プロローグ エンドロールから逆走する極彩色の走馬灯
はじめまして。作品を開いていただき、ありがとうございます。
この物語は、一人の男が人生の終わりを迎えた、その瞬間から始まります。
最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。
鼓膜を焼くのは、数多の生命が謳歌する絶頂の葬送曲――即ち、蝉時雨だ。
不快な熱風。それは大気の呼吸というよりは、世界そのものが発熱しているかのような、暴力的なまでの高熱。僕は、あるいは「俺」と呼ばれていた何者かは、光の刺突によって強制的に意識の表層へと引き摺り出された。
視界を貫くのは、ダンボールの隙間という、およそ文明的とは言い難い「スリット」から漏れ出す強烈な紫外線。
「――暑い……」
肺腑から漏れ出たのは、語彙力の欠如を露呈する嘆息。
無理もない。午前中にして摂氏三十五度を凌駕する猛暑日。安価なラジオが垂れ流していた気象予報は、今日という日が生存に適さないことを無機質に宣告していた。
幸いにして、網膜の先には「水」という名の救済が流れている。河川敷。ホームレスという名の自由業、あるいは社会の落とし子たちが集う、コンクリートの揺り籠。
両手を水面に浸す。
冷気。それは一瞬の特効薬。
掬い上げた液体を顔面へと叩きつければ、弛緩していた脳細胞がパチパチと音を立てて覚醒を始める。喉の渇きを癒すために、二度三度と掌の水を啜る。衛生管理? 公衆道徳? そんな高尚な概念は、空腹と渇きというプリミティブな生存本能の前では、紙屑ほどの価値も持たない。
「……日陰へ、避難するとしようか」
ぼやきながら、高架橋の下へ。
巨大な人工物が作り出す巨大な影。直射日光を遮るだけで、体感温度は劇的に――恐らくは二度か三度ほど――下降する。その微かな、しかし決定的な「涼」に誘われ、僕は抵抗することなく睡魔の軍門に降った。
――静寂を切り裂いたのは、怒声。
どれほどの時間を虚無に費やしたのか。高架橋の裏側を寝床にしていた僕の意識は、暴力的な音の粒子によって再起動を余儀なくされた。
視線の先、河原のキャンバスに描かれていたのは、あまりにも陳腐で、あまりにも醜悪な、青春の汚泥。
五、六人の学生服。
その中心で、一人の少年が胎児のように丸まっている。
思考するまでもない。
集団私刑――即ち、不可逆的な悪意の行使。
五十路を過ぎた「社会の残滓」である僕が、この惨劇に介入する理由は微塵も存在しなかった。正義感? 倫理観? そんなものはとっくにゴミ箱に捨ててきた。関われば、次は自分が標的になる。傍観者。それが正解だ。それが最適解だ。
けれど。
「……やりすぎだ」
言葉が、意志を無視して溢れ出した。
少年の嗚咽。絶望。それらが僕の古びた心臓を、汚れた軍手で握り潰すかのような錯覚。
気づけば僕は、獣たちの前に立っていた。
「やめろ」
自分でも、自分の行動に注釈がつけられない。
「あん? なんだオッサン。何様だ、そのツラは」
獣の一人が、鋭利な視線で僕を刺す。
「……その子が何をしたかは知らないが、度が過ぎている」
声が震えている。恐怖という名の生理現象。
見窄らしい、浮浪者の、社会の敗北者。そんな男が放つ言葉は、彼らにとっては滑稽な羽音に過ぎなかった。
「マジかコイツ。死臭の漂うホームレスが、教育的指導かよ? ぶち殺されたいのか、あぁん!?」
暴行は止まらない。言葉の合間にも、少年の肉体には靴底という名の衝撃が刻まれていく。
「やめないか!」
僕は叫び、反射的に目の前の男を突き飛ばした。
それが、決定的な「終わりの始まり」だった。
「――こいつ、この薄汚い手で、俺に触りやがったな……!」
言葉の終端と同時に、僕の視界が爆ぜた。
顔面への打撃。脳が揺れる。身体は枯れ葉のように舞い、硬い地面へと叩きつけられた。
「おい、予定変更だ。まずはこのゴミを片付けようぜ」
標的の移譲。
少年から僕へ。暴力という名のベクトルが、一斉に僕を指向する。
「……逃げて」
僕は、必死に絞り出した。
少年はその声に弾かれるように立ち上がり、一目散にその場を去った。それでいい。それで、計算は合う。
「あ! あの野郎逃げやがった!」
「構わねえよ。あいつはいつでも狩れる。まずはこの、身の程知らずのクズを分からせてやろうぜ」
その後、どれほどの間、僕が「肉塊」として扱われたのかは定かではない。
気づけば、周囲に人の気配は消え、夜の帷が全てを覆い隠していた。
指先一つ動かない。瞼を持ち上げるだけでも、一生分のエネルギーを要する。
思考は霧散し、ただ一つの、あまりにも救いのない感情だけが、僕の脳裏を蹂躙した。
(ああ……なんて……救いようのない、くそったれな人生だったんだろう)
やがて。
視界から色彩が抜け落ち、全てが雪白の虚無へと染まっていく。
僕の物語は、ここで完結したはずだった。
プロローグを読んでいただき、ありがとうございました。
ここまでは主人公の「終わり」を描きました。
ですが、この物語はここから始まります。
もし少しでも続きが気になりましたら、第一章も読んでいただけると嬉しいです。




