エピローグ 鳴らないポケベルの、その先へ
ここまで『殺意のバタフライ・エフェクト』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
いよいよ、第二部――そしてこの物語のエピローグです。
何度も過去をやり直し、誰かを救おうとして、そのたびに別の悲劇と向き合ってきた武沢たち。
タイムリープの謎も、黒幕の正体も、すべてに決着がつきました。
ですが、物語として本当に描きたかったのは、その“後”でした。
やり直せなくなった世界で、彼らはどう生きていくのか。
傷ついた記憶を抱えたまま、それでも未来へ進めるのか。
最後は少し静かな時間になります。
武沢たちの一回きりの未来を、最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
「――で? 君たちの主張を要約するとだな」
取調室のパイプ椅子の上で、老齢の取調官は深く溜め息をつき、分厚い書類の束をペラリと捲った。チカチカと点滅する蛍光灯のノイズが、取調室の殺風景なコンクリート壁に虚しく反響している。
「屋上で拳銃を突きつけてきた同級生の熊谷を取り押さえ、その背後にいた担任の神川を拘束した……そこまではいい。押収された凶器の銃と、神川の持っていた医療用メス、そして熊谷の指紋。それら客観的証拠は君たちの証言と完全に一致している。だがね、武沢君」
警察官は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、僕を刺すような眼差しで見つめてきた。
「君たちが主張する『タイムリープ』だの『別世界線からの通信』だの『取り憑く魂』だのというオカルトじみた戯言は、一体どこの現場調書に書けばいいんだ? ん? 警察の書類をナメているのかね?」
「……本当のことです。信じてもらえないのは分かっていますが」
僕は膝の上で両拳を固く握りしめた。
そうさ。信じてもらえるはずがない。
因果律、時間のループ、ポケベルに宿る魂の数字、そんなものは現代科学の枠組みにも、刑事訴訟法の手続きにも収まるはずがないのだから。
科学者武沢がこの世界線から完全に消滅した翌朝から、僕たちの現実は泥臭い『法と社会の手続き』へと引き戻された。
警察の家宅捜索により、熊谷が住むあの豪邸の地下室から、闇組織との繋がりをあらわす未登録の拳銃、そして遠藤美佳を縛り付けるために使われていたネガフィルムや現像写真といった脅迫の証拠が押収された。
熊谷の実父がかつて起こした轢き逃げ事件――神川の幼い娘が犠牲となり、そのままうやむやに処理された後、犯人である熊谷の父親が自殺を遂げた事件――その再捜査も開始された。
実父の死後、資産家である叔父の家系(すなわち神川の親戚)へと養子に入り、豪邸で何不自由ない生活を送っていた熊谷。神川は自分の娘を殺した男の息子が、何食わぬ顔で身内として血の恩恵を受けていることに狂気的な殺意を滾らせ、同時にその弱みを握って僕への復讐の駒として利用していたのだ。
血塗られた因縁。歪んだ愛憎劇。
世間や警察にとっては、それで「すべて解明された」のだ。
女子生徒への卑劣な脅迫、教員の狂気、高校生同士の血生臭い私闘。
新聞の社会面を飾る『平成の陰湿な事件』として、綺麗にラベルが貼られて処理されていく。
「……まあいい。君たちが恐怖のあまり混乱し、集団ヒステリーのような記憶の混同を起こしているだけだとしても、君たちが被害者であり、正当防衛の範囲で犯人を制圧したという事実は動かない。遠藤さんの証言も、井下君の証言も、細部まで完全に合致しているからな」
刑事は吐き出すように言うと、パイプ椅子から立ち上がった。
「君はもう帰っていい。……だがな、武沢君。君が背負ったものは、そう簡単に消えはしないぞ」
「……分かっています」
警察署の重い自動ドアを抜けると、むっとするような初夏の湿った風が吹き抜けていた。
アスファルトからは昼間の熱気が立ち上り、夕暮れの街には半袖姿の高校生たちが行き交っている。
警察署の玄関先には、井下と遠藤が待っていた。
ふたりとも疲れ果てた顔をしていたが、僕の姿を認めると、小さく肩をすぼめて微笑んだ。
「お疲れ、武沢。長かったな」
井下が缶コーヒーを片手に持ち、飲み口を不器用に指で弄ぶ。
「遠藤……大丈夫だったか?」
僕が声をかけると、彼女は静かに首を振った。
「ええ。神川と熊谷が警察に捕まったことで……あたしを縛り付けていた『あの写真やネガ』も全部押収されたわ。警察の人が、二度と世に出ないように証拠品として破棄してくれるって。……本当に、終わったのね」
そう呟く彼女の瞳には、まだ深い傷痕のような暗がりが残っていた。
事件が解決したからといって、彼女が受けた心と身体の傷が消えるわけではない。熊谷たちから受けた脅迫と屈辱は、これから先も、彼女のトラウマとして付きまとっていくのだ。
誰かを救うと、別の誰かが不幸になる。
過去を変えれば、その代償は必ず誰かの肉体と精神を削り取る。
僕たちは救われたのではない。
ただ、『これ以上の悪化を食い止めた』というだけの、泥塗れの生存者に過ぎないのだ。
「……武沢。これから、どうするんだ?」
井下が残っていた缶コーヒーを一気に飲み干し、静かに尋ねてきた。
「……松木に、会いに行こうと思う」
僕の言葉に、井下と遠藤は少し驚いたように顔を見合わせ、それから静かに頷いた。
放課後の夕暮れ。校門の近くで待っていると、カバンを抱えた松木奈々が歩いてくるのが見えた。
初めてタイムリープをした世界線で、冷たい遺体となって発見された彼女。
僕が幾度となく過去をやり直し、運命を捻じ曲げたことで、今の世界線での彼女は熊谷たちの魔手から外れ、ごく普通の高校生活を送っている。
「あ、武沢くん! 井下くんに遠藤さんも! どうしたの、みんな揃って?」
屈託のない笑顔を見せる彼女に、僕は思わず絶句する。
なぜなら僕の知っている松木の口調とは、かけ離れていたからだ。
彼女は、僕や井下のことを"くん"付けでは呼ばない。遠藤に限ってもそうだ。松木は誰かれ構わず名前を呼び捨てにする。
だが、目の前の彼女はまるで正反対の性格、そして少し高めで弾むような声。
僕は息を呑んだ。
ここは、必死に彼女を守るためにやり直してきた僕の知る世界線ではないのだと。
だが同時に僕はそのことを受け入れた。もうあの世界線には戻れないのだと。
でもいいさ。
目の前にいる彼女が僕の知る松木奈々とは違ってもーー生きているのだから。
胸を刺され、血の海に沈んでいたはずの松木が、こうして僕の目の前で笑っている。
「ううん、ちょっと松木の顔が見たくなってさ。体調はどう?」
「体調? 全然元気だよ! 最近、学校の周りで物騒な事件があったって聞いたから心配してたけど……武沢くんたち、怪我とかしてない?」
松木は心配そうに僕たちの顔を覗き込んだ。
(……やっぱり、何も知らないんだな)
僕は確信した。
彼女には、別の世界線で殺された記憶も、タイムリープの記憶もない。
彼女自身が起こしたタイムリープで、過去の自分の魂がぬいぐるみに宿り、《気づいて》と訴えかけていた悲痛な叫びも、すべては消え去った世界線の出来事なのだ。
彼女にとっては『何事もなく過ぎ去った平和な日々』という現実しか存在していない。
「うん、僕たちも平気だよ。……松木、そのバッグについてるぬいぐるみ、まだ持ってるんだな」
僕が彼女のスクールバッグを指差すと、そこにはあのキャラクターのぬいぐるみがぶら下がっていた。
「あ、これ? うん、昔からお気に入りなんだけど……最近なんだか、すごく愛おしく感じてさ。まるで、私をずっと守ってくれてたみたいな気がするの」
「…………」
僕は言葉を失い、ただじっとそのぬいぐるみを見つめた。
別世界線の彼女の記憶は消去された。
だが、世界線が変わろうとも、絶望の中でもがき続けていたという『痕跡』だけは、彼女の深層心理に生々しい温もりとして残っているのだ。
記憶は消えても、刻まれた痕跡は消えない。
それが、僕たちが過去を改変したことへの、切なくも残酷な『代償』だった。
「武沢くん? どうしたの、難しい顔して?」
「……ううん。なんでもないよ」
僕は無理に微笑みを作り、彼女の頭をそっと撫でた。
「松木。……元気でいてくれて、ありがとう」
「えっ……? なに言ってるの急に! 恥ずかしいじゃない!」
松木は真っ赤になって顔を背けた。
その姿を見つめながら、僕は胸の奥が張り裂けるような切なさと、猛烈な孤独感に襲われていた。
この世界線で、本当の真実を知っているのは僕と井下と遠藤の三人だけだ。
成功者となった未来の僕が作り出した狂気のタイムリープ。
弾き飛ばされた魂たちの悲鳴。
消え去った世界線で傷つき、死んでいった人々。
それらの記憶の全てを背負って、僕はこれからも生きていかなければならない。
彼女たちの穏やかな日常を守るために、僕は一生、この孤独な秘密を抱えて生きていくのだ。
「武沢くん! また後でポケベル打つからね! ベル友なんだからさ!」
松木が嬉しそうに手を振りながら去っていく。
「……ああ。またな」
僕はポケットの中で、二度と電源の入らない、冷たく、電源の落ちたあのポケベルを握りしめていた。
世界は収束した。
だが、僕たちの心と身体には、永遠に消えない『記憶の傷跡』が刻み込まれていたのだ。
松木の背中が夕焼けの街並みへ溶けて消えていくのを、僕たちはいつまでも無言で見送っていた。
オレンジ色に染まる通学路。遠くで響く踏切の警報音。どこかの家から漂ってくる夕飯の匂い。
すべてが平和で、どこまでも穏やかな平成初期の放課後だ。
だが、僕たち三人の間に流れる空気だけは、まるでこの世界から切り離されたエアポケットのように静まり返っていた。
「……変わっちまったな」
ぽつりと呟いたのは井下だった。
彼は履き潰したスニーカーの先で、アスファルトの小さな小石をトン、と蹴った。
「ああ。僕の知っていた松木とは……少し違う。だけど、あれがこの世界線での『松木奈々』なんだ」
「寂しくねぇのかよ、武沢。命がけで救ったってのに……お前が必死に守ろうとしたアイツの記憶も言葉も、全部別の何かに書き換わっちまってんだぞ」
「寂しくないわけ、ないだろ」
僕はポケットに突っ込んだ右手にぎゅっと力を込めた。そこには、二度と文字を浮かび上がらせることのない、ただのプラスチックの塊と化したポケベルがある。
「でもさ……生きてるんだよ。胸を刺されて、冷たくなって、言葉も交わせなくなったあの夜に比べたら……名前の呼び方が変わったくらい、どうってことない。生きて笑ってくれてるなら、僕はそれだけでいい」
「……お前、本当に損な生き方選んだな」
井下は苦笑混じりに鼻を鳴らすと、手にした空の缶コーヒーを指先で弄んだ。
「あたしたちも……同じよ」
静かに口を開いたのは遠藤だった。
彼女は風に揺れる髪を耳にかけながら、遠くの夕空を見つめている。
「あたしだって、熊谷たちに脅迫される前の自分に完全に戻れたわけじゃない。夜、部屋の電気を消すと……あの地下室の匂いや、カメラのシャッター音がフラッシュバックして、呼吸ができなくなる。体の中に刻まれた恐怖は、世界線が変わったって消えてくれないの」
「遠藤……」
「でもね、武沢。あたしは後悔してないわ。……あのポケベルを通じて、あなたの魂の叫びを聞いて、一緒に戦えたこと。過去の悲惨な運命から逃げずに立ち向かえたこと。それだけは……あたしの本当の強さになったと思ってる」
彼女の言葉には、どこか悲痛でありながらも、確かな一本の芯が通っていた。
傷は消えない。トラウマも消えない。
けれど、僕たちはただの被害者として打ちひしがれるだけの存在からは脱却したのだ。
「ここじゃなんだな。……どこか、落ち着ける場所へ行こうぜ」
井下の提案に、僕と遠藤は静かに頷いた。
僕たちが向かったのは、駅から少し離れた河川敷だった。
草の匂いと湿った土の香りが立ち込める堤防。黒くうねる川面の向こうには、街の街灯や住宅街の明かりがぽつぽつと灯り始めている。
三十年後の世界線で、神川が偶然落ちていたポケベルを拾い上げた場所。すべての狂気と狂言の引き金となった因果の原点が、この静かな河川敷だった。
僕たちは斜面の芝生に腰を下ろした。
井下はポケットから煙草を取り出すと、ライターの火をつけた。紫煙が夜の空気へと溶けていく。
「なぁ、武沢。お前、あの『未来の自分』を叩き潰したとき、何考えてたんだ?」
煙を吐き出しながら、井下が尋ねてきた。
「何って……ただ、猛烈に腹が立ってたんだと思う。六十を超えて科学者になったっていうあの男は、あらゆる選択肢を成功させて、完璧な人生を歩んできたって誇っていた。だけど……僕にはアイツが、一番惨めな人間に見えたんだ」
「惨め……?」
「ああ。失敗することや、誰かを失う傷から逃げ続けて、過去をこねくり回して……自分だけの『都合のいい世界』を作ろうとしていた。でも、人間ってさ、失敗したり、傷ついたり、取り返しのつかない後悔を抱えながら生きていくもんじゃないのか? 過去をやり直すってことは、それまで積み上げてきた自分や他人の人生を、全部『なかったこと』にする犯罪なんだよ」
僕は膝を抱え込み、川面を見つめた。
「そう考えたらーー僕も同罪なんだ。だから……叩き割った。もう二度とやり直せないように。たとえこの先、どれだけ不条理で悲惨な現実が待っていたとしても……僕は『今』という一回きりの人生を生きるんだって」
「……カッコつけやがって」
井下はフッと笑ったが、その目元はどこか温かかった。
「だけどよ、武沢。おかげで俺も決心がついたぜ。俺な、警察官を目指すことにした」
「警察官……? 井下が?」
思いがけない言葉に、僕は思わず井下の顔を見返した。
いつも学校をサボり、喧嘩ばかりしていたあの井下が、だ。それに今も未成年でタバコをふかしてる。
「笑うなよ。今回の件で痛感したんだ。世の中には法で裁けない狂気もあれば、警察の書類に書けない不条理もある。……だけどさ、神川や熊谷みたいな胸糞悪い奴らに、誰かの日常を無茶苦茶にされるのはもう懲々だ。俺は誰かを力づくで殴るんじゃなく、誰かの『日常』を守る側の人間になりてぇ」
「……いいじゃん。すごく似合ってると思うよ、井下」
僕が答えると、隣で遠藤も小さく微笑んだ。
「あたしも……進路を決めたわ。あたし、心理学の道に進もうと思う」
「心理学?」
「ええ。傷ついた人の心ってね、外からは見えないの。あたしも自分が傷ついて初めて分かった。熊谷たちみたいな悪意に踏みにじられた人の心に、寄り添えるような仕事がしたい。……二度とやり直せない世界だからこそ、今傷ついている人を救いたいの」
井下も、遠藤も。
過去改変の嵐に巻き込まれ、深い傷を負ったふたりが、すでに前を向いて歩き出そうとしている。
二度とやり直せない「今」を受け入れ、そこから自分たちの「未来」を構築しようとしているのだ。
「武沢……お前はどうするんだ?」
井下に問われ、僕は言葉に詰まった。
ふたりのように、明確な未来の目標なんて、今の僕にはまだ見えていない。
「僕は……まだ、わからないや。だけど……」
僕はポケットから、壊れたポケベルを取り出した。
液晶画面は暗く沈み、二度と数字を刻むことはない。
「……まずは、このガジェットが遺した記憶と、ちゃんと決着をつけなきゃいけないと思ってる」
「決着……?」
「科学者武沢は消えた。だけど、彼が遺していった破片……そして、このポケベルに閉じ込められていた僕自身の『過去の魂』の痕跡は、まだここにある。これをちゃんと、終わらせなきゃいけないんだ」
夜風が強まり、河川敷の草木をガサガサと揺らす。
僕たちは言葉を交わすのをやめ、ただ静かに、二度と戻らない過去と、これから訪れる果てしない未来の気配を、肌で感じていた。
河川敷で井下と遠藤と別れた翌日。僕は放課後の静まり返った街をひとり、歩いていた。
向かったのは、あの結末を迎えた夜、未来の僕――『科学者武沢』と対峙し、彼を消去した駅の路地裏だった。
錆びついた非常階段と、湿った雑草がへばりつくコンクリートの壁。
あの日、遠い未来から来た老いた僕と、対峙した場所だというのに、目の前の路地には何事もなかったかのように日常の風景が広がっていた。立ち込めるドブの匂い。遠くで響く電車の走行音。
僕はしゃがみ込み、視線を地面に這わせた。
薄暗いコンクリートの隙間に、一筋の鈍い光を放つ何かが落ちていた。
「……あった」
指先で拾い上げたのは、歪に押し潰された小さな基盤の破片だった。
科学者武沢が持ち込んだ未来の端末、そして僕が叩き割ったポケベルの残骸だ。
幾重にも張り巡らされた高密度の回路は焼き切れ、黒く煤けている。かつてタイムリープという『神の領域』の奇跡を起こした機械は、今やただの産業廃棄物に過ぎない。
掌の上でその冷たい破片を転がしながら、僕は路地の壁に背を預けた。
科学者武沢。
六十を超え、人生のすべてを捧げてタイムリープ技術を完成させた、別世界線の未来の僕の姿。
彼は狂っていた。己の過去を書き換え、失敗のない完璧な世界を作るためだけに、他人の人生や世界線の理を破滅に追いやった。
――だが、本当にそれだけだったのだろうか?
僕は胸のポケットに収めた、自分の死んだポケベルに手を触れた。
彼がタイムリープ技術を開発し始めた本当の動機。
それは、高校時代に松木を救えなかったという、耐えがたい後悔と猛烈な孤独だったはずだ。
失ったものを取り戻したいという、あまりにも小さく、純粋で、悲しい願い。
それが数十年という月日の中で歪み、執着となり、やがてモンスターのような自我へと膨れ上がってしまったのではないか。
「……あんたも、ただ傷ついていただけだったんだな」
誰もいない路地に、僕の呟きが虚しく消えていく。
科学者武沢は、未来の僕だ。
彼を「狂人」だと切って捨てるのは簡単だ。だが、一歩間違えれば、僕自身が将来あんなモンスターになっていたかもしれないのだ。
大切な人を奪われ、世界を憎み、過去にすがりつく哀れな男に。
僕は固く目を閉じ、掌の破片をポケットへと突っ込んだ。
彼を許すことはできない。彼が犯した罪も、僕たちに負わせた傷も消えはしない。
だが、彼の起点となった「孤独」だけは、僕がこの胸の中で引導を渡してやらなければならないのだ。
駅裏を離れた僕は、バスに乗り込み、市街地から少し離れた小高い丘の上にある霊園へと向かった。
夕暮れの風が吹き抜ける墓地。整然と並ぶ墓石の間に、目指す場所があった。
『神川家之墓』
白御影石の墓標の前に、僕は静かに立ち尽くした。
神川先生の幼い娘――かつて熊谷の実父が起こした轢き逃げ事故によって、わずか数歳でその短い生涯を閉じさせられた少女。
線香に火をつけ、花立てに小さな白い花を挿す。
神川先生もまた、狂気に囚われた被害者だった。
愛娘を殺され、その犯人がうやむやに処理され、挙句の果てに犯人の息子が親戚の養子として何不自由なく暮らしている現実。
法も警察も助けてくれない絶望の中で、彼は狂気に落ち、熊谷を脅迫し、そして僕たちを巻き込んだ復讐劇を画策した。
科学者武沢が過去を改変しなければ。
タイムリープという余計な介入が無ければ。
これほどまで深く、酷い形で殺意と憎悪が絡み合うことはなかったのかもしれない。
「……ごめんな」
僕は墓標に向かって手を合わせた。
「君のお父さんがやったことは、決して許されることじゃない。だけど……お父さんも、ずっと泣いていたんだと思う。君を失ったあの日から、時が止まったままだったんだ」
線香の煙がまっすぐに夕空へと立ち上っていく。
タイムリープは、誰も救わなかった。
死んだ少女が戻ることはなく、神川は罪人となり、熊谷の心は歪みきり、遠藤と井下と僕には消えない記憶の傷痕が残った。
過去をやり直すことの本当の恐ろしさは、失敗を消せることではない。
『やり直せる』という万能感が、目の前にある人間の悲しみや痛みを軽視させ、より酷い地獄へと誘うことなのだ。
風がそっと吹き抜け、線香の灰を散らした。
墓参りを終え、霊園の坂道を下りながら、僕はポケットの中の基盤の破片とポケベルを取り出した。
そして、坂の途中にあった古いゴミ箱の前に立つ。
科学者武沢の残骸と、二度と繋がらないポケベル。
僕はそれらを一瞬だけ愛おしそうに見つめると、意を決してゴミ箱の底へと投げ落とした。
コトン、と乾いたプラスチックの音が響く。
これで、すべてが終わった。
タイムリープという呪いも、科学者武沢という幻影も、僕たちの手で完全に打ち砕かれたのだ。
坂下に見える街並みに、夜の明かりがひとつ、またひとつと灯り始めていた。
二度とやり直せない、一回きりの夏が、静かに暮れていく。
季節は巡り、季節は初夏から本格的な夏へと向かっていた。
ジリジリとアスファルトを焼く太陽。校庭から聞こえる野球部の声と、頭上で鳴き始めた蝉の羽音。
あの大騒動から数週間が経ち、学校は何事もなかったかのように平穏な日常を取り戻していた。
神川先生と熊谷の逮捕は、一時期、社会面を騒がせる大きなニュースとなったが、流れる時の中で人々の記憶からは徐々に薄れつつあった。
警察の発表では「教員の狂気による生徒への脅迫事件」として処理され、そこにタイムリープだの、別世界線の通信だのというオカルトが入り込む余地は最後までなかった。
それでいい、と僕は思っていた。
真実を知っているのは、世界線を超えて泥塗れの生存者となった僕たち三人だけで十分なのだ。
「武沢、昼飯食おうぜ」
購買で買ったパンを両手に抱え、井下が僕の席にやってきた。
学ランの袖を捲り上げた彼の顔つきは、以前のような荒んだ刺々しさが消え、どこか晴れやかで頼もしいものに変わっていた。
「ああ。遠藤は?」
「図書室で勉強だってさ。あいつ、マジで心理学科のある大学を目指して猛勉強始めてるぞ。放課後も予備校通いだってよ」
「すごいな……。井下はどうなんだよ、警察学校の勉強は?」
「おう、ボチボチな。とりあえず赤点回避しねぇと話にならんから、遠藤にノート借りて必死こいて書いてる」
そう言って井下はガハハと笑った。
傷跡が消えたわけではない。遠藤は今でもたまにフラッシュバックに苦しんでいるし、井下もまた、事件の夜の重苦しい記憶を抱えて生きている。
だけど、僕たちは止まった時間にすがりつくのをやめ、二度とやり直せない「今」という時間を一歩ずつ歩み始めていた。
放課後。夕暮れの校門を出ると、前方を歩く松木奈々の背中が見えた。
「松木!」
僕が声をかけると、彼女はくるりと振り返り、弾むような笑顔を見せた。
「あ、武沢くん! 井下くんも! お疲れ様!」
屈託のない、明るい声。
"くん"付けで僕たちを呼ぶ、この世界線での彼女。
「松木、これから帰り?」
「うん! これから友達と駅前のショップに寄って帰るんだ。あ、そういえば武沢くん、最近ポケベル鳴らしても返事くれないじゃない? どうしたの?」
松木の無邪気な質問に、一瞬胸がキュッと締め付けられるような感覚があった。
「あ……ごめん。僕のポケベル、この前落として壊しちゃってさ。もう電源が入らなくなっちゃったんだ」
「えーっ、本当!? 残念……ベル友だったのに! 新しいの買わないの?」
「ううん、もういいかなって思って。……文字だけの通信じゃなくて、こうして直接会って話した方が、ちゃんと伝わる気がするからさ」
僕がそう答えると、松木は少し驚いたように目を丸くし、それから嬉しそうにニッコリと笑った。
「ふふ、なにそれ! なんか大人みたいなこと言っちゃって! でも……うん、そうだね。直接話す方がずっと楽しいもんね!」
松木はスクールバッグにぶら下がったぬいぐるみを指先で優しく撫でながら言った。
「じゃあね、武沢くん、井下くん! また明日、学校でね!」
「ああ。また明日な、松木」
夕日に照らされた坂道を、松木が元気に駆けていく。
僕の知っていた、呼び捨てで軽口を叩き合っていたあの世界線の「松木奈々」は、もうどこにもいない。
だけど、目の前で笑っている彼女もまた、僕が命がけで守った大切な「松木奈々」なのだ。
切なさと、愛おしさと、かすかな孤独。
胸の奥に広がるその感情を抱きしめながら、僕は彼女の背中をずっと見つめていた。
「……武沢。寂しくなったら、いつでも俺を呼び出せよ」
隣に立つ井下が、僕の肩をポンと強く叩いた。
「ベルが鳴らなくたって、俺たちはいつでも駆けつけてやるからさ」
「……ああ。ありがとう、井下」
腰のベルトから、あの黒いポケベルのケースはもう消えていた。
ポケットの中に手を突っ込んでも、冷たいプラスチックの感触はない。
あるのは、自分の手垢と熱を帯びた、何もない素朴な掌だけだ。
科学者武沢が作ろうとした、失敗のない完璧な世界。
けれど、失敗や傷があるからこそ、人は誰かの痛みに寄り添い、前に進む強さを手に入れられるのだと思う。
暗闇の中で震えながらポケベルに数字を打ち込んでいた夜は、もう終わった。
奇跡のガジェットも、タイムリープという呪いも、すべてはこの一回きりの夏の彼方へと過ぎ去っていった。
ふと見上げると、群青色へと変わりゆく夕空に、一番星がぽつんと輝いていた。
僕たちはもう、やり直さない。
どれほど残酷で、不条理な明日が待っていたとしても。
この傷跡の刻まれた身体で、二度と戻らない「今」を、どこまでも強く生きていくのだから。
風が吹き抜け、夏の匂いを運んできた。
あのポケベルの、鳴らない街で僕たちの新しい日々が、静かに始まろうとしていた。
最後まで『殺意のバタフライ・エフェクト』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
これにて、本編完結です。
この物語を書き始めた時から、一つだけ最後まで変えたくなかったテーマがありました。
それは、
「もし人生をやり直せたとして、本当に幸せになれるのか?」
という問いです。
過去に戻れば、失敗を消せる。
後悔した選択を変えられる。
救えなかった人を救えるかもしれない。
それは、とても魅力的な力です。
ですが、一つの過去を書き換えることは、その後に存在していた無数の人生まで書き換えてしまう"バタフライエフェクト"でもあります。
武沢は何度も失敗し、何度も誰かを救おうとし、そして最後には「もうやり直さない」という答えを選びました。
完璧ではない未来。
傷も、後悔も、失った記憶も残っている未来。
それでも、一回きりだからこそ大切にできる「今」。
そんな結末にしたかった作品です。
松木は、武沢の知っていた松木とは少し違う人間になりました。
遠藤にも消えない傷が残りました。
井下も、武沢自身も、何もかも元通りになったわけではありません。
それでも彼らは、生きています。
失敗しながら。
傷つきながら。
二度と戻らない時間の中を、これから歩いていきます。
最後の、
「あのポケベルの、鳴らない街で」
という景色が、この作品の終着点です。
《061102710――やり直せ》
あれほど武沢を過去へ引き戻し続けた数字は、もう二度と届きません。
だから今度こそ、彼らの物語は“未来”へ進みます。
ここまで長い物語に付き合ってくださった皆さま、本当にありがとうございました。
感想や応援をいただけたら、とても嬉しいです。
それではまた、別の物語でお会いできれば。




