第2話 代わりはいくらでもいる? いいえ、彼らが工房の心臓です
「黙れ、黙れ、黙れえええっ!」
ゲオゲオの怒声が、豪奢な館の廊下に響き渡った。
彼は執務室を飛び出し、赤い絨毯の上をドスドスと足音を立てて歩き出す。顔は朱に染まり、額には青筋が浮いていた。
あの底辺職人どもが、この私に辞表を叩きつけるなど。
領主たる自身の絶対的な権威に泥を塗られたという事実が、彼のプライドをズタズタに引き裂いていた。
「おい、私兵を呼べ! 今すぐだ!」
ゲオゲオは振り返りもせずに怒鳴る。
その後ろを、家令のセバスティアンが一定の距離を保ちながら歩いていた。彼の足取りは乱れず、片手には黒革の帳簿が開かれている。
「奴らを捕らえろ。鎖に繋いででも工房に引きずり戻し、死ぬまで働かせてやる!」
「承知いたしました。私兵の動員費用および、逃亡者捜索の特別手当を計上いたします」
セバスティアンは歩きながら、羽ペンを走らせた。
主君の怒りにも、その理不尽な命令にも、彼の声には一切の感情が乗っていない。ただ淡々と、発生する赤字の額を記録するだけだ。
「金などどうでもいい! 奴らを見つけ出し、私の前に引きずり出せ!」
ゲオゲオは唾を飛ばして叫ぶ。
代わりなどいくらでもいる。そう信じて疑わない彼は、ただ自身の面子を取り戻すことだけを考えていた。
風が木々を揺らす。
鬱蒼とした森の中。獣道を、三つの影が駆け抜けていた。
「しつこいですね……!」
アリアが息を切らしながら後方を振り返る。
遠くから、微かに犬の吠え声と金属の擦れる音が聞こえていた。追手だ。
「領主の面子ってやつだろうよ」
ダグラスが太い枝を払い除けながら吐き捨てる。
「俺たちみたいな下っ端に逃げられたとあっちゃ、示しがつかねえからな」
レオンは無言で周囲の地形を観察した。
足元の土は湿り気を帯び、植生が急激に変化している。ここから先は、魔物が棲むとされる危険地帯だ。
「このまま奥へ進む」
レオンの短い指示。
迷いはない。
「追手も、これ以上は踏み込んでこないはずだ」
三人は斜面を駆け下りる。
息が上がり、心臓が早鐘を打つ。
だが、誰の目にも絶望はない。
搾取されるだけの場所から抜け出した。その事実が、彼らの足を前に進ませていた。
どれほど歩いただろうか。
追手の気配が完全に消え去り、森の木漏れ日が少しずつ柔らかさを増してきた頃。
不意に視界が開けた。
レオンは足を止め、目の前に広がる光景に息を呑んだ。
澄み切った水をたたえる巨大な湖。
背後には冷たい北風を遮るようにそびえ立つ岩壁があり、周囲には手つかずの豊かな広葉樹林が広がっている。岩肌のあちこちには、魔力を帯びた鉱石の鉱脈が鈍い光を放っていた。
(なんだ、ここは……)
レオンは前世の知識と、職人としての経験を総動員して周囲を見渡した。
水源、地形、資源。どれをとっても、人が暮らすための拠点として完璧すぎる条件が揃っている。ただの荒れ地ではない。まるで、誰かがこの場所を用意して待っていたかのような、不自然なほどの豊かさだった。
「すごい……綺麗な場所ですね」
アリアが湖面を吹き抜ける風に髪を揺らしながら、感嘆の声を漏らす。
ダグラスもまた、岩肌に露出した鉱石を指で撫でながら、信じられないといった表情を浮かべていた。
「こいつは驚いた。こんな上質な鉄鉱石が、その辺に転がってやがる」
レオンは確信を持ちつつも、その異常なまでの好条件が意味するものを、まだ胸の奥にしまい込んだ。
「ここで休もう。これからは、ここが俺たちの場所だ」
荷物を下ろし、一息ついたところで。
レオンは二人の前に立ち、まっすぐな視線を向けた。
「俺たちは、ここに新しい村を作る」
その言葉に、アリアとダグラスが顔を上げる。
「ただし、ルールがある」
レオンの口調は、かつてなく厳格だった。
「一日八時間労働。週休二日。残業は一切禁止だ」
静寂。
風の音だけが響く。
「はあ?」
ダグラスが素っ頓狂な声を上げた。
「坊主、頭でも打ったか? そんなんで食っていけるわけがねえだろうが!」
「私、もっと働けます!」
アリアが一歩前に出る。
「レオンさんのために、いくらでも……!」
「ダメだ」
レオンは冷徹に言い放った。
「俺たちはもう、命を削って働くのはやめるんだ」
前世の記憶。机の上で途絶えた意識。
二度と同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。
「これは絶対のルールだ。守れないなら、今すぐここを出て行ってもらう」
その日の午後は、仮設のテントを張り、かまどを作るための石を集める作業に費やされた。
太陽が西の山際に沈みかけ、空が茜色に染まり始める。
「よし、今日はここまでだ」
レオンの声が響いた。
石を積んでいたダグラスの手が止まる。
「おいおい、まだ明るいぜ。あと少しでかまどが完成するんだ。キリのいいところまでやらせてくれ」
アリアもまた、集めた薪を抱えたまま戸惑ったようにレオンを見つめている。
長年、ブラック工房で染み付いた限界まで手を止めないという癖が、彼らの体を縛っていた。
「定時だ」
レオンは短く告げ、ダグラスの手から石を取り上げた。
「飯を食って、寝るぞ」
強制的に作業を終了させられた二人は、手持ち無沙汰な様子で焚き火の前に座った。
温かいスープが配られる。
星空の下、パチパチと爆ぜる火の音を聞きながら食事をとる。ノルマに追われることもなく、明日の納期に怯えることもない。
ただ、静かで穏やかな時間が流れていた。
「……なんだか、不思議な気分ですね」
アリアがスープの入った木の器を両手で包み込みながら、ぽつりとこぼした。
「ああ。こんな時間に飯を食って、あとは寝るだけなんてな。何年ぶりか忘れちまったぜ」
ダグラスもまた、焚き火の炎を見つめながら深く息を吐き出した。
戸惑いはある。しかし、彼らの表情には、久しく感じていなかった人間らしい生活への安堵が確かに広がっていた。
翌朝。
小鳥のさえずりで目を覚ましたアリアは、自分の体に起きている変化に驚愕した。
(体が……軽い……?)
長年、骨の髄まで染み付いていた重い疲労感が、嘘のように抜け落ちている。それどころか、体の奥底から湧き上がるような魔力と活力が、全身を満たしていた。
テントを出ると、ダグラスがすでに起きていて、自分の腕の筋肉を不思議そうに揉み解している。
「どうなってやがる。一晩寝ただけで、十代の頃みたいに力が漲ってきやがるぜ」
朝食を終えた後、ダグラスは試しにその辺に転がっていた木材を手に取った。
テントの補強に使う杭を作ろうと、軽くナイフを入れる。
シュッ、という軽い音。
木材はまるで吸い込まれるように美しい曲線を描き、ダグラスが力を込めるまでもなく、一瞬にして完璧な形状の杭へと変化した。
表面は滑らかで、寸分の狂いもない。
「なんだ、こりゃ……」
ダグラスは自分の手と、完成した杭を交互に見比べた。
アリアもまた、かまどの補強のために少し魔力を込めて土を固めようとした。
その瞬間、土は眩い光を放ち、鋼鉄のように強固で美しいレンガへと変成した。
「えっ……?」
アリアは震える手で、出来上がったレンガに触れた。
ほんの少し魔力を流しただけだ。それなのに、工房で徹夜して作っていた最高級の魔力レンガを遥かに凌駕する品質のものが、一瞬で完成してしまった。
規格外の完成度。
十分な休息を取り、本来の実力を取り戻した職人たちの力は、常軌を逸していた。
レオンは少し離れた場所から、その光景を静かに見つめていた。
彼らの実力が解放されたことは喜ばしい。このペースで開拓が進めば、村はあっという間に形になるだろう。
だが、レオンの胸の奥に、冷たいものが走った。
(早すぎる……)
この異常なまでの生産スピードと品質。
もしこれが外部に知れ渡れば、間違いなく新たな火種を生む。
果たして、この規格外の力を、誰の目にも触れさせずに隠し通すことができるのか。
豊かな森の奥深くで、レオンは一人、見えない脅威の気配に目を細めた。




