第16話 万里VS最強
万里が先手を取った。
全身の力を込めて長槍を投擲する。
手を離れた長槍は、耳を裂くような破風の音とともに空気を貫きながら、凄まじい速度で一直線に突き進んだ。
生じた風圧が砂塵を巻き上げ、地面の小石を弾き飛ばしながら、一直線の軌跡を描く。
放たれた一撃は、ほとんど間を置かず呂布の面前へと迫った!
だが呂布は、避けようとすらしなかった。
ただ片足を持ち上げ――
「ポン!」
槍身を正面から蹴り抜いた。
長槍は空中で激しく震え、軌道を大きく逸らされ、そのまま弧を描いて弾き飛ばされる。
「ふん、小細工」
しかし、次に視線を上げたとき――
万里の姿は、すでに消えていた。
「な……」
頭上の空気が歪む。
蹴り飛ばされた長槍が軌道が崩れきる前に
万里はその反動を利用して空へ跳び上がり、再び槍を掴み取った。
落下の勢いを乗せて体を翻し――
鋭い穂先が、秦祢を掴む呂布の腕へ一直線に突き込まれる。
耳をつんざくような風切り音とともにがさらに鋭さを増し、
槍先が空気を引き裂きながら真上から叩き込まれた。
呂布の視線が、わずかに動く。
方天画戟が横薙ぎに振るわれた。
圧縮された空気が、肉眼でも捉えられる弧状の衝撃となって解き放たれる。
万里の瞳孔が一瞬で見開かれた。
こいつ、……人間の動きじゃねぇ!
「轟ッ!!」
気刃が爆ぜるように拡散した。
万里の体が、空中で強引に弾き飛ばされた。
まるで巨大な槌で叩きつけられたかのように、後方へと叩き飛ばされる。
次の瞬間――
着地点の石畳が激しく砕けた。
破片が跳ね上がり、亀裂が放射状に走る。
土煙が一気に噴き上がり、街路には荒々しい爪痕が刻まれた。
万里は咄嗟に槍の穂先を地面へ突き立てた。
そのまま、数十メートルにわたって地面を滑らされる。
彼は遠くに立つ男を見据え、思考を巡らせた。
呂布は万里が攻めてこない様子を見ると、
口元をわずかに歪めて言った。
「どうした、来ねぇのか?」
「母親でも恋しくなったか?」
万里は両手を軽く広げ、余裕のある仕草を見せた。
「まさか、」
「名を轟かせた猛将ともあろう者が、女一人を盾にして戦うとはな」
呂布はそれを聞いても、何も答えなかった。
その屈強な手が、ふっと力を抜く。
秦祢の体が前へとよろめいた。
「はっ……はぁ……!」
堰を切ったように息を吐き出す。
喉を押さえたまま、何度も激しく咳き込んだ。
手首には、まだ掴まれていた感触が鈍く残っている。
呼吸は乱れ、胸が大きく上下する。
やがて――
胸の奥で、怒りが静かに煮え立ちはじめた。
その瞳に、冷たく鋭い光が宿る。
踏み越えられた矜持が、内側から熱を帯びて燃え上がった。
ここで引くわけにはいかない――
彼女は佩剣を一気に引き抜いた。
鋭い寒光が閃き、
剣先が一直線に呂布の喉元へと走る。
その瞬間――
視線が、呂布の眼と交わった。
底の見えない、静かな殺意。
呂布の姿が、わずかにずれたように見えた。
気づけば、秦祢は見上げていた。
視界いっぱいに、重厚な甲冑が迫る。
輪郭は鈍く膨れ上がり、その存在はもはや血肉の人ではなく、
大地に根を張る巨山のように感じられた。
その存在そのものが、越えられぬ巨山のように立ちはだかる。
揺るがず、沈黙し、決して動じない。
その“巨山”の影の下に立たされたとき、
秦祢は初めて思い知った。
これまで積み重ねてきたものも、
歩んできた人生さえも――
あまりにも小さく、滑稽なものだったのだと。
呂布は、まったく動かなかった。
構える素振りすら見せず、
ただ嘲るように視線をわずかに落としただけだった。
それだけで。
秦祢の呼吸が、止まった。
真っ直ぐ突き出された剣先が、空中でぴたりと静止した。
腕には力が入っている。
それでも身体が前へ進まない。
本能が筋肉の動きを押さえつけていた。
瞳がわずかに見開かれる。
空気が重い。
身体の震えが止まらない。
歯を食いしばり、
唇が白くなるほど力を込めても、
恐怖が、押さえきれない。
気づけば涙が滲んでいた。
張り詰めた頬を、静かに一筋、伝い落ちていく。
呂布は、なおも笑みを浮かべていた。
「三秒」
「三秒やる。俺の前から消えろ」
秦祢の視界が、一瞬、白く飛んだ。
理性が、途切れる。
どうやって剣を収めたのか、自分でも分からない。
気づけば、背を向けて走り出していた。
「三ー」
「はっ……はっ……!」
息が荒い。
喉が焼ける。
肺が悲鳴を上げている。
視界が揺れる。
足がもつれそうになる。
それでも――
逃げる。
「二ー」
くくっ、と喉の奥で笑う気配。
あの存在から離れることだけを考えていた。
立っているだけで押し潰されそうな、あの男から。
ごめんなさい……甄俨様……
ごめんなさい……万里様……
ごめんなさい……みんな……
「一ー」
笑みを浮かべたまま、静かに。
秦祢の胃に吐き気が込み上げる。
喉が締まる。
涙が、走るたびに風に散っていく。
呂布は笑みを浮かべたまま、わずかに首を傾ける。
「やれやれ……そこまで構える必要もなかったというのに」
そう言うと、彼はゆっくりと足を踏み出した。
重厚な甲冑の靴底が地面を踏み砕き、低く鈍い音を響かせる。
万里の目前で立ち止まった。
距離はあまりにも近く、相手の息遣いさえ感じ取れそうだ。
呂布は両手を腰に当て、わずかに身をかがめ、万里の側顔に顔を近づける。
「お前にも、三秒をやろう」
声は低く、ほんの少しのからかいを含んでいた。
「俺の目の前から消えろ」
万里は退かない。
両手を腰に当て、頭を仰ぎ、相手の視線を真正面で受け止める。
口元に笑みを浮かべて言った。
「なら、お前には五秒やろう」
笑みを崩さずに応じる。
「余分の二秒――」
「郭汜と李傕、その二匹の小賊の死体を片付けるのに十分」
呂布は一瞬、目を見開いた。
そして、声を上げて大笑した。
「はははは!」
笑い声は周囲の空気さえ微かに震わせた。
「俺にこう言い返す奴は、お前が初めてだ!」
「よかろう――!さらに十秒やろう」
「その間に、甄宓という娘を連れて行け」
万里も笑い声を上げた。
まるで意地を張るかのようでもあり、命を賭けるかのようでもある。
「なら、二十秒やる」
「そのクズどもを連れて――さっさと退け」
「ぷっ、はははは――!!」
呂布も思わず笑い出す。
「はははは――はは――!!」
万里も負けじと笑い返した。
二人の笑い声が、戦場にこだまする。
笑い声はますます大きくなり、ますます近づいてくる。
最初は、わずかに嘲るような響きだった。
しかし次第に、二人の口角は強制的に横へ引っ張られ、
笑みは変形し、もはや制御を失ったかのようだった。
万里の顔の筋肉が微かに痙攣し、
口角の弧はどんどん大きく持ち上がる。
笑みはもはや感情から離れ、
ただ暴走する裂けるような狂気だけが残る。
目尻は引きつり、まぶたが上がりきって、限界まで昂ぶった感情が滲む。
呂布の笑いはさらに激烈になり、
口角は際限なく裂け、笑みはほとんど誇張され、
顔の輪郭はわずかに歪み、露出した歯は夜の闇に白く、鋭く光った。
笑い声はますます高く、
ますます鋭くなっていった。
まるで呼吸さえ断裂するかのように押しつぶされる。
もはや単なる笑いではなく、
限界に達した者だけが現す狂態だった。
二つの笑顔は、人間らしい温かみを徐々に失い、
ただ拡大し続ける狂気だけが残った。
そして、直後――
笑い声は突如として途絶えた。
弧を描く気刃が空を裂き、大地が轟く。
万里の腰から上の身体は、すでに跡形もなく吹き飛ばされていた。
街道は硬く引き裂かれ、真っ直ぐな深い傷跡が刻まれ、土砂が巻き上がり、沿道のあらゆるものが同じ高さで整然と断ち切られていた。
屋根の棟、梁、柱、壁――まるで見えぬ巨刃に一掃されたかのように、断面は滑らかで背筋が凍る。
衝撃はさらに拡散する。
半径数十メートル以内の建物も、董軍も、城衛軍も、住民までもが、腰の高さで両断されていた。
巻き上がる土煙、空へ舞う瓦礫や破片。
煙塵は瞬く間に広がり、街道全体を覆い尽くした。




