*ミハイル王子*
「い、嫌だ…………!!!!!!絶対に、嫌だッ!!!!!!」
白い肌に金の髪、緑の瞳の誰もが認める美青年。ミハイルは全力で衣装の採寸を拒絶した。ただの衣装ではないからだ。仕立ては最高級の布地を使用し、フランツ王国出身の有名なデザイナーがプロデュースしているらしいが、そんなことはミハイルにはどうだっていいことだった。
「で、殿下……」
「あの、どうしましょう……」
おろおろとメイドたちがミハイルの護衛騎士や側近に助けを求める。壁際に立ったまま動かない騎士たちや、頭を抱える側近は役に立ちそうにないが、かといって彼女たちの身分で王子の称号を持つミハイルを叱るわけにもいかない。
「何を騒いでいるのです」
そこへ侍女たちを連れて一人の女性がやってきた。ミハイルと同じく黄金の髪に緑の瞳を持つ貴婦人だった。さっと、メイドたちが頭を下げる。
「母上……!」
「採寸がまだ済んでいないのですか。婚約式は三か月後だということを理解しているのですか。一日一日が惜しいというのに……」
「し、しかし……母上!私は嫌なんです!あのイザベル・コルヴィナスを妻にするなど……!!!!」
「口を慎みなさい」
ぴしゃり、とミハイルの母、前王の第一王子アベルの側室だったアナマリアは息子を叱った。
今年で十六になったというのに、息子はなぜこうも王族としての自覚がないのだろうか。誰よりも雄々しく頼もしかったアベルの面影がまるでない。
アナマリアはアベルの正式な妻ではなかった。
実家は伯爵家で十分に王子妃となるだけの身分だったし、アマナリアはアベルと心から愛し合っていた。だというのに前王が「息子の嫁は父親が決めるものだよ」と二人の仲を認めなかったからだ。
アベルは自身の権力の許す範囲でアナマリアを守り、側室という形で王室へ迎え入れてくれたし、二人の間に生まれた子供にも王子の称号を得られるよう尽力してくれた。アナマリアは正妃の座などなくともアベルの愛があればそれでよかった。
今でも目を閉じるとアナマリアには昨日の事のように浮かんでくる。愛するアベルがアナマリアによく似たミハイルを抱き上げ目を細める。表情の豊な人ではなかったが、アナマリアを呼ぶ声や、触れる指先は優しかった。
幸福だった。
十二年前の大虐殺でアベルが亡くなり、正妃でなかったアナマリアは王宮を追われた。王位を継いだのは王弟ジグルド殿下だった。大虐殺を生き残った僅かな王子たちも前皇帝の子という扱いとなり、王位継承権を主張した王子は悉く殺された。アナマリアはミハイルを連れて実家に逃げ延び、そこでは実の親から受けるには到底受け入れられないような仕打ちも受けた。
親子は伯爵家で使用人のような扱いを受け、馬小屋で寝起きをした。仮にも王子の子であるミハイルにそのような扱いをしないでくれとアナマリアは何度も父に抗議したが、罵声と暴力が返ってくるだけだった。前皇帝の血を引く孫など、厄介者以外の何者でもないからだ。
「これは貴方にとって最後の機会なのですよ、ミハイル」
駄々をこねる息子の肩を掴み、アナマリアは言い聞かせる。
運が向いてきたのはミハイルが十歳になったくらいの頃だった。伯爵家にお客様がいらっしゃった。今でいう十年戦争が半年ほど停戦になった頃。コルヴィナス公爵がご令息、ご息女を連れて伯爵家の領内である温泉地にいらっしゃった。ご令息、カイン公子は血縁上はミハイルの叔父にあたり、宮中で何度かお会いしたことがあった。それで父が気難しい公爵様が子供には甘いという噂を聞いて、公子の遊び相手にとミハイルの存在を思い出した。
「金の髪に緑の瞳、貴方のことを「絵本で見た王子様のようだ」と、コルヴィナス公爵令嬢はおっしゃったのです」
「だからと言って、どうして婚約なんか……!!」
兄と遊ぶ少年を見て、まだ六歳程度だった公女様が微笑んだ。
たったそれだけで、アナマリアの父はミハイルを己の孫だと思い出し、コルヴィナス公爵にアナマリアの身に起きた悲劇を涙ながらに語った。あの大虐殺で亡くなった者は多かったから、たかだか父の話程度であの氷の公爵の関心を引けるとは思わなかったが、しかし、公女殿下、イザベル様がミハイルを大変気に入ったご様子だったからか、公爵ご一家が帰られて三日も経たず、アナマリアとミハイルの元に公爵家から山ほどの贈り物が届けられた。それはアナマリアとミハイルの扱いを伯爵家で良くするには十分すぎる物だった。
アナマリアはミハイルに手紙を書かせた。イザベル公女宛てに、煩わしくない程度に頻繁に手紙を書かせ、贈り物も選ばせた。もちろん幼い少女に直接手紙を送るなど無作法であるので、宛名は表向きは公爵宛てである。
趣味は狩りと剣術だというイザベル様の好みはどこかアベル王子に似ていたから、アナマリアが事細かに助言した。季節の花の香りを贈るより、鷹の羽根を同封すると、娘がとても喜んでいたと公爵様からのお礼が届き、父は有頂天になった。アナマリアとミハイルの部屋は伯爵夫人である母よりも良い部屋になり、公爵家からの贈り物で伯爵家は豊かになった。
アナマリアは賭けに出た。
現皇帝ジグルド様に謁見し、ミハイルの王子の称号を取り戻そうとした。そのための条件はコルヴィナス公爵令嬢との婚約だった。英雄卿。王家を凌ぐ資産家。前皇帝とは友情があり忠誠が捧げられていたようだが、亡くなってからは王家との繋がりも殆どなくなった。そのコルヴィナス公爵と縁を得たくはないかと、アナマリアは皇帝に持ち掛けた。前皇帝がコルヴィナス公爵の娘と結婚した者を後継者に指名しようとしていたことは一部では有名な話だった。
ジグルドの子供にミハイルのような「お伽噺の王子様」のような容姿の者はいない。
そしてアナマリアはジグルドの側室に迎え入れられた。ミハイルは王子の称号を取り戻し、王宮で住まいを得た。
「貴方の着ている服も食べる食事の何もかも、それは公爵家の支援があってのものなのですよ」
「……しかし、イザベルは怖いじゃないですか!」
半泣きでミハイルは訴える。
怖いからなんだとアナマリアは一笑にしたい。確かにあのご令嬢はごくごく普通の貴族令嬢とは少し違うが、それがなんだというのか。重要なのはコルヴィナス公爵があの娘を溺愛しているということだ。
「僕の護衛騎士を日傘一本でひっくり返して泣かせたんですよ!?」
「その護衛騎士が貴方を軽んじるような発言をし、令嬢が言い返せない貴方の代わりに咎めたのでしょう」
「狩りの最中に襲ってきた手負いの大熊の脳天を僕の目の前でカチ割ったんですよ!!?」
「あと少しご令嬢が遅ければ貴方は引き裂かれていたのですよ。命の恩人じゃありませんか」
「あんなの女の子じゃない!!僕のことをお伽噺の王子様だっていうなら、自分だって女の子らしくしろよぉおお!!!!!!!」
息子の悲痛な叫び声に、アナマリアは全く同情はしない。同情を得たところで宮中で腐ったパンを食べないで済むことはなく、ドレスに針を仕込まれなくなるわけでもない。同情される者は弱者なのだ。つけ入る隙があると吹聴してまわる必要はない。
きつく母親に睨みつけられ、ミハイルは黙った。
ミハイルは王子の身分など望んでいない。父が偉大な王子であった頃の記憶はあるにはあるが、それよりも父の死後、王宮で陰湿ないじめに遭い、逃れた先でも王子の子という理由で酷い扱いを受けた記憶の方が多い。
豪華な服もごちそうもミハイルは必要としていなかった。母と二人で小さな家で平和に過ごすだけではだめなのか。昔のように馬の世話をして朝から晩まで疲れるまで働いて、そして寝る前に母に歌を歌ってもらう。そんな生活ではだめなのか。
とにもかくにも、ミハイルはイザベル・コルヴィナスが怖かった。恐怖というか、単純に苦手なのである。彼女は陰湿ないじめをしてこないし、ミハイルに暴力を振るってきたりはしない。見かけはとてもかわいいし、素敵な女の子に見えなくもない。ただ、どれだけ可愛らしくてもイザベル・コルヴィナスなのである。
同じ生き物だと思えない。
話している言葉が同じなのに、考え方が根本的に違うのか、ミハイルはイザベルに会うたびに自分が情けなく感じた。とにかく嫌、苦手なのだ。
あの真っすぐ過ぎる青い目に見つめられると体が竦む。彼女と結婚なんてしようものなら、ミハイルはずっとこれから先、自分がびくびくと怯えて暮らすことになるとわかっていた。とにかく無理だ。嫌だ。絶対に結婚なんかしたくない。
ミハイル王子、16歳。少し先には王立の学園に入学することが決まっている。
寮生活になるから、婚約したらそこへ逃げて三年間はイザベルに会わないようにしようと、そう心に誓った。




