃない。
悔しさをそのまま次へ持っていく者の声だった。
胸の奥に、小さく熱が灯る。
「……うん」
短く返す。
「次は、俺もちゃんと向き合いたい」
「今日ちゃんとやってなかったみてえに聞こえるな」
「あ、いや……そういう意味じゃないんだけど」
「分かってるよ」
本多はそこで、ほんの少しだけ笑った。
「でも、そのくらいでいい。変に取り繕うな。お前、そういうの向いてなさそうだしな」
言い切ると、本多は踵を返した。
数歩進んで、ふと思い出したみたいに足を止める。
「あと一つ」
「なに?」
「今日のお前」
振り返らないまま、本多は言った。
「ちょっと不気味なくらい強かった」
一拍。
「……でも、嫌いじゃねえ」
本多はそのまま歩き出した。
その背中は折れていなかった。
悔しさを抱えたまま、それでも前を向いている背中だった。
今日の負けをそのまま飲み込んで、次に叩き返すために持っていく者の背中だ。
その熱だけが、妙にまっすぐ残った。
本多を見送りながら、俺は自分でも気づかないうちに浅く息を吐く。
胸の奥が、少しだけ重い。
本多の言葉が刺さったからだけじゃない。
答えながら、自分の中で何かを誤魔化した感覚が残っていた。
――隠してたのか。
あの問いに、嘘はついていない。
分からないというのも本当だ。
でも、全部を出したわけでもない。
出せるわけがない、とも思う。
あの瞬間、識別空間の中で感じていた違和感は、解析起動の反動だけでは片づかない気がしていた。
もっと古いところに触れかけたような感覚が、まだ薄く残っている。
思い出そうとすれば、すぐに別の景色が浮かびそうになる。
やわらかな陽射し。
ぬるい空気。
静かで、やさしくて、それなのに妙に輪郭の曖昧な場所。
そこまで浮かびかけて、俺は意識的に思考を止めた。
今は、まだそこに触れたくなかった。
その時だった。
もう一つの視線に気づいて、俺は顔を上げた。
少し離れた場所に、蓮次が立っていた。
周囲のざわめきを背中で聞き流しながら、ただ静かにこちらを見ている。
周りみたいな、戸惑いと警戒が混ざった目じゃない。
結果表示に引きずられている感じもない。
ただ、今日あの場で起きたことを、自分の目で見たまま受け止めようとしている。
そんな視線だった。
俺と目が合う。
蓮次は少しだけ迷うように間を置いてから、まっすぐ口を開いた。
「……すごかった」
声は大きくない。
でも、妙にまっすぐ耳に届いた。
俺は一瞬だけ返事に詰まる。
「いや……」
「誤魔化さなくていい」
蓮次はすぐに続けた。
「俺にも、あんなことはまだ出来ない」
その言い方には、嫌な圧がなかった。
見抜いてやるとか、探ってやるとか、そういう気配がまるでない。
ただ本当に、見たものを見たまま口にしているだけだ。
「正直、上手く言えないんだけど」
蓮次は少し困ったように笑う。
「結果がどうこうっていうより、あの中での動き方が、普通と違った。上手いとか速いとかだけじゃなくて……何ていうか、ちゃんと全部見えてたみたいだった」
その言葉に、胸の奥が小さく跳ねた。
全部見えていたわけじゃない。
むしろ逆だ。
見えていないはずのものまで、混ざってきた。
でも、それをそのまま言えるはずもない。
「……そんな大したものじゃないよ」
自然に出た返事は、自分で思っていたより薄かった。
柔らかく返したつもりなのに、どこかで線を引いたみたいな響きになってしまう。
蓮次は、そこに気づいたかもしれない。
でも、踏み込まなかった。
「そっか」
あっさり引く。
その軽さが、むしろありがたかった。
「でも、少なくとも俺にはそう見えた」
蓮次はそう言って、観測帯を自分の手の中で軽く持ち直した。
「だから、ちゃんと覚えておく」
その一言が、少し意外だった。
「……覚えておく?」
「うん」
蓮次は頷く。
「次にまた一緒にやる時、ちゃんと見たいから」
勝つとか負けるとか、利用するとか警戒するとか、そういう色がまるでない。
ただ、自分が見たものに誠実でいようとしているだけだ。
俺はそこでようやく、少しだけ肩の力を抜いた。
「……分かった」
「うん」
蓮次は短く返して、それ以上は何も言ってこなかった。
もし本多みたいに、もう一歩踏み込まれていたら、たぶん上手く返せなかった。
今の俺は、解析起動のことだけを話すので精一杯だ。
あの違和感の正体まで触れようとすれば、きっと別の何かまで引っ張り出してしまう。
それを、まだ人には見せたくなかった。
蓮次は少しだけ目を細めると、最後に静かに言った。
「また次、楽しみにしてる」
言い方は穏やかだった。
でも、その中にはちゃんと熱があった。
競うことを楽しむ熱。
相手をまっすぐ見る目。
本多の熱とは違う。
もっと澄んでいて、変に刺々しくない。
俺は小さく頷く。
「……うん」
それだけで充分だった。
蓮次は軽く手を上げてから、周囲のざわめきの方へ戻っていく。
踏み込みすぎず、引きすぎもしない。
あの距離感が、たぶん蓮次らしいんだろう。
残された俺は、手の中の観測帯へ視線を落とした。
本多と話している最中も、蓮次と向き合っている今も、目の奥の鈍い熱は消えていなかった。
それだけじゃない。
白い演習場の壁。
床に流れる補助術式。
空間の継ぎ目みたいなものが、まだ薄く感覚の端に引っかかっている。
やっぱり、解析起動だけじゃない。
そう思った瞬間、またあの曖昧な景色が浮かびかけた。
やわらかな陽射し。
静かすぎる空気。
どこか遠くて近い、あの場所。
――やっぱりダメだ。
俺は無意識に思考を切る。
今はまだ、そこまで辿りたくない。
観測帯を握る手に、少しだけ力が入った。
周囲のざわめきは続いている。
けれど、そのどれよりも、自分の中に残っている違和感の方がずっと鮮明だった。
測定は終わったはずなのに、まだ何も終わっていない気がする。
俺は小さく息を吐いて、演習場の出口へ向かった。
白い床が、靴底に硬い反響を返す。
一歩。
また一歩。
そのたびに、足の裏へ返ってくる感触が妙に細かい。
床材の硬さだけじゃない。
その下を走る補助術式の流れみたいなものまで、薄く伝わってくる気がした。
自動扉が静かに開く。
演習場の外、廊下へ出た瞬間、空気が少し変わった。
閉ざされた演習場より広いはずなのに、感覚の方はむしろ狭まっていく。
視界の輪郭だけが、いやに濃い。
白い壁。
一定間隔に走る補助線。
自動扉の縁に刻まれた認証式。
天井に埋め込まれた微弱な監視術式。
普段なら意識の端にも引っかからないものが、今日はやけに鮮明だった。
「……何なんだろう、この感覚」
自分でも気づかないうちに、声が漏れていた。
解析起動の反動。
そう考えれば説明はつく。
実際、使いすぎれば感覚が鋭くなることはある。
けれど、今日のこれはその延長だけじゃない。
識別空間測定の終盤、確かにあった。
標的でもない。
罠でもない。
組まれた刺激の流れから、ほんのわずかに外れていた、あの細い黒い線。
自分だけが先にそこへ引かれたような、説明のつかない違和感。
角を曲がる直前、俺の足が止まった。
壁の補助線が、脈打った気がしたからだ。
見えたわけじゃない。
もっと別のところで、感じた。
心臓がどくりと重く鳴る。
今なら分かるかもしれない。
そんな気がして、そっと手を伸ばしかける。
だが、触れる寸前で感覚はすっと引いた。
最初から何もなかったみたいに。
残ったのは、掴みかけたものを逃したような空白だけだった。
「……っ」
小さく息を詰める。
苛立ちというより、輪郭だけ掠めて消える感覚へのもどかしさだった。
俺は伸ばしかけた手を下ろし、手の中の観測帯を見る。
今日からこれは、自分のものになる。
そう言われたばかりだ。
なのに、装備を受け取った気分がしない。
今日、自分が何をしたのか。
何に触れかけたのか。
まだ言葉にならないそれを、形だけ先に押しつけられたような気がした。
遠くで、まだざわめきが続いている。
けれどもう、耳はそちらを追っていなかった。
測定は終わった。
結果も出た。
それなのに、自分の中では何ひとつ終わっていない。
むしろ、ここから何かが始まってしまうような、嫌な予感だけが残っていた。




