19.囁き声が聞こえて怖いです
護衛騎士たちは馬車の周囲を確認し、二名を残して待機させる。
俺とリリア、リカルド、タロウ、護衛騎士八名。
それから、黒餓石の気配を調べるために同行している若い魔法兵が一人。
少人数と言っていいのか、微妙な人数だが、王子の護衛としては少ない方だろう。
人数が多いと、俺がこっそり魔法を使いにくいので、まぁよかった。
道の途中、木の幹に奇妙な傷があった。
爪痕だ。
三本線。
それがいくつも、同じ方向へ向かって刻まれている。
「灰牙狼の縄張り印です」
リカルドが言った。
「昨日の襲撃に参加した群れのものかもしれません」
「その灰牙狼は、角持ちに従っていたんだよな?」
「はい」
タロウが頷く。
「ですが、灰牙狼は元々私たちの群れにいたわけではないので、角持ちがどこかから呼び寄せたのだと思います」
「なるほどな」
***
森の奥へ進んでいくごとに、俺は先ほどから感じていた視線をさらに強く感じ、ふと足を止めた。
「アルト様?どうかなさいましたか?」
リリアがすぐに気づく。
「……いや」
俺は森の奥を見た。
黒い幹が幾重にも重なっている。
昼間だというのに、木々の間は夜の底みたいに暗い。
風が吹くたび、枝がこすれ合い、かさかさと乾いた音を立てた。
「気のせいかもしれない」
先頭を歩いていたリカルドが振り返る。
「何かありましたか」
「いえ。視線を感じた気がしただけです」
その言葉に、護衛騎士たちが一斉に周囲へ目を配り、剣の柄に手がかかる。
若い魔法兵が、腰の魔灯石へ触れた。
タロウも耳をぴんと立て、森の奥へ目を凝らしている。
「アルト様、少なくとも近くに魔物はいないようです」
「なら、気のせいか」
俺はそう言って歩き出そうとした。
だが、その瞬間、森の奥で赤い花が一輪だけ咲いているのが見えた。
それに、どこかから、甘い匂いがする。
花の匂い。甘い、甘い、蜜のような匂いーー。
「あれ……今、上に何か」
言いかけた瞬間、耳元で声がした。
《見ちゃだぁめ》
とても甘い声だった。
柔らかく、近く、そして不自然なほど心地よい。
俺は反射的に身を強張らせる。
「殿下?」
リカルドが振り向く。
どうやら、今の声は俺にしか聞こえていない。
リリアも俺の異変に気づいたのか、不安げに見つめる。
「アルト様?」
「……何でもない」
俺はそう答えた。
《ふふふ》
だが、何でもなくない。
その声はまだ耳の奥に残っていた。
俺は反射的に上を見そうになり、ぎりぎりで止めた。
すると、耳元に小さく笑う声がした。
《えらい。ちゃんと我慢できるのね》
俺はゆっくり息を吐く。
落ち着け、俺。
今ここで「誰かの囁き声が聞こえました」などと言えば、下手すると、リカルドが撤退すると言い出してしまう。
ーーそれは困る。
今更引き返したら、ここに来るまでの疲労と、小鬼という労働人材を得る貴重な機会を無駄にしてしまう。
それは、非常に困る。
だから俺は、何でもない顔をした。
「……少し、黒樹の森の空気に当てられただけです」
「本当ですか?」
リリアの目が細くなる。
「……あぁ、本当だよ」




