【第二部】第八章 リセットは砕けたポケベルから
ここまで『殺意のバタフライ・エフェクト』を読んでくださり、本当にありがとうございます。
何度も何度も繰り返してきたタイムリープ。
誰かを救えば、別の誰かが傷つく。
正しい未来を選んだつもりでも、世界は必ず別の形で歪みを返してくる。
そんな終わりの見えなかった因果の連鎖も、いよいよ核心へと辿り着きます。
神川と熊谷を止めれば、本当にすべては終わるのか。
そして、これまで散りばめられてきたポケベル、ぬいぐるみ、数字のメッセージには、どんな意味があったのか。
今回は、その答えに大きく踏み込む回です。
最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。
屋上の重い鉄扉を開けるのは、これで一体何回目だろうか。
繰り返される時間の跳躍。だが、精神的にも肉体的にも、僕はすでに限界を迎えていた。
タイムリープによって時間は巻き戻っても、魂に刻まれた疲労と傷は、何一つリセットされずに引き継がれるらしい。重い鉛を飲まされたような体が、自由を奪っていく。
「井下、まずは神川を自由にしてはいけない。奴を無力化して、縛り上げるぞ」
「――了解だ!」
井下は手頃なロープを見つけると、夜の闇へと姿を消した。
僕はあえて無防備に姿を晒し、貯水タンクが迷路のように入り組む屋上へと足を踏み入れる。
「――神川先生! いるんだろ! 姿を見せて話し合おう!」
「話し合う? 今更何をとち狂った発言をするんだ武沢。やはりお前は落ちこぼれのクズだな。現状の置かれている立場がまったく分かっていない」
暗闇から姿を現した神川は、こちらの策を何ひとつ察していない様子で、余裕の笑みを浮かべていた。
その隙を、井下が見逃すはずもない。背後から影のように忍び寄り、神川の頸椎を締め上げるように羽交い締めにした。
「ぐっ……!? 貴様ら……!」
倒れ込んだ神川の手足を、僕らは速やかにロープで縛り上げる。念のため、口元にもガムテープを強く貼り付けた。
この用意周到な制圧劇に、神川は怨嗟の眼差しで僕らを睨みつけることしかできない。
残るは――熊谷!
数分後、扉を蹴り開けて現れたそいつを、僕と井下は待ち伏せ、容赦なく取り押さえた。地面に突っ伏させ、その背中に膝を叩きつける。
「て、てめぇら……! タイムリープしてやがったのか! でなきゃこんな一方的な真似ができるわけが……!」
「正解だ熊谷! お前と神川先生が手を組んでいたことには、最初こそ驚かされたがね」
直下に突きつけられた冷たい現実に対し、熊谷の瞳に剥き出しの狂気が宿る。
「一つだけ聞かせろ。お前と神川先生は、一体どういう繋がりなんだ? 一見すると何の関係もないように見えたが……」
僕の問いに、地べたを舐める熊谷はしばし沈黙したあと、吐き捨てるように言った。
「……別に言ってもいいさ。俺とそいつは、叔父と甥の関係だ」
「――!?」
僕と井下は絶句した。
熊谷の実父が自殺したあと、彼を引き取った『裕福な親族』――それが、神川の家系だったのだ。あの豪邸も、その血縁の資産。
そして、神川の娘は、熊谷にとって『義理の従妹』にあたる。
脳内で、バラバラだったピースが一気に噛み合っていく。
僕が過去改変によって死なせてしまった神川の娘。彼女は、熊谷にとっても家族だったのだ。家族を奪われた痛みを共有する二人が、僕を復讐の標的にするのは動機として十分すぎる。
熊谷が時折見せた僕への協力的な態度は、すべて自分を捜査から外すためのブラフ。完璧な復讐を遂行するための罠だったのだ!
だが――だからといって、松木や遠藤にした道徳なき蹂躙が許されるはずもない!
被害者の人生を破滅させておきながら何ひとつ痛痒を感じない、根っからの鬼畜。それがこいつらの本性だ!
「武沢――こいつら、どうする?」
井下が拳を握りしめ、殺気を押し殺した声で尋ねる。
「警察に突き出す。裁くのは法だ。僕たちじゃない」
僕は携帯電話を取り出し、通報した。
やがて、夜の街に赤色灯の光とサイレンが群がり、パトカーが数台階下に集まってくる。
拳銃を所持していた熊谷は銃刀法違反、神川もメスを所持していた現行犯だ。松木や遠藤の被害届が出れば当分の間、シャバの空気を吸うことはできないだろう。
これで、一連の悪夢は収束した。
明日からはまた、ごく普通の、どこにでもある高校生活に戻る。
――そう、僕は信じて疑わなかったのだ。
それから数日が過ぎた、ある日の放課後。
「お前はまだ、すべての謎を解き明かしていない」
駅の構内。下校中の生徒たちで賑わう人波の中で、突然そう声をかけられた。
声の主は、黒いフードを目深に被った人物だ。
街の喧騒から逃れるように、フードの男は僕を駅の裏手にある薄暗い路地へと誘導する。
怪しいとは思いながらも、不思議と殺意や悪意が感じられない。それどころか、どこか強烈な『既視感』に背中を押され、僕は素直にその男の後を追った。
「……こんな人気のない場所まで引っ張って、僕に何の用だ? それに、すべてを解き明かしていないって、どういう意味だよ」
僕の視線は、フードの下から覗く男の口元に向けられる。
「……ふふっ、種明かしをしてあげよう。お前はタイムリープした時、過去の自分の身体に『未来の魂』が入る現象について、疑問を持ったことはないのか?」
「……何が言いたい!?」
「同じ時代に、同じ人間の魂はふたつ共存できない。未来から新しい魂がやってくると、その時代に元々あった『過去の魂』は、押し出されるように弾き飛ばされるんだよ」
男の言葉に、背筋が凍りつくような寒気が走る。
「弾き飛ばされた過去のお前の魂は、どこへ行ったと思う? ……それはな、お前が肌身離さず持っていた、あの『ポケベル』だ。ポケベルこそがお前の魂の依代(器)だったのだよ。そして、遠藤はそのポケベルに残されたお前の魂の叫びを、彼女自身の感性で数字の暗号として解読し、メッセージとして変換していたに過ぎない。だからこそ、あの数字は彼女にしか解けなかった」
言葉が出なかった。
ポケベルに刻まれていた《061102710(やり直せ)》という不気味なメッセージ。あれは……過去に置き去りにされた『僕自身の魂』が、未来から来た僕に向けて発していた悲痛な警告だったのだ!
「そして松木もそうだ。過去へ跳んだ際、弾き出された彼女の元の魂は、彼女が一番愛着していた『ぬいぐるみ』に宿った。だからこそあのぬいぐるみは、自分が殺される運命を回避しようと、必死にメッセージを残そうとしていたのだよ」
「……っ! だが、あのロッカーにあった鍵も、ポケベルの存在も、未来の熊谷が差し入れた『聖書』の中に仕込まれていた! 一体誰がそんなことを……! 熊谷に指示を出した黒幕は誰なんだ!?」
「ふふふ……さあ、誰かな? もう薄々、気づいているのではないかい?」
男の手が、目深に被っていたフードへと伸びる。ゆっくりと捲り上げられたその顔を見た瞬間、僕は息をすることすら忘れた。
目元に刻まれた深い皺。白髪の混じった髪。
だが、それは間違いなく――毎日鏡の中で見ている『僕自身』の顔だった。
「お……お前は……僕なのか……!?」
「驚くのも無理はない。私は、お前がホームレスとして惨めに死んでいった愚かな世界線とは違う。あらゆる分岐の選択肢を誤らず、完璧な正解へと導いた――完成された存在としてのお前だ」
「成功者の……僕……ということか」
「今の私は科学者だ。誰もが望む究極のガジェット……タイムリープ・システムを完成させた男だよ。さあ、理解できただろう? お前たちをこの掌の上で躍らせていた『観測者』の正体が!」
老いた自分――科学者武沢は、嘲笑を浮かべながら上着の内ポケットから『それ』を取り出した。
金属の冷たい光沢を放つ、もう一台のポケベル。彼がこの時代へと跳んでくるために使い、そして未来へ帰るための「帰還用ガジェット」だ。
「さあ、過去の私。惨めな私よ。従うんだ。お前が諦めた完璧な未来を、私が構築してやる」
科学者武沢は、自画自賛するように両手を広げた。
だが――僕の胸の中に湧き上がったのは、感動でも感服でもなかった。猛烈な「怒り」と「拒絶」だった。
「断る」
「……何?」
「何度も経験してきてわかった! 過去をやり直すことは……他人の人生を奪うことにもなるんだ! 自分のために誰かを犠牲にし、過去を改変して得られる成功なんて……そんなものは人道に反している!!」
「ハッ、バカめ! 負け犬の倫理観か! 私はこのガジェットで、いつだって未来へ戻れるし、いつでもやり直せるのだぞ! お前のような落ちこぼれとは違う!」
「いいや――お前はもう、どこへも戻れない。戻させないっ!」
「な……なに……!?」
次の瞬間――僕は残された全神経を腕に集中させ、前傾姿勢で踏み込んだ。
隙を突かれた科学者武沢の目が見開かれる。僕は彼の右手から、あの帰還用ポケベルを力任せに奪い取った!
「なっ……何をする! 返せ!!」
「二度と……やり直させない!!」
僕はそのポケベルを、駅裏の冷たいアスファルトへ叩きつけた!
さらにブーツの踵で、粉々に砕け散るまで何度も、何度も踏みつけた!
バチバチッ! という電子音と火花が散り、ガジェットはただの歪な金属片へと成り果てた。
「あ……あああ……! 私の……私の帰還装置が……! バカな、何ということを……! これでは私は、未来へ帰れないではないか!!」
科学者武沢が悲鳴を上げ、膝から崩れ落ちる。
だが――本当の恐怖は、ここからだった。
突如、周囲の空気が重く澱み始めた。
科学者武沢の輪郭が、まるでノイズの走るホログラムのようにチラつき始める。
「な……なんだ……!? 体が……光が……!?」
僕は砕けたポケベルを踏みつけたまま、冷ややかに老いた自分を見下ろした。
「お前は科学者を名乗りながら……この世界の『絶対のルール』を忘れていたようだな」
「ルール……だと……!?」
「ひとつの時代に、同じ人間の魂はふたつまでしか共存できない。ひとつは僕の身体にある未来からきた魂。もうひとつは、あのポケベルの中に弾き飛ばさせてしまった僕の過去の魂……。だがお前は、三体目の武沢として、肉体ごとこの時代へ干渉してしまった」
科学者武沢の顔から、一瞬で血の気が引いていく。
「まさか……世界の修正力(バグの消去)が……!?」
「そうだ。未来へ帰る術を失い、この過去に囚われたお前は……この世界にとって『存在してはならない三体目の異物』として認識されてしまったんだ。過去の改変を繰り返したお前は、今度こそ世界そのものに消去されるんだよ!」
「嘘だ……! 嘘だ嘘だ嘘だ! 私は成功者だ! 私は完璧な未来を創り上げたのだぞ! こんな……こんなバカな過去の自分に……消されるはずが――!!」
科学者武沢の金切り声が、夜の路地に響き渡る。
だが、世界の因果は容赦なかった。
彼の肉体は足元から粒子のように崩壊を始め、強烈なホワイトアウトの光の中へと飲み込まれていく。
「貴様ぁぁぁぁぁぁッ――!!」
絶叫を残し、科学者武沢は魂ごと、この世界から完全に消滅した。
あとに残されたのは、夜の静寂と、砕け散ったポケベルの破片だけだった。
「……終わったんだね」
物陰から、足音が近づいてくる。
振り返ると、そこには井下と遠藤が立っていた。二人はすべてを目撃していたのだ。
「ああ……。僕のタイムリープ能力も、あのガジェットも……全部消えた」
ポケットの中を探る。
僕の持っていたポケベルの画面からは、あの《061102710》の数字が綺麗に消え去り、二度と動かないただの電子機器へと戻っていた。
「もう……やり直せないんだな」
井下が、どこか晴れやかな顔で呟く。
「うん。誰かを救えば、別の誰かが不幸になる……そんな歪んだ因果の連鎖も、これで終わりだ。これからは……どんなに辛いことがあっても、やり直しなんて効かない『一回きりの現実』を生きていくしかない」
遠藤が僕の隣に並び、そっと夜空を見上げた。
「……それでいいのよ。完璧な未来なんていらない。あたしたちは、傷つきながらも……今を生きているんだから」
東の空から、ゆっくりと朝焼けの光が差し込んできた。
平成が刻まれてからまだ数年。その街並みが、温かい茜色に染まっていく。
過去は変えられない。変えちゃいけない。失ったものも、背負った罪も、消えることはない。
けれど僕たちには――二度とやり直せないからこそ愛おしい、泥臭く眩しい「未来」が、目の前に広がっていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
今回、ついにタイムリープの裏側にいた「観測者」の正体が明らかになりました。
それは、まったくの第三者ではなく――別世界線で成功者となった、もう一人の武沢。
ホームレスにまで落ちぶれた自分。
過去を何度もやり直してきた自分。
そして、すべての選択を正解へ導いたと信じる科学者の自分。
同じ人間でありながら、選んだ道によってここまで違う存在になってしまった二人を、最後に対峙させてみました。
そして武沢が選んだのは、「完璧な未来」ではなく、「もう二度とやり直せない未来」です。
どれだけ後悔しても、失敗しても、過去へ戻って帳消しにはできない。
だからこそ、今の選択には意味があり、これからやってくる未来にも価値がある。
『殺意のバタフライ・エフェクト』という物語で描きたかったテーマの一つが、ようやくここまで辿り着きました。
ただ――本当に、これですべてが終わったのでしょうか。
武沢、遠藤、井下。
三人がこれから歩いていく「一回きりの未来」を、最後まで見届けていただけたら嬉しいです。




