第1話 過労死の記憶と思い上がった領主への辞表
深夜の工房。むせ返る熱気の中、レオンは赤熱した剣身にハンマーを叩きつけていた。
三日連続の徹夜作業。
手元の剣の刃先が、二重にも三重にもブレて見える。呼吸は浅く、心臓が不規則なリズムで胸を叩いていた。
(あと十本……いや、二十本か……)
思考がまとまらない。ただ、目の前のノルマをこなさなければならないという強迫観念だけが、レオンの体を無理やり動かしていた。
だが、限界は唐突に訪れた。
振り上げた腕から力が抜け、ハンマーが床に転がり落ちる。
膝から崩れ落ちたレオンは、冷たい石の床に頬を打ちつけた。視界が急速に暗転していく。
その瞬間、脳裏に全く別の光景がフラッシュバックした。
無機質な白い蛍光灯。山積みの書類。鳴り止まない電話。
『君がやらないで誰がやるんだ』という上司の怒声。
そして、パソコンのモニターを見つめたまま、心臓を鷲掴みにされたような激痛とともに意識が途絶えた記憶。
「……っ!」
レオンは大きく息を吸い込み、目を見開いた。
冷や汗が全身を濡らしている。過労死。そうだ、俺は前世で、会社の理不尽な要求に応え続けた末に、机の上で死んだのだ。
なぜ今まで忘れていたのだろう。今の自分は、あの時と全く同じことを繰り返しているではないか。
翌朝。工房の広場には、疲労困憊の職人たちが整列させられていた。
誰もが目の下に濃い隈を作り、虚ろな表情でうつむいている。レオンもまた、ふらつく足で列の端に立っていた。
「昨夜の進捗が遅すぎる! お前たちは給料泥棒か!」
壇上に立つ工房長が、肥え太った腹を揺らしながら怒鳴り散らした。
倒れたレオンを気遣う言葉など、当然のように一言もない。それどころか、工房長は手元の羊皮紙を丸めて振り回した。
「今日から一日のノルマを二割増しとする! 終わるまで帰ることは許さん!」
絶望の溜息が広場に漏れる。だが、誰一人として反論する者はいない。
レオンは冷ややかな目で工房長を見つめていた。
前世の記憶を取り戻した今の彼には、この環境がどれほど異常であるかが痛いほどよくわかった。
適正な休息も与えられず、ただひたすらに命を削って生産を強要される。
これは労働ではない。搾取だ。
前世の俺は、逃げる勇気を持てずに死んだ。だが、今世でも同じ結末を迎えるつもりは毛頭ない。
朝礼が終わり、作業場に戻ったレオンは、付与魔法の区画で足を止めた。
淡い光を放つ魔力炉の前で、アリアがふらりとよろめいていた。
「アリア!」
レオンが駆け寄るより早く、監督役の男が彼女の腕を乱暴に掴んだ。
「休むな! まだ付与が終わっていない剣が山ほどあるんだぞ!」
「す、すみません……でも、もう魔力が……」
アリアの顔は蒼白で、額には脂汗が浮いていた。魔力枯渇の初期症状だ。
しかし監督役は舌打ちすると、腰のポーチから濁った緑色の液体が入った小瓶を取り出した。
「これを飲んで続けろ」
それは粗悪な魔力回復ポーションだった。無理やり魔力を絞り出す代償として、激しい吐き気と頭痛を引き起こす劇薬だ。
アリアが顔をしかめて拒もうとするが、監督役は無理やり彼女の口に瓶を押し当てた。
「やめろ!」
レオンが男の腕を弾き飛ばす。小瓶が床に落ちて砕け、異臭を放つ液体が広がった。
「何をする、レオン! こいつの作業が遅れれば、お前たちの連帯責任になるんだぞ!」
「魔力枯渇で倒れかけている人間に、そんな劇薬を飲ませるバカがどこにいる」
レオンの静かだが凄みのある声に、監督役は一瞬怯んだ。だが、すぐに下卑た笑みを浮かべる。
「ふん。いい気なもんだな。だがな、アリアがいるせいでレオンが無理をしているんだぞ。こんな足手まとい、庇うだけ無駄だ」
その言葉に、アリアの肩がビクッと跳ねた。彼女はうつむき、唇を強く噛み締める。
「……大丈夫です、レオンさん。私、まだやれますから」
無理に作った笑顔が、レオンの胸を締め付けた。
彼女は自分の技術不足を気に病み、レオンの負担にならないよう必死に耐えているのだ。
このままでは、彼女の心も体も壊れてしまう。レオンの奥底で、冷たい怒りの炎が静かに燃え上がった。
その日の午後、レオンは鍛冶場へと足を運んだ。
そこでは、熟練の鍛冶師であるダグラスが、火の落ちた炉の前で丸太椅子に腰掛け、じっと動かずにいた。
「ダグラスさん。手が止まってますよ」
レオンが声をかけると、ダグラスはゆっくりと顔を上げた。その顔には、いつもの豪快な笑みはなく、深い疲労と諦念が刻まれていた。
「……レオンか。見ろよ、これを」
ダグラスが足元に転がっている鉄鉱石を蹴り飛ばした。鈍い音を立てて転がったそれは、不純物だらけの粗悪品だった。
「こんなクズ鉄で、まともな剣が打てるわけがねえ。だが領主様は、材料費を削った上で、納期を半分にしろと抜かしやがった」
ダグラスの太い指が、膝の上で白くなるほど強く握りしめられている。
「どうせ言われた通りに作ればいいんだろ。品質より納期だ、適当に誤魔化しとけってな。俺の三十年の腕は、こんなゴミを作るためにあったのかよ……」
自嘲気味に吐き捨てられた言葉には、職人としての誇りをズタズタにされた男の悲哀が滲んでいた。
かつては誰よりも良いものを作ることに情熱を燃やしていたダグラスが、理不尽な環境に心を折られようとしている。
レオンは無言で彼の肩に手を置いた。慰めの言葉など、今の彼には何の意味も持たない。
必要なのは、この腐りきった環境からの脱却だ。
夕刻。工房に不釣り合いな、華美な馬車が到着した。
降り立ったのは、この領地を治める領主ゲオゲオだった。肥満体を揺らし、傲慢な笑みを浮かべた彼の後ろには、無表情な家令のセバスティアンが控えている。
「皆の者、大儀である!」
ゲオゲオの甲高い声が広場に響き渡った。職人たちは作業を止め、重い足取りで集まってくる。
「王都の貴族から、特別な発注が入った。よって、現在抱えている全ての注文の納期を半分に短縮する!」
どよめきが起こった。ただでさえ限界を超えているというのに、さらに納期を半分にするなど不可能だ。
「お待ちください、領主様!」
たまらず声を上げたのはダグラスだった。
「今の材料と人員では、これ以上の短縮は無理です! せめてまともな鉄を——」
「黙れ、底辺職人が!」
ゲオゲオは扇子でダグラスを指差し、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「貴様らは私の命令に黙って従えばいいのだ! 口答えをするな! あぁ、そうだ。特別発注の経費を捻出するため、今月からの報酬は三割カットとする。光栄に思え!」
広場が水を打ったように静まり返った。
誰もが絶望に打ちひしがれ、反論する気力すら奪われていた。
ゲオゲオは満足げに頷くと、セバスティアンを振り返った。
「どうだ、セバスティアン。私の見事な采配は」
「……帳簿上の数字は、一時的に改善するでしょう。一時的には、ですが」
セバスティアンは感情の読めない声で淡々と答えた。その言葉の裏にある警告を、ゲオゲオは全く理解していないようだった。
レオンは静かに息を吐いた。
もう限界だった。これ以上、この狂った歯車の一部でいる必要はない。
その夜、レオンは工房の裏手にある廃屋に、アリアとダグラスを呼び出した。
月明かりだけが差し込む薄暗い部屋で、レオンは単刀直入に切り出した。
「俺は、この工房を辞める」
二人は息を呑んだ。
「辞めるって……レオンさん、本気ですか?」
「あぁ。このままここにいれば、俺たちは遠からず過労で死ぬか、職人としての誇りを完全に失う。どちらにせよ、未来はない」
レオンの言葉に、ダグラスが頭を掻きむしった。
「そりゃあ俺だって辞めてえよ。だが、どこに行くってんだ。他の工房に行っても、似たようなもんだぞ」
「だから、自分たちで作るんだ」
レオンは力強く断言した。
「領主の支配が及ばない辺境の地へ行く。そこで、適正な労働と十分な休息、安全な環境を徹底した、俺たちの村を作るんだ。まっとうに働き、まっとうに生きる。そんな当たり前の場所を」
アリアの目が、驚きから次第に希望の光を帯びていった。
「私……行きます。レオンさんと一緒に、その村を作りたいです」
「アリア……」
「私、もう足手まといになりたくないんです。自分の足で立って、レオンさんの隣で役に立ちたい」
彼女の決意に満ちた声に、ダグラスもふっと笑みをこぼした。
「やれやれ。若いもんがそこまで覚悟決めてんのに、俺が尻込みするわけにはいかねえな。俺のハンマー、お前さんの村のために振るわせてくれ」
「ありがとう、二人とも」
レオンは深く頷いた。
翌朝。
レオンはゲオゲオの執務室の扉を開け放った。
豪華なデスクの奥で、ゲオゲオが不機嫌そうに顔を上げる。傍らにはセバスティアンが控えていた。
「なんだ貴様は。無断で入室するなど——」
「辞表です」
レオンは羊皮紙をデスクの上に叩きつけた。
「俺と、アリア、ダグラスの三名。本日をもって退職します」
ゲオゲオは羊皮紙を指先で弾き飛ばした。
「はははっ! なんだと思えば、底辺職人が三人辞めるだけか! 勝手にするがいい。職人なんて代わりはいくらでもいる!」
「……そうですか。では、失礼します」
レオンは踵を返し、一切の未練なく執務室を後にした。
外には、荷物をまとめたアリアとダグラスが待っていた。三人は顔を見合わせ、晴れやかな足取りで辺境へと向かう街道を歩き出した。
一方、残された執務室。
ゲオゲオは鼻歌を歌いながらワイングラスを傾けていた。
「まったく、身の程知らずな愚か者どもめ。あんな連中がいなくなっても、痛くも痒くもないわ」
セバスティアンは手元の帳簿から目を離さず、淡々と口を開いた。
「ご報告いたします。先ほど退職した三名は、当工房の生産の九割を担っていた中核です。彼らが抜けたことで、特別発注の納期はおろか、通常の注文すら履行不可能な状態に陥りました」
「なんだと?」
「違約金と報酬の未払いにより、来月には領地の財政は完全に破綻します」
ゲオゲオの顔から笑みが消えた。だが、彼はすぐに首を横に振った。
「馬鹿なことを言うな! 数字などどうでもいい! 残った奴らを徹夜させれば済むことだ!」
現実から目を背け、声を荒らげる主君に対し、セバスティアンはモノクルの奥の目を細め、冷徹に告げた。
「彼らがいなければ、あなたは何一つできなかったのですね」
その言葉が執務室に冷たく響き渡る。
ゲオゲオは顔を真っ赤にして怒鳴り散らしたが、その声はもはや誰の心にも届くことはなかった。
破滅の足音は、すでに彼の背後まで迫っていた。




