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三千界戦:起源  作者: 天上天下天地無双刀
1章 無極城編
35/35

第35話 無極城編 · 終わり

 血が、刑台の上でゆっくりと広がっていく。


 ばんの視線が、ゆっくりと移り――断頭台へと落ちた。


 ちょうえんの顔は蒼白はくで、すでに呼吸はない。


 さらに、その隣――


 しんふく


 身体は断ち斬られ、血溜まりの中に静かに横たわっている。


 雨が、降り落ちる。


 ぽつり、ぽつりと。


 その婚礼衣装を、洗い流すように。


 赤は、いっそう濃く沈んでいく。


 ばんにとって、こうした光景は見慣れたものだった。


 見慣れすぎて――「初めて」という感覚すら、思い出せないほどに。


 世界は滅び、文明は再び築かれ、歴史は何度も繰り返される。


 人は生き、死に、やがて時間に消し去られる。


 生きて。


 また、死ぬ。


 友も、敵も、見知らぬ者も――すべて同じだ。


 死とは、ただの過程にすぎない。


 彼は、とうに慣れていた。


 ……


 ……


 ……


 ――本来ならば、そうであるはずだった。


 ばんは一歩前に進み、片膝をついた。


 指先が、ゆっくりと持ち上がる。


 その指の腹が、彼女の冷たい頬に触れた。


 雨水が彼女の頬を伝い、最後に残っていた血の痕を洗い流していく。


 かつて端正で気品に満ちていたその顔には、今や蒼白はくだけが残っていた。


 美しい女など、彼は数えきれないほど見てきた。


 国を傾けるほどの美貌。比類なき絶世の美女。


 長い歳月の中で――容姿などというものは、とうに意味を失っている。


 しん宓もまた、この旅路の中で出会った、ただの一人の少女にすぎない。


 少しばかり、顔立ちの整った少女。


 本来なら――そうであるはずだった。


 何の波も立たないはずだった。


 だが――


 ……


 どうしてだ……


 ばんの表情は変わらない。眼差しも、依然として静かなままだ。


 それでも、涙だけが――目尻から零れ落ち、しん宓の顔に落ちた。


 記憶が、不意に浮かび上がる。


 それは――無極城で初めて出会ったとき。


「お前が、しん宓か?」


「……すごく綺麗だな」


 それは――しんげんと顔を合わせたとき。


「兄上、新たにお招きした護衛です。名をばんと申します」


 それは――婚礼の前夜のことだった。


 花火の光が最も眩く弾けたその瞬間、

 光が、まだ幼さの残るその顔を照らし出した。


 それは、これまで誰にも触れられることのなかった彼女自身の感情を、そっと照らし出していた。


 涙が、静かに頬を伝い落ちる。


「やっぱり……」


「……私……」


えん様の妻には……」






 なりたくない……





 ばんの指先が、わずかに強くなる。


 そっと彼女の顔を支え、そのまま胸へと抱き寄せた。


 眉は深く寄せられ、呼吸は重く、乱れている。


 ばんは、長いあいだ抱き続けていた。


 ちょうはくもまた、長いあいだ泣き続けていた。


 やがて――


 雨が、止んだ。


 厚く垂れ込めていた雲がゆっくりとほどけ、押し潰されそうだった空に、かすかな灰白はくが覗く。


 ばんしん宓をそっと横たえた。


 その手つきは、変わらずやさしい。


 まるで――ただ静かに眠らせるかのように。


 やがて、ゆっくりと立ち上がり、背を向ける。


 いつの間にか、城の民衆が集まっていた。


 遠巻きに立ち、誰一人として近づこうとはしない。


 誰も口を開かず、ただ見つめているだけだった。


 しばらくして――


 群衆の中から、低い声が漏れる。


「……みんな、死んだ」


 かすかな声だったが、確かに広がっていく。


しん家も……終わりだろうな」


「そもそも、あいつらのせいで……」


 誰かが、歯を食いしばりながら言った。


「街がこんなことになったんだ……」


「そうだ……全部、あいつらのせいだ」


「呼び寄せたのは、あいつらだ……」


 声が、少しずつ重なっていく。


 囁き。


 不満。


 怒り。


 雨上がりの空気の中で、ゆっくりと醸されていく。


 そして――


 誰かが、腰をかがめて石を拾った。


「全部、あいつらのせいだ!」


 石が、力いっぱい投げつけられる。


 パシッ。


 地面に叩きつけられた。


 まるで、何かの合図のように。


 次の瞬間――


 石が、一斉に飛び交う。


 地面に、死体のそばに、


 そして――ばんの身体へと。


しん家のせいで、俺たちの家族は死んだんだ――!」


「戦を招いたのは、あいつらだ!」


「無極城がこんな有様になったのも、全部あいつらのせいだ!」


「俺たちを裏切りやがって! 死んで当然だ!」


 あらゆる感情は、どこかへ吐き出されなければならない。


 そして――死人は、決して抗わない。


 ばんは、無表情のままそれを見つめていた。


 やがて――


 一人の中年の男が、石を力いっぱい投げつける。


 弧を描いたそれは、まっすぐにしん宓の亡骸へと向かっていった。


 その瞬間――


 ばんが、手を上げる。


 石は、その手の中で受け止められた。


 次の瞬間。


「――バンッ!」


 男の頭部が、その場で弾け飛んだ。


 赤とはくが飛び散り、遺体はそのまま後方へと倒れ込む。


 広場は、一瞬で静まり返った。


 すべての表情が、その場で凍りつく。


 恐怖が広がり、誰も息を呑み、誰も声を発することができない。


 ばんの視線が、ゆっくりと群衆をなぞる。


 その声は、どこまでも平静で、わずかな揺らぎもなかった。


「三つ、覚えておけ。」


「一つ。」


「今後、しん家を侮辱する人がいれば――」


「その場で、全員殺す。」


「覚えておけ。」


「“全員”だ。」


 静寂。


「二つ。」


「俺がここを離れるまで、口を開くな。」

「喋ったら殺す。」


 人々は、息を呑んで一斉に口をつぐんだ。


「三つ。」


「無極城に、しん家の墓を建てろ。」


「毎年、必ず弔え。」


 彼は、淡々と群衆を見渡す。


「一度でも怠れば――」


「二度と弔う必要はなくなる。」


 言い終えると――


 群衆は、獣のように散り散りに逃げ出した。


 転び、起き上がり、ただひたすらに走る。


 あの男から、離れるために。


 その視線から、逃れるために。


 転ぶ者もいれば、這い上がる者もいる。


 中には靴を履く間も惜しみ、ただ一刻も早くこの場から、あの男の視界から逃げ出そうとする者さえいた。


 ばんは無表情のまま、ちょうはくへと視線を向けた。


 彼女の顔には血の気がなく、唇はかすかに震えていた。


「……私も、死ぬの?」


 ばんは、困ったようにわずかに笑う。


「まさか。」


「今この世界で――」


「俺の考えていることを理解できるのは、」


「たぶん、お前だけだ。」


「そんなお前を、殺せるわけがないでしょう。」


 彼は一瞬、言葉を切る。


「少し、用意してほしいものがある。」


「萌萌っていうはく馬を一頭。」


「それと、走れる馬をもう一頭。」


「それから、馬車を一台。」


 ちょうはくはしばし沈黙した。乱れた髪から雨粒が滴り落ちる。


 そして、低く言った。


「……ついでに、九門まで送ってくれる?」


「構わない。」


 ばんは、あっさりと頷いた。


 ちょうはくは小さく頷き、それ以上は何も言わずに背を向けて去っていった。


 ばんは広場の中央へと歩み寄り、地面に突き立てられていたえん氏の旗を二本、片手で引き抜く。


 雨に濡れた旗布は、重く、冷たい。


 まず一枚を広げ、しん宓の二つに分かれた遺体を丁寧に包み込む。


 続いてもう一枚で、ちょうえんの身体を覆った。


 それから、周囲を見渡す。


「妙だな……ちょうえんの切り落とされた手、さっきの戦いで失くしたのか?」


「……まっいいや。」


 ふと、何かを思い出したように。


 ばんは踵を返し、しん宅へと向かう。


 目の前の門はすでに崩れ落ち、折れた梁や柱が地に横たわっていた。


 そのまま中へと足を踏み入れる。


 庭は荒れ果て、折れた梁柱が散乱し、護衛や下僕たちの遺体があちこちに転がっている。


 視線が、一つ一つの倒れた人影をなぞっていく。


 そして――


 幾多の亡骸の中で、その目がふと止まった。


 その男は、壁にもたれかかっている。


 茶褐色の衣は血に濡れ、黒く沈んでいた。


 長槍はなお手に握られ、石突が地に触れている。


 身体は壁に預けたまま、立つようにして――


 すでに、息はなかった。


 しん


 その瞳は、まだ半ば開かれていた。


 まるで――前を見据えているかのように。


 胸から腹にかけて、無数の刀傷が走っている。


 浅いものもあれば、


 深いものもある。


 だが――背に受けた傷は、一つとしてなかった。


 ばんは、その場に立ち尽くし、しばし見つめていた。


 やがて、そっと手を伸ばす。


 彼女の瞼を、静かに閉じた。


「……ご苦労だった。」


「どうか、ゆっくり休め。」


 そのすぐ近く。


 府庫の扉が、半ば開いている。


 錠はすでに壊れ、歪んだまま扉にぶら下がっていた。


 ばんは府庫へと足を踏み入れた。


 室内はがらんどうで、箱や棚は荒らされ、破片が散乱している。


 まるで誰かに乱暴に一通り漁られ、何一つ残されていないかのようだった。


 彼は周囲を見渡すが、収穫はない。


 踵を返そうとした、その時――


 足が、ふいに止まる。


 視線が、壁へと吸い寄せられた。


 そこに――


 血があった。


 一筆。


 歪み、崩れた線。


ばん


 筆致は乱れているが、込められた力は異様に深い。


 ばんはすぐに、その傍らにある石造の大きな箱へと目を向けた。


 しばし思案したのち、ばんは片手で石櫃の縁を掴み、ゆっくりと力を込める。


 重たい石の柜は、ぎしりと音を立てながら、少しずつ引き動かされていった。


 やがて、その背後に隠されていた――掘り抜かれた壁の暗がりが露わになる。


 その中には、大きな木箱が静かに収められていた。


 箱の傍らには、血に濡れた封筒が一通。


 表には、歪んだ筆致で一行――


ばん親啓」


「……しんげんか」


「最後まで、律儀なやつだ」


 ばんは封筒を拾い上げるが、すぐには開けない。


 先に木箱へと手をかける。


 蓋を開けると――


 金銀が積み重なり、薄暗がりの中で冷たく光を放っていた。


 ひと目だけ見て、再び蓋を閉じる。


 封筒を懐へとしまい込み、


 片手でそのまま木箱を担ぎ上げ、背を向けた。


 そして――府庫を後にする。


 その足が、わずかに止まる。


 視線は、庭へと落ちた。


 しん


 雨がすでに血を薄く洗い流している。


 長槍はなお彼女の傍らに寄り添い、まるでまだ手放していないかのようだった。


 ばんは、しばらくそこに立ち尽くす。


 やがて――


 木箱を地面に下ろした。


 庭の中を探し、一本の鉄製のシャベルを見つける。


 まだ踏み荒らされていない場所を選び、


 そこに刃を入れた。


 土は柔らかく、すぐに沈み込む。


 一掬い。


 また、一掬い。


 そして――


 一人を収めるのに、ちょうどいい深さになるまで。


 ばんしんをそっと抱き上げ、穴の中へと横たえた。


 衣の裾と髪を整え、その姿が少しでも整うようにする。


 それから――


 一掬い。


 また、一掬い。


 やがて、最後の土が静かに均されるまで。


 彼は周囲を見渡し、雨に押し伏せられた小さな花を一輪、摘み取る。


 それを、簡素な土の盛りにそっと挿した。


「……これで、勘弁してくれ」


 そうして、再び箱を担ぎ上げ、庭を後にする。


 外では、ちょうはくがすでに長く待っていた。


 両腕を組み、馬車の傍らに立ち、感情はどうやら落ち着いている。


 無表情のまま、ばんを見つめ――何も言わなかった。


 ばんは木箱を車内の片側に据え、続いてしん宓とちょうえんの遺体を慎重に運び入れる。


 布で覆い、縄でしっかりと固定した。道中の揺れで動かぬようにするためだ。


 やがて二人はそれぞれ馬にまたがり、左右から手綱を引いて、馬車を城門へとゆっくり進ませた。


 通りには人影ひとつない。家々は戸も窓も固く閉ざされている。


 それでも、隙間や障子の向こうから、無数の視線が注がれているのが分かる。


 息を潜めながら、隙間越しに様子を窺っていた。


 だが、誰一人として声を上げる者はいない。


 無極城には、ただ車輪の軋む音だけが響いていた。


 城門の外へ出たとき、ばんがふいに口を開く。


「――少し待て」


 そう言って、馬から飛び降りた。


 顔を上げる。


 城門の上――


 しんげんの首が、なおも吊るされている。


 雨上がりの風は穏やかで、縄がかすかに揺れていた。


 ばんは小石を一つ拾い上げ、指先で弾く。


「――ヒュッ」


 石は空を裂いて飛び、正確に縄を断ち切った。


 次の瞬間、首は落ち――彼の手の中へと収まる。


 彼は先ほどの鉄製のシャベルで、城門脇の地面を掘り、


 そこへ静かにそれを納めた。


 土を戻し、シャベルの背で丁寧に押し固める。


 すべてを終えても、ばんは何も言わない。


 再び馬にまたがり、手綱を引く。


 馬車は――ゆっくりと無極城を後にした。


 遠くの田野は雨に洗われ、黄ばみながらも鈍く光を帯びている。


 地平の雲はゆっくりとほどけ、幾筋もの陽光が隙間から差し込み、


 いくつもの虹となって、このはく黒の世界に再び鮮やかな色彩を描き出していく。


 車輪は湿った土を静かに踏みしめ、浅い轍を残す。


 二人の姿は、次第に遠ざかっていった。


 しばらくして――


 ばんがふいに口を開く。


「さらばだ、無極城」


 隣のちょうはくは、露骨に顔をしかめた。


「うっわ、」

「このオッサン、ひとりで何言ってんの。キモ……」


「おい……」

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