第7話 機能停止するブラック工房と、笑顔あふれるホワイト開拓村
薄暗い執務室。かつては華美な装飾で彩られ、権力の象徴であった空間も、今や埃っぽい空気が淀んでいる。
壁に掛けられた絵画は色褪せ、床に敷かれた絨毯には染みが残ったままだ。
分厚い帳簿をめくる乾いた音だけが、重苦しい静寂を切り裂いていた。
「今月の税収は皆無。金庫の底が完全に見えました」
セバスティアンの声には、一切の感情がこもっていない。
ただ淡々と、破滅の事実を告げる観測者。
その手元にある帳簿は、赤字を示すインクで真っ黒に塗りつぶされていた。
「残っていた数少ない領民も、夜逃げ同然で姿を消しております。工房の炉は完全に冷え切り、生産は完全に停止しました」
窓際に立つゲオゲオが、苛立たしげに振り返った。
肥満体が揺れ、悪趣味な貴族服が擦れる音を立てる。
彼の顔には、焦燥と怒りが入り混じった醜い皺が刻まれていた。
「加えて、辺境へ放った工作員からの定期連絡も途絶えております」
「なんだと! あの無能どもめ、逃げ出した奴隷数人を連れ戻すこともできんのか!」
ゲオゲオの甲高い怒声が、虚しく室内に響く。
「武力制圧の企ては失敗に終わったと見るべきでしょう。もはや、当領地に残された資金も、動かせる私兵もおりません」
冷徹な報告。
それは、領主としての権力が完全に失われたことを意味していた。
だが、ゲオゲオはその現実を直視しようとしない。
「うるさい! 数字などどうでもいい!」
ゲオゲオが机を激しく叩く。
インク壺が跳ね、黒い染みが床に広がった。
彼は荒い息を吐きながら、血走った目で家令を睨みつける。
「私兵が駄目なら、傭兵を雇え! 金など、後でいくらでも絞り取れる!」
セバスティアンは表情一つ変えず、モノクルの位置を直す。
そして、主君の最も触れられたくない事実を、事務的な口調で抉り出した。
「彼らがいなければ、あなたは何一つできなかったのですね」
その一言が、ゲオゲオの動きを完全に止めた。
顔が朱に染まり、唇がわななく。
彼が最も恐れていたこと。自分が実務能力を持たず、ただ搾取していただけの無能であるという事実。
「き、貴様……私を誰だと思っている! 私は領主だぞ!」
「ええ。ですが、実務を担う者がいなければ、領地はただの荒れ地です。破産の手続きを進める準備をいたしましょうか」
見限られた。
その事実から目を背けるように、ゲオゲオは執務室を飛び出した。
「ふざけるな。私が直々に赴き、あの愚か者どもを連れ戻してやる!」
誰もいない廊下で、ゲオゲオは叫んだ。
自分の権力と威光があれば、奴らは必ず平伏する。
そう信じ込まなければ、自我が崩壊しそうだった。
だが、現実は残酷だ。
中庭に降り立った彼を待っていたのは、かつて乗り回していた華美な馬車ではない。
まともな移動手段はすでに借金のカタに取られ、残っていたのは荷馬車同然のボロボロの馬車と、年老いた馬一頭のみ。
御者を雇う金すらない。
ゲオゲオは震える手で、自ら手綱を握った。
悪路に揺られること数日。
尻の痛みに耐え、泥にまみれながら、ゲオゲオは辺境の森を進んだ。
車輪が泥濘にはまるたびに、自ら馬車を降りて泥まみれになりながら押し出す屈辱。
手にはマメができ、豪華だった服は見る影もなく汚れている。
「なぜ私がこんな目に……! すべてはあのレオンという男のせいだ!」
自己欺瞞と逆恨み。
それだけが、彼を前へと突き動かす原動力だった。
車輪が軋む音を立てて、惨めな馬車が森の奥へと進んでいく。
長い森を抜けた先。
彼の記憶にある開拓村は、粗末な小屋が建ち並び、その日暮らしの貧民が這いつくばる貧相な集落のはずだった。
だが、視界が開けた瞬間、彼の目に飛び込んできたのは、想像を絶する光景だった。
「な、なんだこれは……」
ゲオゲオは馬車の上で呆然と口を開けた。
手綱が手から滑り落ちる。
高くそびえる堅牢な防壁。
所々に埋め込まれた魔力回路が、青白く不気味な光を放っている。
それは単なる壁ではない。近づく者を自動で迎撃する、高度な防衛システム。
防壁の表面には、不可視の障壁が展開され、外敵の侵入を完全に拒絶している。
防壁の内側からは、活気に満ちた槌音と、人々の笑い声が響いてくる。
煙突からは豊かな生活を思わせる煙が立ち上り、洗練された生産設備が絶え間なく稼働している気配があった。
見張り台には、鋭利な武器を備えた自動迎撃装置が設置され、村全体がひとつの巨大な要塞と化している。
ゲオゲオは血走った目を限界まで見開き、御者台から身を乗り出した。
無意識に手綱を強く握りしめると、年老いた馬が痛みに嘶く。
圧倒的な現実。
自分の領地が崩壊していく一方で、彼らはこれほどの繁栄を築き上げていた。
だが、ゲオゲオの傲慢なプライドは、その事実を認めることを強硬に拒絶した。
これは何かの間違いだ。奴らは私に仕えるべき存在なのだ。
ボロボロの馬車が村の入り口に近づく。
重厚な門がゆっくりと開き、数人の人影が現れた。
先頭に立つのは、実用的な作業着に身を包んだ若い男。
かつて自分の工房で、血を吐くように働いていた職人。
レオンだ。
その隣には、アリアが毅然とした態度で立っている。
背後には、ダグラスをはじめとする屈強な職人たちが腕を組んで並んでいた。
彼らの表情に、かつての怯えや疲労はない。
自分たちの手で暮らしを守り抜くという、強い意志の光が宿っている。
ゲオゲオは惨めな馬車から転げ落ちるように降り立った。
泥だらけの靴で地面を踏みしめ、肥満体を震わせる。
「き、貴様ら……!」
威丈高に指を突きつける。
圧倒的な村の発展ぶりを前にしても、彼の口から出るのは時代錯誤な命令だけだった。
「こんな辺境でままごとをして、いい気になっているようだがな! お前たちには私に仕える義務がある。今すぐ領地に戻り、私のために働け!」
静かな村の入り口に、甲高い声が響き渡る。
それは、滑稽なほどに現実離れした響きを持っていた。
レオンは冷ややかな視線で、かつての雇い主を見下ろした。
怒りすら湧かない。ただ、底知れぬ軽蔑だけがそこにあった。
「あなたたちを縛る権利など、この男にはありません」
アリアが一歩前に出て、はっきりと告げた。
その声には、かつての弱々しさは微塵もない。
彼女はもう、守られるだけの存在ではなかった。
ダグラスが鼻で笑い、太い腕をさする。
職人たちの間から、嘲笑にも似たどよめきが漏れた。
「お前さん、まだ自分が偉いと勘違いしてんのか。ここは俺たちの村だ。お呼びじゃねえよ」
ダグラスの言葉に、ゲオゲオの顔が怒りで歪む。
「黙れ! 職人など代わりはいくらでもいると言ったはずだ! だが、特別に許してやる。今すぐ戻れば、以前と同じ条件で雇ってやろう!」
その言葉が、どれほど的外れであるか。
レオンは静かに息を吸い込み、一歩前へ出た。
「あんたの領地は、もう終わっているはずだ」
淡々とした事実の指摘。
それは、ゲオゲオが最も目を背けたかった現実だった。
「な、何を根拠に……!」
「この防壁を見ればわかるだろう。俺たちはもう、あんたの理不尽な要求に付き合うつもりはない。ここは、俺たちが安心して働き、暮らすための場所だ」
レオンの目は、揺るぎない決意に満ちていた。
かつて過労で倒れた前世の記憶。そして、この世界で仲間たちと共に築き上げた、まっとうな労働環境。
それを脅かす者は、誰であろうと容赦しない。
勘違いしたまま襲来した傲慢な元領主。
彼が突きつけた身勝手な要求に対し、強固な結束を持つ村人たちは、どのような鉄槌を下すのか。
レオンは静かに右手を挙げ、防衛システムの起動スイッチに指をかけた。




